日本財団 図書館


キャラクター創造力研究会 第3回(2005年7月28日)
清谷信一氏「機と字とキャラクター―何故無機質なものにシンパシーを感じるのか」
 
 今日は、なぜ二足歩行のロボットに我々はシンパシーを感じるのか。なぜ日本でアスキーアートが発達したのか。二つの違ったテーマを関係付けて考察してみる。
 
1 機械(ロボット)に対する愛着
 昔から男は機械や乗り物(Vehicle)に対して非常に愛着を感じる。これは女性や動物に対する思い入れに近い。軍歌、「愛馬行進曲」に歌われた馬との一体感を持つ感情などがその好例である。また、戦闘機に単にF6FやF-4Eなどの無味乾燥な記号的な機種名だけではなく「ヘルキャット」「ファントム」、日本陸軍の「隼」など強そうな愛称をつける傾向は強い。更に米軍などではノーズアウト(機首部分)に絵を描くのも、第二次世界大戦のころからあった。爆撃機や輸送機には機体固有のキャラクター例えば、大砲を持っている赤い悪魔、アニメキャラクター、ピンナップガールなどを描く。戦闘機の場合は、シャークマウスといってサメの口を描いて強さを強調することもある。いずれも機体を単なる機械、モノではなく、自分たちの仲間という意識が働いている。これはある種、いまの戦闘ロボットものに通じるものを持っている。いわゆる乗り物の擬人化だ。
 日本では1980年代以降、ロボットは産業用そしてホビー用として発達したが、世界的では、ロボットのほとんどが兵器という形、もしくは軍事利用という形で発達している。日本は、二足歩行する人間に近い形のロボット開発など当面実利には結びつかない、いわば夢を追う研究も先行して多く行われている。日本のロボット市場は結構大きく、しかもほとんどが民間用だ。最近、ホビー用のラジコン式の鉄人28号が35万円で発売され、完売した。またソニーのAIBO(アイボ)は、40万〜50万円にも関わらず爆発的に売れた。こういう市場を開拓できるのが日本の特徴である。対して海外では、いままさにイラクやアフガニスタンなどでロボット兵器が使われているという現実があるように、軍用が中心だ。高度な知能を持つ完全自律型のもの、つまり自分である程度判断して行動できるロボット兵器が増えている。知能という意味から言うと非常に高度なシステムだ。フランスが未来歩兵用に開発している小型ヘリ型UAV、全長90センチくらいの大きさで、分隊、小隊レベル即ち、10人から30人程度の部隊と一緒に行動して偵察などを担当する。さらに高度な有人の戦闘攻撃機に代わる無人戦闘攻撃機も、アメリカやフランスが中心になって開発している。また、イスラエルでは港湾などの警備に使う水上を動く無人機を開発している。こういう軍事用ロボットには、任務遂行のため合理性を追求しており人型の外見を追求することもなく、日本の民間需要用ロボットのようなキャラクター性は、全く感じない。
 日本最初の有名ロボットは鉄腕アトムであろう。アトムは、いわゆる完全自律型の擬人化されたロボットで、ドラえもんも同じカテゴリーに入る。アトムやドラえもんなどは、ロボットという設定でもなくても話は成立する。じつはおばけでも妖怪でも宇宙人でもよいのだ。ロボットのイメージがより強いのは、工学的にいえばもっとプリミティブな操縦する大型ロボットである。始めに登場したのは、鉄人28号とかジャイアントロボなど外部から音声なり操縦機で、ロボットに動きを命令するタイプである。次いででてきたのがマジンガーZやボルテスVなど、主人公がロボットに乗り込み、ロボットと一体になって操縦するタイプである。これは一種ののりものであり、自動車や航空機の延長線上にある。だが人型の外観にファンは強いシンパシー、キャラクター性を感じる。
 「ゲッターロボ」は3台のゲットマシンに3人の主人公が乗って、合体して巨大ロボットになるが、ゲットマシンにキャラクター性を感じる者はいない。それが3つ結合してゲッターロボになって、初めてキャラクター性を感じる。同じようにガンダムでも、ガンダム構成するパーツであるコアファイター(小型戦闘機)にはキャラクター性を感じないが、ガンダムというロボットに対してはキャラクター性を感じる。
 人型ロボットには乗り物としての一体感と、ロボットのキャラクター性持ち合わせた存在であり、操縦している主人公に自分を重ね合わせた一体化するようなイリュージョンを持てるような存在なのである。ガンダム以前は、ロボットというのはカスタムメイドで、マジンガーZというロボットは1台、唯一無二の存在であった。ところがガンダムあたりからはこれが量産品、即ち工業製品としての性格が強くなってくる。いままでは唯一のマジンガーZ、唯一のゲッターロボに対してキャラクター性を感じていたが、ガンダム以降はモビルスーツであるとか、『超時空要塞マクロス』のバトロイドとかの量産のロボット(もしくはそのプロトタイプ)が主流となってくる。工業製品であるから新型がでてきたり、スペアが存在したりする。より乗り物に近い存在になってきたわけである。
 この辺りからファンの意識が次第に違ってきて、量産ロボットであるにも関わらずシンパシーを感じ、キャラクター性を感じはじめる。ビークルの進化形である、人間が乗り込んで動かすロボットに対して、シンパシーを感じるというマンガ、アニメは、他の国であまり例がない。しかし、これが日本だけの話かというとそうではなく、『グレンダイザー』が『ゴールドラック』という名前でフランスで放映された時に、爆発的に人気が出たように、主人公が乗り込んで動かす巨大ロボットものは海外でも普遍的に人気がある。日本に限らず他の国にも同じような感情があるのではないかと思う。
 辞書でロボットを引くと人造人間とでてくるが、それは古い観念で、いまアニメやマンガで主流のロボットは人間の形をしていないロボット、ビークルというか、人間が乗り込んで操縦するロボットになっている。もちろん人々はアトムのような完全自律型ロボットにも感情移入はあるが、それはピノキオに対して持つのと同じような隣人に対する愛着的感覚だと思う。なぜ巨大ロボットにこれだけ人気があるかというと、人型のロボットに自分が感情移入している主人公が乗り込んで動かすことに対して一体感とかシンパシーとかを持つからではないか。もう一つ、これらのロボットは操縦者が完全に制御できるということもある。アトムなど完全自律のロボットは自分の制御外で、友達にはなれるけれど、ドラえもんのように、のび太の要求を拒否することもある。つまり彼らとのつきあいには「人間関係」がつきものとなる。でもマジンガーZやガンダムは、単なる機械であり、自分の思った通りに操縦できる。完全に自分と一体化している。ある意味では愛馬とか愛犬みたいな感覚もあると思う。
野崎―信頼感ですかね。
鎌田―信頼感よりも、生き物感だと思う。だから擬人化と言ったのはひとつの適切な表現だ。日本人はそこに生きているもの、アニマを感じる。そうするとそこに名付けがあり、一緒に生活している、生きているという親近感や信頼感がある。
 
