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立ち上がる回復者
見えない存在、物言わぬ存在
 
 特定の病院や療養所でのみハンセン病の治療が可能であった時代に、治療を求めて各地からやってきた患者が、病院や療養所の周辺に住み始めてできた、ハンセン病定着村やコロニーと呼ばれる村が、現在でも世界各国に残っています。村に住むハンセン病を体験した人の多くは、治療の開始が遅かったり、MDT以前の治療を受けていたために、後遺障害があります。定着村/コロニーに住むハンセン病回復者たちは、後遺障害や、病気に対する偏見や、過疎地にあるという地理的理由のため、一般社会で定職につくことが困難です。障害が少なければ肉体労働や季節労働ができますが、これもできない人たちは、生きるために物乞いをします。そして、物乞いをする重度の障害を持った回復者が多く住むことが、定着村に対する社会のイメージをさらに悪化させてきました。定着村は社会的弱者が暮らす村となり、社会があえて見ない存在となっていきました。
 社会的な弱者であるハンセン病患者、回復者やその家族が、人間として最低限の生活を送れるようにと、さまざまな団体が世界各地で活動を続けてきました。これらの活動があったため、生きることができたという事実があると同時に、慈善を施す支援団体と、慈善の対象であるハンセン病患者や回復者という構図ができあがってしまったことも事実です。
 また支援団体はこれまで長年にわたって、世界各地から寄付を募るために、ハンセン病患者や回復者の窮状を代弁してきました。これら支援団体が募金キャンペーンの一環として多用したのは、患者や回復者の劣悪な生活環境や貧困、そして重度な身体障害のイメージでした。悲惨、絶望、暗闇、物乞い、哀れ、見捨てられた等の言葉が使われ、人々の慈善を呼びかけるのです。実際に病気を体験した当事者の声が外の社会に届くことはなく、弱く哀れな患者や回復者の代弁者たる支援団体が、物言わぬ患者や回復者グループの悲惨なイメージを作り上げ、これを広めてきたのです。
 社会にとって慈善の対象である患者や回復者は、医療においては、治療や研究の対象でした。学会や国際会議では、医療従事者がハンセン病の研究成果を発表してきました。患者は一人の人間ではなく、菌の保持者、治療対象、研究対象として見なされてきました。ここでもハンセン病を体験した当事者は物言わぬ存在であり、ハンセン病を研究する人やハンセン病を治療する人が、ハンセン病やハンセン病を体験した人について語ってきたのです。
 
2005年12月に開催された第1回全インド回復者会議
 
たった一つの病気によって
私たち自身を、そして私たちの人間性を
他人に決め付けられることを、
断固として拒否しようじゃないか。
バーナード・K・プニカイア(アメリカ)
 
ハンセン病にかかった人を治療する際には、
らい菌を見つければ、それでおしまいでなない。
いかに高潔な意図があろうとも、菌は菌でしかない。
大切なのは菌ではなく、人なのだ。
フランシスコ・A・V・ヌーネス(ブラジル)
 
回復者ネットワークの誕生
 
 1951年に設立された日本の全国国立癩療養所患者協議会(現全国ハンセン病療養所入所者協議会:全療協)や、1946年に設立されたマレーシアのスンゲイ・ブロー療養所委員会、1981年に設立されたブラジルのハンセン病回復者社会復帰運動団体モーハン(MORHAN)は、自らの権利を求めて、ハンセン病患者や回復者が自治組織を作り上げ、早くから社会復帰を目指した積極的な活動を行ってきました。これらの一部の国における活動は、その後、1990年代以降に繰り広げられることとなる、国際的な回復者による活動の先駆けでもありましたが、依然として多くの国や地域では、ハンセン病患者や回復者は、社会の底辺の、見えない存在、声を発することができない存在でした。
 このような状況が一変したのは、1993年のことでした。アメリカのフロリダ州オーランドで開催された国際らい学会に回復者が参加し、国際らい学会をはじめ、大規模なハンセン病会議史上初めて、回復者自身による分科会が行われたのです。回復者自身による分科会は、医療従事者、ハンセン病関連団体、そして回復者に大きな反響を呼びました。
 翌1994年ブラジルのペトロポリスで開催された国際セミナーには、ブラジル、エチオピア、インド、韓国、中国、アメリカ等の回復者が集まりました。この場で、アイディア(IDEA: 共生・尊厳・経済向上のための国際ネットワーク)が立ち上げられました。アイディアの設立は、これまで世界各地で、生きるために、尊厳のために闘ってきた患者や回復者に、同じ病気を体験し、同じ差別を体験し、さまざまな国で闘っている仲間がいるのだという強い勇気を与えました。
 これからは慈善や研究や治療の対象ではなく、意見を持った主体として声を上げていこうと、アイディアの理念に賛同する人々が、アジアやアフリカなどの国々で回復者ネットワークを立ち上げています。これまで差別を恐れ、病気のことを話すことがなかった回復者が、徐々に自分たちの経験を話すようになりました。その力強い声は、医療面、社会面の双方の活動に影響しつつあります。
 世界のハンセン病患者・回復者の約70%が住むインドでは、近年になり目覚しい発展が見られています。2005年12月には、インドの首都デリーで初の全インド回復者会議が開催されました。インド14州から500人を超える回復者が出席したこの会議では、世界人権宣言にも謳われている、全ての人が等しく保有しているはずである、平等で譲ることのできない権利を手にするために、共に闘っていくことが宣言されました。これまで個々で闘ってきた人たちが、国レベルでネットワークを築き、声を高らかに上げた記念すべき会議でした。
 インド以外でも、ブラジル、ネパール、フィリピン、ミャンマー、エチオピア、ガーナ、アンゴラ等各国で、次々に回復者が立ち上がっています。ハンセン病にかかってから、アイデンティティや社会的地位を失い、ハンセン病患者と呼ばれてきた回復者が、人間としての誇りと尊厳を着実に取り戻し始めています。
 
