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日本文化と男らしさ女らしさ
 男と女の関係は陰陽の相補う関係、補完関係と言います。森信三先生は男らしさ・女らしさの否定に関して「大宇宙の神秘に対する重大な冒涜だ」とおっしゃっています。また、「ジェンダー・フリーというのは戦慄を禁じえない現象だ、男女の役割までもが同一であるかのような錯覚がまるで洪水のように氾濫して留まるところを知らず、母性の創始者の群れが巷に充満している」と今日を予感しておられたような文章もあります。そして「それは民族精神の見えない深層部まで侵食している」、男女同権のはき違いのところでは「男女の両性の本質が損なわれつつある。民族の運命を考える時に非常な弱体化と言ってよく、誠に深慮に耐えない現象である」と残しておられます。
 私は今、子育て支援など各地でシンポジウムを開いて議論を重ねているのですが、その時に男女共同参画についての議論が起こります。何を目的としているかは基本法第一条に「豊かで活力ある社会を実現する」とはっきり書いてありますが、男と女の違いを否定する事によって豊かで活力ある社会が実現するのか、それとも男と女の違いを認め和合し補完しあう事が活力ある社会を実現するのか、これは明らかに後者ではないでしょうか。ジェンダー・フリーは男女共同参画社会の真の目的には反すると思います。男女共同参画社会が目指しているのは「男と女が受ける機会が均等である」で男女平等は「男と女が性別で差別されないという権利が同等である」、この二つは正にその通りだと思いますがジェンダー・フリーは「男らしさ、女らしさより自分らしさを」ですのでスローガンから間違っています。男らしさ、女らしさを通って端午の節句や桃の節句はその事に気付かせるという事が大切だからです。端午の節句に関してはエドワード・シルベスタ・モースが「私はこの国で多くの祭日中、特に男子のための祭日が設けてあり、かつそれがかくまでも一般的に行なわれている事に心を打たれた」と書き記しています。また日本文化は男女の間に和の文化が成り立っていました。夫婦雛、夫婦松、夫婦箸、夫婦杉、夫婦茶碗、夫婦岩、相生の松、おしどり夫婦、お袋の味、うちのかみさんと夫婦は「夫」が上ですが決して男性上位という事ではないのです。イギリスのジョージ・サンソム外交官の夫人は「日本の男女の間には不思議な調和が見られます。妻であり母である女性がその家族の代弁者。陽気な女性にとって主人や家族を管理する事は何でもありません。女性が母のように優しく献身的である事は日本の社会にとって計り知れない貴重な財産です」と言っています。あるいはレビー・ストロイスは日本の農漁村、伝統産業において男女の役割分担や夫婦の共同作業が多い事に注目しました。西洋の言葉は男性優位で普通名詞も男女の区別をします。ドイツ語には「男先生」「女先生」、英語では「ウェイター」「ウェイトレス」、「牡牛」「牝牛」です。人を表すのは「マン」で人類も「マンカインド」と男です。ところが日本は文学作品でも『お夏清十郎』と女性が先です。これは日本の女性文化をよく表していて「かな文字」は本来、女文字で「なぎなた」も女性だけの武術、宝塚は女性だけ、しかし男性は文句を言いません。女性専用列車にクレームをつけるという事も聞いた事がありません。日本は昔から女性の価値を認める非常に珍しい文化なのです。日本の名作は何かを調べてみると『源氏物語』『枕草子』が挙げられます。つまり女流文学を日本の感性、代表作として認めている訳です。保田与重郎という人は「女性の気品というものはかつて日本歴史の華だった」と言っていました。しかし今はこの国から失われた「真施」「品格」が親にも教師にもそして子供も含めた日本人の中に失われているのです。それを取り戻すためには学校の道徳教育では間に合わない、家庭から教育を再建する以外にはないと思っています。
 武士の「武」は「矛を留む(ほこをとどむ)」という意味です。私はアメリカの二百四十万ページにも渡る占領政策を三十歳の時に研究したのですが、占領軍は武道というものを廃止しました。「武道は超国家主義、軍国主義で戦争に繋がる」という理由で廃止したのですがその孫がおじいちゃんの廃止した武道を習いたいと言い出し、大変皮肉な現象がアメリカで起きているという興味深い事がありました。「矛を留む」というのが本来の意味なのに、最近は桃太郎や金太郎が否定されて「桃から生まれた桃子ちゃん」という家庭科の教科書も生まれました。それから「おじいさんは川へ洗濯に、おばあさんは山へ柴刈りに」と昔話がジェンダー・フリーになってしまった、男らしさ女らしさを押し付けていると言っているのです。
 今、この国で非常に問題になっているのは少子化対策と子育て支援ですが、その支援について議論をすると必ずこういう主張にぶつかる事に気付きました。子育て支援を一生懸命やっている方達は「親の責任をあまり言ってはいけない」と言っているのです。そんな時、私はいつも「教育で一番大事なのは一人からの教育再興で主体変容、自分が変わる事なのだ。親が「誰かが悪い」と言っている限り子供は変わらない、だから親が変わる事は子供が変わる近道なのだ。親の責任という事をちゃんと伝えないといけない」と申し上げます。親の責任とは何なのか明確なメッセージを伝えないといけないのではないでしょうか。子育ては社会が担うのだ、親の責任だと言うからストレスが溜まって虐待などが起きているのだという主張もありますが、もちろん若いお母さんが孤立している状況があるのでお父さんがもっと子育てに参加しなければならないと思います。そういう意味では父親がもっと意識を変えないといけない、私は多くの労働組合にも講演に行っているのですが「皆さんは職場ではすごい存在感があるけれども家庭でも存在感を発揮して下さい。そうしないとこの国の教育は再生出来ないのです」と訴えています。お母さんをフォローするだけではなくて父親としての役割をきちんと果たさなくてはならない、父性的関わりがないから子供は反抗出来ないのです。ビートたけしの番組で六割の中学生に反抗期がなくなったという報告があっていましたが、それは熱く関わる親父がいなくなったからです。「父よ何か言ってくれ、母よ何も言わないでくれ」という標語が出てくるのも自然な事なのです。
 
今日の教育情勢
 今、この国でどういう事が起きているのか、私の意見も含まれているので異論のある方もあるかも知れませんが出来るだけ明確なメッセージをお伝えしたいので率直に申し上げます。一つは若い女性の意識が変わった、例えば「子育てはイライラする」と答えた若いお母さんは四分の三を超えています。その中で「自分の自由な時間がなくなるから」と答えたのは二十代に圧倒的に多くいました。つまり「子供を育てる事は自分の自由時間が奪われてイライラする」と考えていて、その背景には「子供を育てる事はただ働き」という意識が出てきたのではないでしょうか。男女雇用機会均等法が作られ女性の時間自体に価値があるという事が認識されて子育ての時間によって失う所得や機会、楽しみを意識するようになったのです。つまり保育所に預けて働いた方が得、という損得勘定が出てきたのではないでしょうか。TBSテレビが保育所に子供を預けているお母さんに「何故、生まれてすぐに子供を預けたのですか」とインタビューをしていました。あるお母さんは「愛着心が起きないうちに預けた方がいいと思ったから」と答えていましたが正に愛着というものがこの国の教育基盤であるというのにそれが自覚されていない、そして働いた方が得という意識でいるのです。それは幸福論ではなくて経済論で行なわれている子育て支援、経済政策や労働政策なのです。税金を納めている労働者のみの子育て支援、働いている親を支援するという政策なのです。リッツアという人が『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部)という本を出しましたが世の中がどんどん効率化しているその意味は効率性、計算可能性、予測可能性、不確実性の制御の特徴があると記しており、一言で言えば「合理化、効率化」です。しかし子供の心は先程から申し上げているように手間暇かけて心を込めて心を尽くして心を伝える、これを「真施」と言いますがそのプロセスを経ないと育たないものなのです。東京辺りではカラオケボックスに託児施設が出来ていて親が楽しむ一方で子供がどんどん犠牲になっているという事が起こっているのです。あるいは子供の眠りが危ないとも言われていますが夜十二時以降に寝る乳幼児の数が日本は異常に多いのです。生態リズムが乱れて子供達の内なる自然がどんどん破壊されている、環境破壊よりもっと深刻な形で進んでいるという事を大人達はもっと理解しないといけない、そして早急に対応しないと手遅れになってしまうのです。外国の子育て支援策は例えば「子供を育てる権利がある」と言います。また、北欧では在宅育児手当を与えている国があります。労働者としての親の支援ではなくて教育者としての親の支援をしている、それが「親学」であり親が親として育っていく事を支えるのです。親教育は世界のたくさんの国が国策として取り組んでいるところです。
 もう一つの幸せになる少子化対策としては経済政策のみで幸せになれるのかという事です。少子化しない社会の共通点は地域への愛着心、家の祖先に強い繋がりを感じるといった「命の繋がり」を大事にしているところだという様々なデータもあります。熊本のある地方では五十歳になると母校の小学校の運動会に全員が全国から戻って来て参加するそうです。そう考えると「子はかすがい」と言いますが、繋ぐ存在としての子供の価値を再発見する必要があるのではないでしょうか。ミヒャエル・デンテの『モモ』の中で主人公モモが時間貯蓄銀行の灰色の紳士から街に時間を取り戻したように人と人との繋がりから幸せを取り戻す鍵を握っているのは子供ではないでしょうか。若いお母さんは「自分の自由時間が奪われるからイライラする」と答えましたがメイヤロフは著書の中で「他から必要とされていないと感じているために自由だと感じるのではなく、むしろ他から必要とされたり他に身を委ねる何かがあったりする時にこそ自由だと感じる」と記しています。タリウムでお母さんを毒殺しようとしていた高校一年生が日記を残しています。私は全部読みましたがたった一日だけ人間的な記述がありました。それは幼稚園児と関わった時のもので幼稚園児が自分を必要としていた事で存在価値を感じた、そして自分の悩みというものが癒されていったという内容でした。人の世話をする事が一番大切な人間性知能を高める事に繋がってく、HQを高めるには乳幼児の世話が必要だと言った科学者もいます。ある中学生が幼稚園に行ってどう子供と関わってよいか迷っていたら向こうから園児が駆け寄ってきて「遊ぶか」と言ったという有名な話があります。また、単刀直入な言葉に感動して一緒に風船を飛ばしながら無邪気に遊んでいる子供の姿を見てとても幸せを感じたそうです。子供と子供らしい遊びをしながらその中に幸せを感じる事がセロトニンと関係がある訳ですが、私達は合理化や効率化の中で幸福という事の原点を見失っているのではないでしょうか。
 熊本の幼稚園で一ヶ月に一度、お弁当の日があったのに廃止になったという話を聞きました。「給食費を払っているのに弁当を作るなんて、お金を返せ」と言った保護者がいたので廃止になったのだそうです。私は「いただきます」の話も思い出しました。あるラジオ番組で給食費を払っているのに「いただきます」「ごちそうさま」を強制するのはけしからんという話を紹介したらたくさんの投書が来て三割のこの国の親達は「その通りだ」と賛成した、これが親心の喪失だと私は思いました。今、愛国心や宗教的教育、宗教情操教育が議論されていますがどんなに愛国心や宗教的情操の寛容という言葉を盛り込んでも家庭で自分が大事にされないでどうやって国を愛する心が育つ道があるでしょうか。私は青年会議所でも「日本人の誇りを持った子供をどうやって育てるか」という内容の講演をさせて頂いているのですが開口一番、「皆さん、子供におはようといっていますか?」と尋ねるとほとんど手が上がらない、おはようと言わないで日本人の誇りは子供達に育ちようがありません。まず家庭生活から変えないとこの国の教育は再生出来ないのです。
 師範塾は「親と教師が日本を変える。一人からの教育再興」を全国に向かって発信していきたいと思っています。親心を取り戻すために立ち上がりたい、一つだけ資料をご紹介して私の話を終わらせて頂きます。重度の脳性小児マヒに罹った少年の詩です。
 
『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』
ごめんなさいね おかあさん
ごめんなさいね おかあさん
ぼくが生まれて ごめんなさい
ぼくを背負う かあさんの
細いうなじに ぼくはいう
ぼくさえ 生まれなかったら
かあさんの しらがもなかったろうね
大きくなった このぼくを
背負って歩く 悲しさも
「かたわな子だね」とふりかえる
つめたい視線に 泣くことも
ぼくさえ 生まれなかったら
 
ありがとう おかあさん
ありがとう おかあさん
おかあさんが いるかぎり
ぼくは生きていくのです
脳性マヒを 生きていく
やさしさこそが 大切で
悲しさこそが 美しい
そんな 人の生き方を
教えてくれた おかあさん
おかあさん
あなたがそこに いるかぎり
 
 この国は今、虐待についても世代間連鎖が広がっています。テロは憎しみの連鎖です。その連鎖を止めるものは愛着以外にないと私は思っています。ペスタロッチが『母と子』の中で「人類から戦争を無くす唯一の道は母と子のスキンシップを回復するしかない」と記していますが、私は大学時代にこれを学んで誇張だと思い理解出来ませんでした。しかし今はつくづくその通りだと思います。その事をこの国の親達にもっと明確に伝えなくてはならない、日本が大事にしてきた「三つ子の魂、百までも」「しっかり抱いて下に降ろして歩かせろ」という事は世界に向かって発信していかなくてはなりません。何としても親学をこの福岡から全国に発信していきたい、そして脳科学を学校教育や家庭教育に活かすという事を教育改革に向かって発信し続けたいと思います。ご清聴ありがとうございました。


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