2 字:AA(アスキーアート)、顔文字の興隆
 アスキーアートが元々どこで発生したのかは、正確には判らないが、日本のメールマガジンで、量的にも質的にも、大躍進して、一つのジャンルを形成してしまった。メールマガジンは出来るだけ軽いデータにする必要があるため画像などが送れずに全部文字なので、その中である程度読者によりアピールするために文字だけを使って絵を描くという部分が発達し、また、パソコン通信で、顔文字も含めて一緒になって発達してきた。
 特に我が国では世界最大のBBSである「2ちゃんねる」の爆発的ヒットに乗っかって発達した。モナーはアスキーアートのひとつのキャラクターで、2ちゃんねるのマスコット的存在になっている。アスキーアートそれ自体というよりは、モナーが商品化されたので、キャラクターとして認知、成立している。これが面白いのでコピー&ペーストであちこちに貼られて、多くの人間が見ることになった。そうすると今度はじゃあもっと面白いものを作ってやるというモチベーションが沸いてくるということで非常に発達してきた。単一の絵だけでなくて、続き物でセリフを入れてマンガ式にするということもある。アスキーアート、モナーがこんなに浸透し、取り上げられているのは、ほかの国にはない現象である。なぜそういうものができたかというと、(1)日本語が非常に柔軟だからだと思う。漢字、カタカナ、ひらがな、アルファベット、ローマ数字、化学記号なども使える文字が非常に多く、また縦書き横書きが混在しており、これが表現の幅を広げている。さらには「あ゛」といった文字まで作ってしまう。この現象の始まりはおそらく細野不二彦氏が「うにばーしてぃBOYS」の中で「ま゛」と書いたのが初めだと思うが、最近はマンガの中でよく使われている。欧米の現代のアルファベットでは、形を変えることはまずあり得ない(歴史的にであれば別ではあるが)、「あ゛」とか「う゛」とか「ま゛」に相当する文字がどんどん出てくるような柔軟性はない。
(2)日本では大人の文化と子どもの文化が、日本ではあまりはっきり分かれてないことがある。だからOLやサラリーマンが携帯のメールで顔文字で「m(_ _)m(ゴメン)」とか「OTZ(ガックリ)」と使ってもおかしくない。子どもが使ってもいいし、大人も使うというように、キャラクターの創造や使用に世代間、階級間の文化的な壁が少ない。(3)ここ5〜6年、iモードやPCが大きく普及し、絵文字によるコミュニケーションが、普通に、自由に使えるようになった。(4)コミケに代表されるように、もともと絵を描ける人間が外国よりも多い。しかも絵を描くだけではなく、話まで作ってしまう。例えばモナーが出てきて雑談をしながら4コママンガ的なオチまで付いてしまうのは、そういうマンガを描く人口が多かったからである。それにプラス、マンガが既に日本の文化のひとつのベースになっている。そういう社会的な基盤がベースになっているのが非常に大きいと言える。
 
 このような二つの例は、およそ日本以外の国で発生しえなかった特異なキャラクターの発達であると考えられる。
 
 


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION