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大村競艇の初開催 名審判―天地神明に誓う
  最初はテストケースとしてやったですから――。
 司会 両方が同じように認可申請をしていて、運輸省が番号を付けるのに、津の方に「一」と付けている。同時に来たものだから、津が一号、大村が二号というふうになっているわけです、認可が――。
 原田 競走場の認可がですか?
 司会 ええ、認可がそれだから津の方は、おれの方が第一回だということで(「津競艇沿革史」を示しながら)この本にも出ているわけなんです。大村の市長さんと津の市長さんがご一緒のところで「われわれの方の沿革史には、大村を初開催として扱いますから――」とご了解を願ったんですが――。
 大村へ行って聞いたんですが、当時、アマチュアか何かのテストをしてから、本番に入ったということで――ドラがありましたが、どこから持って来たドラなのか――ドラの写真も、そのとき優勝したキヌタ第一号の写真も写して来ました。原田さんがいらっしゃって「審判の判断は天地神明に誓って間違いない」というようなことを、おっしゃったことも聞いています。それから常盤館でしたか。
 原田 ええ、常盤館――。
 司会 なんでも弁当をあっちで持つんだ、こっちで持つんだ、というようなことで朝までかかったとか、当時の総務部長さんと審判長さんがいらっしゃるので、選手をどういうふうに集めたか、機械や器具はどういうふうにしたか、初開催当時のお話を承りたいと思います。
 平野 大村で開催するために、急いで施行細則を作らなければならないんで、競輪、競馬も見に行ぎました。甘利さん、今井さんと一緒に船橋ヘオートレースを見に行ったこともあります。甘利さんは当時の金で千円でしたか、「買ってみろ」と、同行の事務官に買わせたりして――始めて、穴場の中へ手を入れてみたわけです。先輩ギャンブルを技術的な面で研究しようと懸命でした。原田君がそれらのことを加味しながら、モーターボートとして初めてのものを作っていく。
 いま見ると、幼稚で、ずいぶん大胆なものであったとしても、無からそれを作ることは、原田君のようなエキスパートがいたからできたのであって、大変なご苦労だったと思います。と同時に、選手と舟とエンジンをどうするか?国産でキヌタというのがあるらしいが、相当な金がかかる――どうなるかわからん危険な事業に、一体、持つ者があるだろうかと。最初は、施行者が持つなどということは考えていなかった。競走場は作った――。エンジンや舟の持ち手がないから、やむをえず施行者が持つということになったんで――。三共製薬の鈴木万平さんのところで、年間どのくらいの広告費を使っているか調べたら、何百万円かを使っている。よろしい、ぢゃあ三共もオーナーとして出そう――ということになったが、いつ、どこで、年間どのくらいのレースがあるのか、といわれて、そんなものは何もありゃあしません。それでは持ち手は出ません。やむをえず競走場を作った大村市が用意することになった。用意しなければ開催できない。開催できなければ市長、議員さんたちの立場が無い、延び延びになっていたから――。
 私たちは、運輸省の山岸さんと一緒に、オーナー会社の構想を立てて損益計算書を作って見たことがあるんです。舟を何隻、エンジンを何基、その購入費がいくらで、何回レースに出て――選手数も少ないので、苦心の末、他のギャンブルにはないことを考え出したわけです。二回出て、最初のレースでビリだったのが、後のレースでトップになったらえらいことになるとか、一日一回じゃペイしないんです、事業的に――。
  そういう点で、原田氏あたりは二回出すことに疑問を持ちましたか?
 原田 選手もボートも少ないんですから、番組の上で好む、好まないじゃなくて、三回も出さなければならない状況だったんです。ですから“あなたのところはボートを持つかということが、競走場認可の一つの条件になっていたようです。
 平野 施行者がオーナーにならなければ開催できなかったんです――用意はありますか、とそういうことでした。
 原田 はじめは個別オーナーのオートレースのように、自分持ちのボート、モーター。あるいは広告用のモーターボートなども登場するかと思っていたんですが、ふたをあけてみると、そうはいかない。それでも各地から競艇場の開設希望は出て来る。あなたのところはボートを何隻持つか、持ってくれ。とこうでした。
 平野 そうせざるを得なかったんです。
 司会 現行の規則では、自由オーナーですから三越号でも松坂屋号でもよかったんですが、持ち手がないから競走をやるものが持たなきゃならなくなって――。
 原田 そうなんです。当時の構想は三共号、松竹号、三越号というふうにいったら面白いだろう、と考えたんですが、いまのようなオーナーになっちゃったんです。
 司会 大村の写真を見ますと、大時計もある、旗もあるで、一応整っているようですが、機械と舟は大村で作ったとして、選手はどこから連れて来たんです?