 南アフリカ共和国前大統領ネルソン・マンデラ等政治犯流刑島として有名な同国ロベン島は、ハンセン病隔離施設という過去も持つ。ロベン島ハンセン病患者の墓地前に集う、各国のアイディア会員。写真提供:ヘンリー・ロー
 
今こそ一歩を踏み出そう。
社会のハンセン病に対する無知を変えていくのは他の誰でもない、
この私たちなのだ。
この一介の人間にしか見えない私たちが、それぞれの国で、
そして世界で、どれほどのことをやりとげてきたのか、
世界に知らしめようじゃないか。
エルネスト・カバノス・ジュニア(フィリピン)
 
家族の迷感になると思い、
自分の経験を話さない人が多いが、
自分の経験を話すことによって、
もっと多くの人を助けていることを知って欲しい
アントニオ・デ・オリヴェイラ・ボルヘス・ジュニア(ブラジル)
 
社会が変わる
 ミャンマーのウィン・モウンは言います。
 
 「結核だって恐ろしい病気じゃないか。でも結核患者は、疲気が治ったら、社会に戻って普通の人間として暮らせる。誰も結核回復者や結核元患者なんて呼ばない。だけど一度ハンセン病にかかったら、菌がなくなっても、死ぬまでハンセン病患者でしかない。死ぬまで忌み嫌われ、怖がられるんだ」
 
 ハンセン病が他の病気と異なるのは、病気が治った後も、ハンセン病というレッテルを取り去ることができない点にあります。長い歴史で根付いたハンセン病への恐怖や偏見は簡単には人の心から消え去らず、また簡単にうつる病気ではないことや、治療を受ければ治るといった基本的な情報も、社会の考え方を変えるほどには充分に伝わっていません。しかしハンセン病にかかった人が、社会の一員として当たり前の生活を送るためには、社会の一人一人が変わっていかなくてはなりません。人間らしい生活を送ることができる、開かれた理解のある社会を築くために、回復者団体や支援グループが社会に対する呼びかけを始めています。これまでの典型的なハンセン病のイメージは、身体的な後遺障害や貧困が前面に出されたものでした。しかし回復者団体は、ハンセン病を体験した個々人の声や個性、芸術性を打ち出そうとしています。詩、文芸、書道、絵画など多くの分野で回復者の豊かな内面が表現され、徐々にではありますが、社会の人々のハンセン病のイメージを変えつつあります。
 
若い心が社会を変える
 中国では、社会を変える、学生による運動が始まりました。2001年から中国広東省の定着村で、日本、韓国の学生を中心としたグループが、ワークキャンプを行ってきました。これまで近隣の村人が足を踏み入れもしなかった定着村に寝泊りし、水道延長工事や家屋の修繕など生活環境の改善に繋がる活動を行うワークキャンプを重ねます。回復者と共にあり、共に歩むという若者の姿は、長年にわたり隔離されていた回復者やその家族の心を溶かし、また、徐々に周囲の村や社会の、定着村やそこに住む人に対する姿勢を変え始めました。しかし活動が継続し、また中国の社会を変えていくためには、海外の学生が年に数回ワークキャンプをするだけでは充分ではありません。中国の学生が継続的な活動を行う必要があります。こうして広東省、広西省、雲南省の学生への呼びかけが始まったのです。ワークキャンプについて知られるにつれ、これに賛同する学生の数は増え続け、2004年には、中国のハンセン病問題と取り組むための学生グループ「JIA:家」が誕生しました。ワークキャンプを継続して行うことにより、定着村に住む回復者は希望を取り戻し、定着村の近くに住む人々は定着村や回復者の見方を変え始めました。ワークキャンプに参加した学生は、キャンプを終えると、大学や故郷で自分の体験を話し、友人や家族の考え方を変えています。社会を内側から変えていくユニークな活動が始まりました。数十年もの間、ハンセン病の定着村として、恐れられ、忘れ去られてきた村とその住人が、ようやく、ハンセン病が理由での差別や偏見を恐れずに、胸を張って外を歩ける日が近づいてきているのです。
 
