昭和48年10月6日、第4次中東戦争が勃発すると、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)加盟10か国は相次いで石油生産の10%削減を決定、石油の供給削減を断行した。つづいてOPEC(石油輸出国機構)は、10月16日から原油公示価格を70%引き上げ、さらに12月22日から2倍以上に引き上げることを決定した。そのため、わずか2か月の間に原油公示価格は3.8倍に急騰し、生産量の削減と原油公示価格の急騰によってオイルショックとなり、世界経済は大混乱に陥った。 わが国における1次エネルギーの73%は石油に依存しており、その99.7%は輸入に頼っていたことから、わが国経済は大きな影響を受け、このオイルショックは、折からのインフレーションに一層拍車をかける結果となった。そして田中内閣の日本列島改造論の展開によって引き起こされた土地の投機的な買占めを先駆けとして、国中に物不足パニックが現出し、狂乱物価の旋風を巻き起こした。物不足は生活物資から建設資材、石油化学製品、鉄鋼、セメントにまで及び、これによって物価は急騰し、企業経営者は原料不足とともに原材料の高騰に悩まされた。 このオイルショックを契機として、わが国を含めた世界経済全体が長期不況に突入していったのであるが、47年度から49年度にかけて建造された船舶や大型設備は、この世界不況に直面して過剰となり、造船需要は激減し、全世界の造船能力の50%近い能力をもっていたわが国造船業は、強烈な影響を受けることになり、手持工事量は49年3月をピークに下降しはじめ、既契約船のキャンセル、船種変更の続出もあって、51年12月末にはピーク時の5分の1に落ち込んだ。 この造船不況をより一層深刻にしたのは、オイルショックによる原材料の高騰と、インフレ圧力と人手不足による人件費の高騰であった。これに加えて46年8月の変動相場制移行により、高進してきた円高傾向がわが国造船業の国際競争力を低下させ、造船業の経営を圧迫していった。このようにして造船業は、構造不況業種として深刻な危機に追い込まれたのである。 |
オイルショック当時、買い物客で混雑する店内
政府の石油小売り指導価格をかかげるガソリンスタンド
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