 原田 長崎が早く競艇場を作ったんで、坪内さんが選手を養成していたんです。それと並行して――あるいは少し早くでしたか、大津の佐藤さんの選手養成所が出来て――。
 高橋 佐藤さんの養成されたのが第一回だったでしょう。
  半々くらいだったでしょう。
 原田 大村の第一回は半々でやりました。三月の初めに大津で採用試験をやって開催直前に大村で試験をして合格者を登録する、大津からも来るというようなことで、合流させてレースをやりました。
  選手養成所は佐藤さんが作ったんでしたかね、笹川先生が相当力を入れてやらせたんですね。例の一、二時間の即成で出来あがった連中について、私が調査に行ったことがあります。
 司会 あのドラは、何で鳴らしたんですか。
 原田 あれは競輪でやっているからというんで、最終回周をドラでやったらという思いつきで――。
 高橋 あれは汽船のドラを持って来たんでしょう、大村のときだけですね?
 原田 はあ、一節だけ使ったかどうか。
 平野 現在は二秒遅れたら失格だ、一秒でどうだとかいってますが、当時のことを考えると隔世の感ありですよ。選手誕生のかげの努力は、永久に忘れてはなりません。笹川先生のご配慮と、実際にこれをやられた佐藤与吉さんのご努力は大変なものです。日本で初めてですから――選手が幼稚であろうと、施設が粗末であろうと――。
 大村では、貴重な金を投じて買入れたキヌタのエンジンが大事で、ダイヤモンドの宝もののように選手に扱わせたものです。びわ湖から来た選手に抽選で割当てて競走前の練習に入ったんですが、初めて海へ出たので、あっちへ行く、こっちへ来る、止まる、岩にぶつかる。行っちゃいけない場所には旗を立てて、さんざん説教してもお構いなしで、まるで檻から出た小犬のように――。大村市の猪川事業課長が「連合会はどうしてくれるんだ」と怒鳴り込んで来たり――エンジンは選手に貸与した市の財産ですから、こわされちゃあ大変だということで――。
 司会 スタートは、やはりフライングスタートでしょう?
 原田 そうです。
 司会 いくらか問題があったように聞きましたが――。
 平野 原田君の歴史的な「神かけて・・・」の審判が始まったんですが、待機水面はあっても海だから広い、こっちはスタートするというのに、行ったきり帰ってこない舟もある。先頭が第一マークを回るまでに――一五〇メートルくらい距離があるんですが――スタートラインを出たら有効だなんていって始めたんですから――。審判長をやっている原田君のところへ、レース最中、警察署長がファンを連れて来て「いまのレースを説明してやってほしい」というんです。原田君から私に電話で「署長が来て説明しろというんだが、説明するのか」というわけです。猪川課長は、「連合会はどうしてくれるんだ、あんなのを選手にして」と怒鳴る。佐藤さんと猪川課長の両方から「おれの方で養成したのを落したじゃないか」「あんなのが選手か、落ちた方がよっぼど優秀だ」などと、私と原田君はずいぶんやられました。
 司会 そのころの審判長室には、測定機や写真撮影装置は無かったんですか?
