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第2章 解説
「混血児サラ・スペックスについて」
 サラ・スペックスは、東インド総督ヤックス・スペックスが平戸オランダ商館長時代に日本婦人との間に生れた娘で、兄弟姉妹の有無は不明である。ヤックスは二十代前半で二度平戸オランダ商館長となった。
 サラ・スペックスは、父ヤックス・スペックスが二度目の平戸オランダ商館長の任期が切れるとともに、父に伴われバタヴィアに渡っている。オランダ東インド会社の方針として、会社が同意すれば混血児のうち、男の子はオランダ本国まで帰国できるが、女の子は全てバタヴィアに留め置かれた。後に詳しい説明を付け加えるが、これはオランダ本国からやって来るオランダ東インド会社の商務員のためである。ただし、オランダ本国の議会においてオランダ人及び東インド会社の商務員の子供として正式に認められていれば別である。
 
 1610年、オランダ東インド会社は、東インドに赴任している独身商務員のために妻の斡旋を計画した。当時のピーテル・ボート提督は36名の未婚女性をオランダ本国から送り出したことがあったが、彼女たちが実は売春婦だとわかり、結局は不面目な結果に終わった。さらに、次のヤン・クーン提督は東インドで若い女性の奴隷を求めるのを止めにして、オランダの孤児院から若いオランダ人女性を求めることを決めた。提督は本国の17人会に「あなたがたは、本国のくず同然のあぶれものを送ってよこすばかりだし、ここ現地の者も、やはりくずばかり我々に売りつける。若い女性を送っていただきたい。そうすれば会社運営はもっと順調になると思われる。」との書簡を送った。このようにして、オランダの孤児院にいた若い女性たちは、未知の相手と結婚させられることを承知のうえで、オランダ東インド会社から衣食を与えられて船に乗せられ、はるか東インドに運ばれていった。渡った総数は不明だが、彼女らの大半が12歳〜20歳までで、およそ数十人の集団であっただろう。運ばれる船の中では、容姿の如何に問わずよくもてた。しかし、東インドは、オランダから15,000マイルと遠方のうえ、ヨーロッパの女性達にとってはバタヴィアの自然環境は余りにも過酷すぎた。ヤン・クーン提督の家族もバタヴィアに渡った数年後のうちに死に絶えてしまった。この計画も輸送中の船の治安とか諸々の理由で頓挫する。そこで、オランダ東インド会社は、日本などで宗教・政治的理由で追放された女性とか、経済的理由などにより南洋方面に向かった日本女性たち。日本・台湾・インドなどでオランダ商館に勤める商務員と、現地女性との間に生れた混血児を率先してバタヴィアに送るようになってくる。サラ・スペックスもその中の一人であった。
 
 1628年10月末、オランダでは秋期の大商船団が東インドに向かう予定で、準備を急いでいた。秋期大西洋の天候がよくなるのにあわせて、クリスマスまでに貿易船を東インドに向かわせる必要があった。総船団長として、ホランディア号に乗るのはサラの父ヤックス・スペックスである。オランダ本国の17人会において、次の東インド提督はヤックス・スペックスと決められていた。順調にいけばバタヴィアに到着するのは1629年8月で、久しぶりに父娘が再会を果たすことになる。しかし、ヤックス・スペックスは仕事の都合により大船団より少し遅れてオランダ本国を出発することになった。
 
 1629年6月、サラは鞭打ちの刑に服することとなった。サラ・スペックスは12歳の時であった。ヤン・クーン提督の命令によるものであった。罪状は、東インド総督邸内で、男性と関係を持ったことによる。相手の男性もまだ15歳の少年であった。男性はアムステルダム市の書記官の甥でもあり、検察官や東インド評議会も、ヤン・クーン提督に情状酌量を求めた。二人の関係は合意のうえ、結婚するつもりあることを示す証拠まであったに関わらず、提督は少年を斬首にした。サラも鞭打ちの後、溺死させられるところをかろうじて免れた。さすがに、ヤン・クーン提督も、次の東インド提督の娘の命を奪うことは憚られたのであろう。
 