明るい未来への希望
 長いこと、偏見も差別も信じられないほど強かったんですよ。それこそ、ちょっと考えられないほどの偏見でね。だけど、最近になって周りの人の態度が変わってきたんです。特に2001年に学生のグループが私たちの村にやってくるようになってからは、明らかになりましたね。この学生のグループがね、1年に何回か私たちの村を訪ねてくれるんですよ。村に泊まって、私たちと一緒に食事をして、私たちと一緒に買い物に行ってくれるんです。村の近くに住む人たちは、最初、こういう若い人たちが、私たち村の人間と一緒に手をつなぎながら買い物に行くのを見たときには、それはそれはびっくりしてましたよ。自分たちの目が信じられないようでね。だってそうでしょう。自分たちは何十年も、あの村は恐ろしい村だ、ハンセン病の患者が住んでる村だ、近づいちゃいけないんだって思い込んでいたのに、若い人たちが何人も来てくれるんです。それで、ある時ね、市場に行ったら、みんなよっぽどびっくりしたんでしょう。ぴたっと動きを止めて、口をあんぐり開けて、私たちを見るんですよ。でも何回かこういうことがあって、だんだんと私たちの村の近くに住む人たちも分かってきたみたいです。ハンセン病って、そんなに恐ろしい病気じゃないんだなって。今では私たちの村の近くに住む人たちは、私たちを差別しません。
 私は考え方を改めました。ああ、希望を持ってみるものだなって。可能性に期待し始めました。もっともっと村に来てください。私たちに必要なのは、精神的な支えなんです。
王鏡金(オウジンジャオ)(中国)
 
正しい情報を届ける
 ハンセン病を体験した人や、その家族が、病気を意識せずに暮らしていくためには、社会が変わっていかなくてはなりません。このためには、啓発活動が欠かせません。病気の早期診断や早期治療を目指し、医療面での啓発活動も精力的に続けられていますが、これと合わせて社会面での啓発活動も行われています。医療面、社会面の啓発活動のいずれも、路上劇、スライドショー、人形劇、啓発集会、テレビやラジオのコマーシャル、啓発冊子やパンフレット、ポスターの配布などを通し、一人でも多くの人に、ハンセン病についての正しい知識を届けるために行われています。社会面での啓発活動は、特に、長い歴史に根ざした偏見を消していくことを目的とし、一般社会と、メディアを対象に行われています。
 一般社会を対象とした啓発では、ハンセン病の正しい知識を普及し、ハンセン病と思われる症状が現れでいる人を見たときには、最寄りの保健所や病院で、通院しながら、無料で治療が受けられることを伝えてもらい、病気にかかっている人が、偏見を恐れずに治療を受けにいける意識を作り、病気にかかっている人も、かかっていた人をも受け入れる社会を築くことが目的です。
 社会の意識を変えていく上で、メディアは大きい影響を持っています。しかし、これまでのメディアは、不正確な情報に基づいたセンセーショナルな記事を掲載したり、ハンセン病を充分に取り上げなかったりと、病気や病気にかかった人たちの問題に対する正しい情報を、充分に流してきませんでした。このため、メディアで働く人に、ハンセン病という病気とそれにかかった人たちの正しい姿を学んでもらうために、メディアを対象とした啓発を行っています。
 病気に対する正しい知識だけではなく、病気にかかった人たちがどのような問題を抱えているか、病気にかかっても、その人の内面は変わらないといったことを回復者、医療従事者、政府関係者、NGOなどを交えて学び、新聞やラジオ、テレビなどを通して、社会の一人一人に訴えかけていきます。
 
 保健職員が村をまわり、ハンセン病の医学的・社会的情報を伝える(ナイジェリア)
 
 啓発路上劇は、娯楽の少ない地域では、人々の楽しみの一つでもある(ネパール)
 
私が住んでいる北部でなく
ハンセン病にかかった人は健康な人とは外に出かけられません。
何か買いたいと思っても、誰も売ってくれません。
水を飲みたいと思っても、売ってくれません。
結婚したいと思っても、結婚させてくれません。
完全に治ったと医者は言うのに。
病気は治っても誰も私を受け入れてくれないのです。
アブバカール・ムサ(ナイジェリア)


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