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 サルタヒコはアメノヤチマタという、八方に道が分かれていく境目で、異様な姿をしてとうせんぼしていたのです。その鼻は異常に長く、また背も異様に高く、くちびるは赤くひかり、目は八咫鏡のごとく照り輝いていました。そしてアメノウズメノミコトがとうせんぼをするサルタヒコと交渉の時に、女陰を出したと日本書紀には記されています。実は、アメノウズメノミコトが女陰をあらわにしたのは2回だけで、天の岩戸の場面とサルタヒコとの出会いの場面だけです。サルタヒコと出会ったあと2人は結婚したようです。サルタヒコをまつっているのは九州にも多いんですけど、九州の高千穂には天孫光臨の地でアメノウズメノミコトと一緒にそこに住んだので、荒建神社という神社にサルタヒコとウズメを一緒に祭っています。神社の神像はたいへん珍しいんですけれど、そこには二人の神像が安置してあります。余談ですが、そこの神社の宮司さんはコオロギさんといいます。祝詞の中のカンロギ、カムロミがコオロギになまったらしいのですね。
 サルタヒコは最後には伊勢でヒラブ貝に挟まれて海に没していきますが、その時、アワダツミタマ・ツブタツミタマ・ソコドクミタマという3つの魂に分魂します。そしてその後、サルタヒコとウズメの間の子どもが猿女(サルメ)氏になって、やがてサルメ氏は鎮魂や神楽の儀式を執り行うようになります。
 そういう神話と故事をふまえて、星野之宣さんのマンガ『サルメの舞』は描かれています。サルタヒコとウズメは今でもおたふくかと、道祖神とか、天狗と結びついて庶民に親しまれている人気キャラクター神さまとなっています。柳田國男はサルタヒコの元々の名前は岬とか突端という意味合いを持っていて、足摺岬を昔は佐田岬と言っていましたが、その佐田の語源であると分析しています。
 さて現代にもっとも幅広い人気のあるアニメキャラクターはトトロだと思うのですが、映画の舞台になった家が愛知地球博で出展されて人気を博したのが記憶に新しいところです。トトロは3匹いて、大トトロ、中トトロ、小トトロ。私は次の点で宮崎アニメ、特にトトロに非常に関心があります。1つは「ヌシ」という言い方で神威とか霊性を表す考え方が表現されている点です。奈良県桜井市の三輪山麓の大神神社(おおみわじんじゃ)に、オオモノヌシ(大物主大神)という蛇の形姿をした神様がまつられています。そこでは、山自体、森自体がご神体としてあがめられています。日本最古と言ってもいい神社で、オオモノヌシはオオクニヌシの神とも開連付けられて、異名同体の神さまともされています。
 『となりのトトロ』では、トトロを「森のヌシ」と言う場面がありました。また『千と千尋の神隠し』ではおクサレ様と言われていた神さまが、実際は湯屋できれいに洗ったら、翁顔の老竜になって空に舞い上っていった「川のヌシ」の神でした。『もののけ姫』では「乙事主(おっことぬし)」という猪の神様が出てきます。川の主、森の主、猪の主というようなヌシ神が多く出てきて、まさに主(ヌシ)は、日本人にとって古い神の表象であるのです。
 次に、別の興味として、トトロはオオモノヌシ的なイメージをキャラクター化しているのではないかという点です。実は『となりのトトロ』とそっくりの神さまを僕は実際に見ています。沖縄の西表島にプールと呼ばれる有名な豊年祭があります。西表島、新城島、石垣島などの八重山諸島で行われていて、アカマタ・クロマタ・シロマタという神さまが登場します。その神さまがもう体中全身に毛のようにも見える植物の蔦をダーっと覆わせているんですが、そのふくらみ方というのはもうトトロそっくりで、「へえ、卜トロがいるのか」「宮崎駿さんはアカマタ・クロマタの神をモデルにしたのかな」と思ったぐらいに雰囲気が似ていました。
 そのようなオオモノヌシという日本古来の神やアカマタ・クロマタという沖縄の民俗祭祀の神がトトロと非常に似ているということを、どう理解したらいいのか興味があります。このような神話キャラクターや祭りのキャラクターは、現代のキャラクターの世界を考える上で、やはりその下準備としてベースになっていたのではないかとも思われるのです。日本で特にキャラクターの世界が発展してきたとするならば、それだけの文化が縄文以降あったからではないかと考えられます。
 そのキャラクター創造力のとらえ方の中に見立てという概念が関係していると思います。見立てというのは古事記、日本書紀の中に登場する言葉ですが、神話の冒頭部で、イザナギ・イザナミノミコトがセックスをして、日本の島々を生んでいくという物語が語られるわけですが、そのセックスをする前に高天原に降り立った時に、アメノミハシラ(天御柱)という岩を1つの柱に見立て、宮殿に見立てて、そしてその中で、岩や洞くつのようなところで神々がセックスをして、島々を生んでいくと記されています
 この見立てとは、あるものをいろいろなものに関連付けていく、重ねていく、類推していくという比喩的なものの見方です。いまでも日本文化の随所に、見立ての論理があって、その見立てがいろんなものを生み出していく思考様式になっていると思います。そこでは、隠喩とか直喩とか様々な象徴作用や、あるものを移し替えたり、圧縮したりして部分的なものから全体的なものを表象する作用があります。あるいは庭園作りの時に見られる、そこにあるものと周りにあるものとの間の関係を、借景としてうまく利用するような世界観も、見立ての延長にあります。例えは、ミニ四国霊場というのは、実際に八十八ヶ所の霊場を廻って行くのは大変なので、一つのお社の周りをぐるっと廻って、八十八ヶ所の砂を置いてあるのを手で触っていく。そうすると八十八ヶ所をお参りしたことになりますよっていうもので、これも1つの見立ての例です。
 東京周辺には、富士山に見立てた小さいこんもりした丘で実際の富士山を遙拝をするという富士講や、京都には、日本全国の延喜式内社を全部をミニパンテオン化した吉田神社があります。吉田神社は吉田神道中興の祖と言われる吉田兼倶という応仁の乱の時に活躍した神道家が、大元宮という神殿をつくりました。彼は「唯一神道名法要集」「神道大意」などの著書を残しただけではなく、この大元宮をつくり、全国の3132座の神社のミニチュアをつくって、日本の神々を全部祭りました。これは四国八十八ヶ所ミニ霊場の神道版みたいなもので、神道曼荼羅的見立てす。つまり室町時代、平安時代の後期から中世、近世にかけて、庶民の中で、さまざまな信仰グッズや見立てが生まれてきて、江戸時代には相当流行ったものと考えられます。
 ところで、先に指摘した石見神楽のホームページでは、次のように説明がなされています。『物語は、「古事記」「日本書紀」から題材を得たものであり、その内容は仔細に説明するまでもない。須佐之男命の大蛇退治である。詞章の上からいえば、主に日本書紀を原拠にしている。石見神楽と言えば「大蛇」が上演され、石見神楽の代名詞となっている演目である。石見神楽以外にも、大蛇の舞いはあるが、石見神楽の大蛇舞い程昇華したものは他に例を見ない。日本一、いや世界に誇れる伝統芸能ではないだろうか。大蛇のふん装は、石見神楽の中で最も難しい。大きな龍の頭をかむり、蛇腹の胴体の一端を背う。蛇腹の胴体の長さは、ゆうに二十メートルは超える。明治十七年、藤井宗雄が改正神楽を起こして、提灯からヒントを得た蛇腹が考案された。』と。つまり、いろんな時代に、いろんな人々が神楽保存会みたいなものをつくったりして、信仰グッズ類のようなものも知恵を出し合い、考案してつくってきたわけですね。
 『どくろを巻き、正に大蛇という動きを見せながら須佐之男命と立ち会う形態となり、石見神楽に一大革新を起こした。大蛇の舞手は、重たい蛇頭を被り、蛇腹のどくろの中で、立ち上がったり、腹這いになったり、長い蛇腹の胴体を捌いたり、激しく動かなければならない。また、身体を少しでも見せないように舞うのが上手とされ、相当な体力と高度な業で、造形を演出し観衆を魅了させるのである。昨今は、八頭もの大蛇が現れ、観衆を楽しませる効果をねらった大蛇の舞が延々と続くこともある。』
 この石見神楽波子社仲のホームページの説明では、『島根県西部、石見地方で今でも盛んに行われている伝統芸能である。』とあります。その神楽の起源は、先ほどのアメノウズメノミコトの舞です。神楽の目的のところには『神楽の語源は、神を勧請する座、すなわち「神座」(かむくら)である。』とか、『神を勧請し神人合一する』とあります。神楽の種類には、里神楽から巫女神楽、伊勢流神楽、出雲流神楽、獅子神楽、そして出雲神楽、石見神楽と出てきます。
 それからもう1つ、モノということですが、オオモノヌシのモノですけれど、実は私はもう3年前からモノ学会というのを作りたいと思ってきました。それで来年度文部科学省の研究助成を申請することにしていまして、船曳先生、茂木先生にもご参加、ご協力をお願いしております。今後、このモノ学の構築をぜひやっていきたいと考えています。そのバックボーンになるような考え方は、例えば、もののけとかもののあはれのものとか、もの作りのものとか、源氏物語のものとが一体何であるのかということです。その「もののあはれ」の英訳には5種類あるそうですが、その中でまだしも一番フィットするのは、ドナルド・キーンさんの訳、“a sensitivity to things”ではないかと思います。他に例えば、「エモーショナル・センシティビティ」とかとなると、「エモーショナル」という限定が付くので、もっと広がりのある「センシティビティ」という、ドナルド・キーンの訳語の方が幅があっていいと思っています。
 この「センシティビティ」はそれはそれでその通りだと思うんですけれど、「もの」を“things”と訳すことにはちょっと抵抗があります。私から言わせれば、「もの」を「スピリチュアリティ」と訳すこともできると思うのです。
 この辺のとらえ方が物語の「もの」も非常に幅を持っているわけですね。そのスピリチュアリティからマテリアリティまでの幅を持っている「もの」をもう少し子細に考えてみたいというのが、この「モノ学会」の1つの課題です。それから「かわいい」とか「きれい」だとか「かっこいい」だとかといったような感覚価値をどうとらえるのか、その辺のことを、感覚価値論と、モノ学の立場から論じていくことを2つの大きな課題にした研究会や学会をつくっていきたいと考えています。
 キャラクターは1つの物づくりですから、いままで話をしてきたようなキャラクター化の問題も、ただ物質というのだけでない何か、つまりはスピリチュアリティがやっぱりあると思うのです。
 最初に戻りますけど、その9歳の女の子は、このウサギのぬいぐるみのキャラクターを持って帰ってくるときに、確かに何かが変わったわけですね。それが媒介することで、未来のお父さんになる人との間の親近感が生れた。距離がそれによって埋まった。ということは、彼女の中で、その距離を埋めた、そして新しいお父さんを非常に身近に感じるようになった何かがあったわけですね。これはやっぱり、そういう「もの」には、単なる「物」ではない部分をふくむ「モノ」、ものがたりやもののあはれやもののけの「モノ」があると思うのです。
 この辺のところについて、私は今後さらに、モノ学・感覚価値研究という観点から、キャラクターという物づくりの課題として考えてみたいと思います。どうもありがとうございました。


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