 1632年5月、バタヴィアの町は結婚式の話でもちきりとなったようだ。その主役は、宣教師のジョルジウス・カンデデュウスとサラ・スペックスであった。この時、カンデデュウス35歳、サラは15歳であった。早熟とはいえあまりの新婦の若さにうわさの種となった。キリスト教の規定にのっとり、3回の結婚の告示をしたが、異議はあがらなかった。カンデデュウスは、1597年ドイツのファルツ生まれ、1621年ライデン大学において神学を学び、セバスティアナ・ダンカールツの影響を受け、1623年東インドに渡った。宣教師として1625年モルッカ、1627〜31年からは主として台湾の新港で勤務していた。その後、バタヴィアに戻り、サラ・スペックスと結婚をしている。台湾にキリスト教の基礎を築いた人と知られている。
 
 1633年6月サラは夫に伴われ台湾に渡り新港で暮らすこと三年、熱病にかかり、1636年19歳で同地に没した。死亡した年齢から逆算すると、1617年(元和二年)平戸生まれということになる。墓地の場所は新港のどこかだろうが不明である。落胆した夫のカンデデュウスは、1637年12月にオランダに帰国する。その後、再渡来し1643〜47年4月に死亡するまで、バタヴィアのラテン語学校の校長兼図書館長を勤めていた。なお、二人の間に子供がいたかどうかは不明である。
 
 今日まで平戸オランダ商館の文物に関しては、数多くの事跡が出版されている。その影に隠れ、当時の情勢に翻弄された混血の女性たち(お春とコルネリヤは比較的有名)、それ以外の十数人のことはほとんど知られていない。今回は初代平戸オランダ商館長ヤックス・スペックスの娘サラ・スペックスを取り上げたが、今後も機会があれば歴史の闇にとざされた女性たちに光をあててみたい。
 
谷原 茂(歴史研究家・平戸市在住)
参考文献
『バタヴィア城日記』東洋文庫
『平戸オランダ商館日記』永積洋子訳
『長崎オランダ商館日記』村上直次郎
『大日本王国誌』東洋文庫
『長崎見聞集』
『長崎夜話草』西川妙見
『松浦文書』
『オランダ東インド会社』永積昭
『イギリス商館日記』
『朱印船貿易史』川島元次郎
『ジャガタラの日本人』村上直次郎
『大日本商業史』菅沼貞風
『東インドへの航海』ハウトマン・ファン・ネック
『台北帝国大学史学科研究年報』
『貿易史上の平戸』
 
「ジャガタラ文について」
(松浦史料博物館発行『史都平戸』より)
 オランダ、イギリスの貿易にともない、あるいは雇傭人として、あるいは兵士等として国外に連れ出されたものもあったろうが、寛永16年(1639)オランダ商館閉鎖の直前、オランダ、イギリス人の混血子女とその母親四十数名がオランダ船に乗せられて平戸からバタヴィア(ジャカルタ)に追放された。その出帆のとき平戸の一族知人は南龍崎まで行って見送ったという。寛文年間(1660年代)になり通信を許され郷愁の情綿々たるものを故郷の肉親宛に送ったのがジャガタラ文である。
 平戸から追放されたものに山崎甚左衛門の義姉エステル(オランダ商館長ナイエンローデ先妻トケシヨの子)、浜田助右衛門の後家ハル、判田五右衛門の義理の娘コルネリヤ(ナイエンローデと後判田氏に嫁したスリシヤとの子)、谷村三蔵召使六兵衛後家フク、立石清之助妹ミヤ等がある。
平戸に伝わるジャガタラ文はコルネリヤのもの二通、コシヨロのもの一通、フクのもの一通で、文政年間、平戸藩十代藩主松浦熈(観中)時代に発見されたものである。いずれも個人蔵である。
 
毎年長崎御両政所様より広大なる御慈悲蒙り壬寅(寛文二年)九月二十一日の書状御音物数々無相違請取(四字不明)長久御左右可承候
今度音信に指遣す覚
一、から草(若干文字不明)端 姥様御方へ
一、上々竜脳二斤
一、きんかんとうふくしま三端
一、霜ふりさらさ一端
右三色半田五右衛門殿夫婦御方へ
一、キンカン(若干文字不明)エステル方かかさま御方へ
一、霜ふりさらさ(文字不明)端 コルネリヤ、ちちはは方へ
一、浜田助右ヱ門同女申候、御そくさいにおはしまし(二、三字不明)音信慥に請取うれしく思い(文字不明)コルネリヤ儀聊御気遣有まじく候、コノル殿儀結構なる人にて弥仕合よくおなり候、少分には候へどもさらさ一端吉次久左エ門へ遣候、慥に御請取可被下候
一、御無心の(若干不明)事候へ共、蒔絵の香盤六枚(若干不明)求可被下候恐惶謹言
(寛文三年)
癸卯八月廿一日   このる
判田五右ヱ門殿   こるねりや
御夫婦様へ参る  じゃがたらより
註、発信者このるは蘭人名にしてこるねりやが結婚した夫
エステルはコルネリヤの異腹の姉
吉次久左ヱ門は浜田助右ヱ門妻の弟
 
まいねん長崎御両まんどころ様より広大の御慈悲を蒙りつちのえさる(寛文八年)の九月十一日の御文ならびにいんしん物とも、注文のおもむき同十月廿七日にうけとり方々へ相とどけいずれもよろこびくわぶんのよし申され(三、四字不明)ここもと一入ぶじにて、きよかのえいぬの四月むすめをもうけ、いまこども四人ともそくさいにまいらせ候まま御心やすがるべく候。こんど少しいんしん物の覚
一、上々さされふりもめん  一たん
一、上々大かなきんもめん  一たん
一、上々小かなきんもめん  一たん
一、さされふりもめん    廿五たん
一、はくかくもめん     廿たん
一、ちつさらさ       二たん
右ははん田五へもんとの御ふうふへ
一、四たんつづき同もめん  一たん ゑすとろかくさまへ
一、はくかくもめん     一たん ちちははへ
一、つちのとり(寛文九年)かのへいぬ(寛文十年)此両年ここもとより訪づれ申し上げず候ゆえ御こころもとなくおぼしめ され候だんもっともに候。しがれどもいささかしさいこれなくぶじに候間御心にかけらるまじく候、わがみ事子供十人の母になりまいらせ候つるが、六人はうしないいま四人さかんにおわし候、大あに十四さい、そのいもと十二さい、又此いもと 六さい、此つぎにいもと八ケ月になり、いずれもそくさいにまいらせ、なかんづくおちちさまうばさまへ大あにとつぎのいもとそへふて申あげまいらせ候、御そくさいにおわしまし候よしかずかずうれしく思いまいらせ、そこもとよりの御ふみのやうすうけたまわり、ひとへにけんざんのここちしてそでをぬらしまいらせ候
一、はん田五へもんどの御ふうふへ村上ふさへもん申候、まいねんいんしんかきつけのごとく、たしかにうけとり、かたじけなく候、ここもと大へとる、このるどのふうふこども、いちだんそくさいにおわし候、それにつき此両年このるどのふうふより、ふみつかはさざるによって、おぼつかなくぼしめし候むねことわりとぞんじ候、此大へとるの役しやうときにより(若干字不明)にあたわず(一行不明)さてまたうりものなど、いずれもへとる一人にてさばかれ候ゆへのことに候、せうぶん三人とも白りんず一たんこころざしまでにしんぜ候。
一、はま田助へもんつけ申候、まいねん御いんしんとも、かきつけのままたしかにうけとりうれしく思いまいらせ候、ここもとこのるどのふうふこどもみなみなぶじにおわし候、くわしくは村上ふさへもんどのほうより申こされ候まま、つぶさからず候、せうぶんに候へどもはくかく白もめん一たんそくさいのしるしにおくりまいらせ候。
一、うば様御事さるの八月廿六日御年七十さいにてびやうしのよし、さてさて御果報者じゆんしとこそおもいまいらせ候、尚かさねてぶじの御左右まちまいらせ候、めでたくかしこ、白ちりめん二たんをほんむらさきにそめたまわるべく候なほなほ申あげ候、まづ申すべきを、しうねんいたし候、おおちちさまうばご御両人御かたへおらんだぬの二たん、これ一わ大あに、そのいもと両人はうよりしん上申候、たいせつのしるしまでに候。
(寛文十一年)
四月廿一日
こるねりや      
じゃがたらより
ひらどにて
はん田五右ヱ門どの
ふうふ御かたへ。
註 大へとるは商人長の名称にてコルネリヤの夫コノルのこと。
 
日本こいしやこいしやかりそめにたちいでて
又とかえらぬふるさとと思へば心も
こころならずなみだにむせび
めもくれゆめうつつともさらにわき
まへず候へどもあまりのことに
ちゃづつみ一つしんじまいらせ候
あらにほんこいしやこいしやこいしや
こしよろ
うば様参る
 
「本展覧会展示」
 
「平戸にゆかりのある外国人」(『史都平戸』より)
(1)フランシスコ・ザビエル
 彼はスペインとフランスの国境近くナバール王国のザビエル城主の子として生まれ、19歳でパリの聖バルバラ大学に入り神学研修中、後の耶蘇会の創始者イグナチウス・ロヨラと知り合い、共に聖人の称号を与えられた。ローマに居るときポルトガル王ジョアンの招聘をうけ以来その厚遇に感激したが、王命により耶蘇会の布教に志し1542年印度に渡り、腐敗した植民地の風俗の一新につとめた。マラッカに至って布教中、日本人アンジロー(弥次郎)と会い日本渡航を志し、神父コスメデ・トレース、神弟ジョアン・フェルナンデス及び日本人パウロ(アンジローの教名)その他を同伴し中国船により1549年(天文18)鹿児島に上陸した。領主島津貴久は初め布教を許し信者約百名を得たが、後禁じられ滞在十ケ月でパウロ一人を残して、1550年平戸に向った。海外交易に大いなる望みを持った領主杉浦隆信(道可)はキリスト教の布教もやむを得ないとして彼に伝道を許したので、20日間で洗礼をうけるものは城下で百余人に及んだ。彼の本心は日本中央における伝道にあったので、平戸滞在は僅か1ケ月で同年9月山口を経て京都に上り、後、豊後、大分にも布教した。彼の平戸出発に当っては旅中の盗難紛失をおそれ法具、其の他の品を平戸に残し、フェルナンデスと従僕一人のみを伴ったが、京都において献上品の準備がなかったのを理由に面会を拒絶されたので再び上京準備のため、平戸に戻っている。
 彼は日本伝道の為には多くの宣教師を要し、又日本文化の輸入地である中国大陸の伝道の必要を痛感し、1551年日本滞在2年3ケ月でゴアに帰り、準備を整えて中国布教の目的を以て広東港外上川に達したとき齢46歳を以て落命した。平戸崎公園北方台上には彼の記念碑がある。
 
(2)三浦按針
 三浦按針は即ちイギリス人ウイリアム・アダムズである。彼は1564年の生まれで数学、天文、航海、造船のことを学んだ。当時の先進国ポルトガルはすでにアフリカの喜望峰を経て東洋に進出し、スペインはアメリカ南端マゼラン海峡を経て東洋に進出しているのを知り、アダムスは祖国イギリスのためアメリカの北端を廻るかシベリヤの北方を廻っての東洋航路の研究につとめていた。日本においては関ケ原の戦で徳川家康の覇権が確立した1600年(慶長5)彼はオランダの東洋探険隊の航海長として加わりリーフデ号に乗組んで豊後に漂着した。のち家康に謁して信任をうけ、彼の外交顧問となり、知行地を三浦郡逸見村に賜わり貿易、測量、造船、兵の装備強化等の指導にあたった。政府顧問としての彼はすでに日本と貿易中の諸外人に対する態度も公平で、よく幕府と交渉し、オランダ商館を平戸に設置させたのも彼の力による所が大きかった。又1613年(慶長18)イギリス船の平戸入港のとき、平戸に来て大いに自国船隊のため努力したが、その司令官ジョン・セリースは彼の自国民に対する態度にあきたらずひそかに相憎む所があった。彼が再三家康に帰国を願ったが許されずしばらくセリースの帰任離日の際、同伴帰国を許されたのにかかわらず、セーリスとの同行は航海中の身の危険を感じて日本に止まらねばならなかった。その後彼は平戸イギリス商館長コックスの下にあって東奔西走、あるいは自ら商品導入のため、シャム(タイ国)に航するなどした。そして平戸の自宅にあるときは手製の英国旗を掲げて在宅のしるしとした。1620年(元和6)5月16日彼は病のためについに平戸の住宅で逝去した。時に57歳である。商館長コックスは彼の遺言状に基き遺産処分をし金貨500ポンドを二分して半分をイギリスにある妻子に贈り、残り半分と逸見村の土地を三浦の地の妻子に与え、平戸における按針の住宅など財産の全部は平戸の子に譲与した。
 
(3)ジャックス・スペックス
 平戸オランダ商館の初代館長である。1609年(慶長14)オランダ商船レーウ・メット・パイレン号及フリフーン号の2隻が初めて平戸に入港のとき、松浦鎮信(法印)は沖合にこれを歓迎し、オランダ人は船中の大砲を発して敬意を表した。次でジャックス・スペックス自ら長崎に赴き奉行に来航の報告をし、さらに委員を選んで鎮信所有の水夫50人付の船に乗って東上させた。ポルトガル、スペイン両国人の妨害があったが、ウイリアム・アダムズの斡旋によって家康の朱印状と商館設置の許可を得て、8月平戸に帰り商館を設け自ら初代館長となり、館員5名、通訳1名、小使1名を任命し、耐火土蔵付の家を借入れ船中の生糸、鉛、胡椒及現金の陸揚げをした。藩主と奉行には贈物を呈し、在留オランダ人に対する保護を依頼してその基礎を固めた。後任のナイエン・ローデ、フランソア・カロン等はよく努力したが彼等は私腹を肥やすことがあって有終の美を飾れなかった。
 スペックスは後バタビア総督になったが、日蘭間に台湾事件が発生し幕府の強硬方針が定まったので、時の藩主松浦隆信(宗陽)は彼がもと平戸商館長であった関係で両者の中間に立ち強硬な意見の反面友愛の私情をこめた仲介の進言状を送って支援している。
 
(4)リチャード・コックス
 平戸イギリス商館長として9年間平戸に滞在し最初の日英貿易に尽力した人である。1613年(慶長18)5月4日司令官ジョン・セーリスに付いてクローブ号で平戸に入港し、鎮信(法印)、隆信(宗陽)の歓迎をうけた。セーリスはアダムズの労により直ちに東上して将軍に謁し、イギリス国王ジェームス一世の書を呈し、通商特許状を得て平戸に帰り藩主に請い李旦の所有家屋を賃借し、コックスを館長としてイギリス人8名、通訳3名、僕2名を以って館員とした。コックスは以後商館を拡張し、中国及東南アジアの商品を仲買する等アダムズの助言を得て大いに努力したがオランダ商館との競争に敗れ1623年(元和9)ついに商館を閉鎖した。
 
(5)鄭成功
 父は芝龍といい中国福建省の人である。芝龍は追われて泉州碇泊中のオランダ船に乗り、平戸川内浦に来て田川マツをめとって二子を生んだ。福松及び七左衛門という。福松は即ち鄭成功で母マツが、千里ケ浜で貝を拾う時、にわかに産気づき浜の大石にもたれて成功を生んだという。芝龍は平戸老一官と称し藩主の寵をうけた。成功7歳、弟と共に母に養育され平戸に残っていたが、父の招きにより成功は単身渡海し、15歳で南京大学に入った。21歳のとき明王隆武に謁し名を朱成功と賜わり、軍都督となった。人は彼を国姓爺と敬称した。そして平戸在住の母を招いて孝養を尽くした。やがて清起り明王が危険に瀕したとき、父は清に降ったが母マツはこれを潔とせず泉州城内で自殺した。成功は悲憤慷慨し孔廟に詣でて儒服を焚き、部下90余人を伴って船に乗り、南墺に至って兵数千を募り、鼓浪島を奪い軍を整えて揚子江を遡り、南京に迫ったが惜しくも敗れ、戈を転じて澎湖島を獲り、たまたま台湾占拠中のオランダ人と戦いプロビンジャ城を降し、ゼーランジャ城を陥れ、安平鎮を定め承天府を置き、地を拓き、民を養い、法律を定め学校を興し大いに時運の挽回を図ったが、遂に熱病の為に1662年39歳で没した。鄭成功は台南城内に明延平郡王祠として祭られている。
 平戸川内浦千里浜には成功の生まれた児誕(じたん)石、及び葉山鎧軒撰文の碑がある。彼の居宅喜相院跡にはナギの樹があり、猶興館運動場には成功手植の椎樹があった。父鄭芝龍の所持していた香炉と印判は共に喜相院にあったが後松浦家に寄贈されて今博物館に保存されている。
 昭和37年台湾政府より鄭氏廟の砂を平戸におくられたので川内丸山にも成功の分霊廟が建てられた。


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