 原田 競輪ではスリット写真を使っていたんですが、ボートはあんなだとは考えなかったので、いよいよってことから初めて――一枚写真をというので、大時計の0点に接点を合わせて、リレーでシャッターを押す装置を付けた箱型の判定写真機を作りました。ところが、その機械が第一回のスタートでこわれちゃって――0で押したらスプリングが強すぎて、カメラが飛ばされて――。
 司会 それでもお客は文句をいわなかったんですね。
 原田 別にいいませんでした。
 司会 決勝は目測以外ないわけですね。
 原田 スタートだって同じですよ、これなら大丈夫というわけで――。
  それが“天地神明に誓って・・・”というわけ――。
 平野 スコールが降ったときでした。私は競技委員長のところにいたんですが、競技委員長が審判長に連絡しないで、黄色の旗を振っちゃったんです。スタート直前、スコールで一つ、二つエンジンが止まったので、スタートのやり直しをさせようと、審判長から見えないところで、やったんです。「おうい平野、なんで止めたんだ」と電話がかかってくる。舟が水上へ出たら審判長の権限だということは、大分たってからわかったようなことで――。
 原田 エンジンのかかるまでが大変なんです。なかなか、かからなくて――ですから予備艇を用意して置いて、出番のエンジンがかからなければ、急いで旗と番号を付け替えて、かかるエンジンを出す。予備艇というのは、しばらく続きましたねえ。
 平野 二、三隻は用意して置きました。
 原田 津のときも狭山のときも予備艇があるわけです。スタート五分前・・・四分前・・・三分前でエンジンがかからないと、代わらせる。いま滋賀県で審判をやっている佐竹君。大津の第一期生ですが大村の第一回のレースで、もちろん初出場ですね、待機水面でエンストして、ようやくエンジンのかかったのが二分前。二分前だからスタートの方へ、とろとろと来ればいいものを沖へ向かって走って行くあの広いところでどうなることかと思いましたよ、すぐ入って来たけれども――出おくれの判定が甘かったですからねえ。
 司会 そういうものをセーフにしたんですか?
 原田 そうなんです。天地神明の話ですか、各レースごとに何ばいも何ばいもフライングするんです。技量も未熟ですから、まともに出るのがいない、それをフライングだ、と返還したら大変なんです。天地神明の時は(両手をひろげて)こんなに切ってるんです。お客だって横から見ていりゃあ、わかりますよ。そこで文句をいって来る、返還すると三万円返さなくちゃならないというんです。これは大変だ、なんとかお客を納得させて、セーフにしなくてはと――三万円のために五、六回もそんなことがありました。
 司会 その当時の三万円といえば、大きいでしょうからねえ。
 平野 さっきあなたから話の出ていた弁当のこと、いよいよ明日から本番というときに、市が委任契約で五%を競走会にやるんだが、一体、競走会は何と何を持つんだ。ということから、初開催の弁当はどっちが持つんだというところまでいって――両者の意見がまとまらないまま、最後は競走会は競走会関係の弁当屋、施行者は施行者関係の弁当屋へ注文するということになりましたが、その費用を委任契約の五%の中で持てというのが、大村市役所の意見、それから始まって、ガソリンがいる、何がいる――で初日を明日にひかえて夜中の二時、三時になっても解決がつかない。山岸さんは全部計算をし直したり――結局、弁当は純然たる競走会関係の分だけ競走会で持つということに落ちついたんですが、ねばられて、私は徹夜でしたよ。原田君や青木君の泊まっている部屋へ帰ったのは明けがたの五時ごろだったでしょう。
 司会 大村のとき売上げが大したことなくて、競走会の方が困ったとか?
 原田 初日が二百四十万、二日めが百何万、三日め二百六十万、三日間で六百何万――。
 司会 六百万の五%、それじゃあ競走会は合わなかったでしょう。
 藤、平野 合いませんねえ。
 原田 当時は百二十万平均あれば、競走会はペイしたと思うんですが――大村の初開催の一日平均二百何万は、当時の競輪などから見れば“これならボートもいける”と判断されて、大村を境にして皆さんから申請が殺到したんです。そのころ、津は既に進行していました。大村の三日間六百万円は、当時、ぺーすると読まれたわけです。
 司会 大村は幾日やったんですか。
 原田 六・七・八の三日間。百万円でぺーするという判断は、大村、三国、もうひとつはどこだったか、三ヵ所売上げの悪いところがあって――不振競走場と失礼なことをいったりしましたが――そのころ百何万円あれば最低限度息はしてゆける、だから二百万は良かったらしいです。フライングで三万戻すといったら、ビクビクしましたが――。
 平野 春四月だけど寒くてねえ、みんな運動靴と作業服カーキ色の――笹川先生が大村へ着いたときでした、先生はすーっと洋品屋へ入って、みんなに何か買って下さった。私は紺のセーターをいただいたんですが、いまでももっています、着れるんです。
 混乱のうちにも、とにかく初開催のお手伝いの大任を終えて、帰りがけにお土産をいただき「若い者が大勢で、ずいぶんご無礼があったと思います」「いいえご苦労さまでした」「ひとつ、そういうことにお願いして」「では、これをどうぞ」というわけで、連合会として市から受取る競走場その他登録料等の入った封筒を、隣の部屋へ入ってあけて見たら――十一、二万円の予定が七万しか入っていない。連合会の台所は火がつくようなころで、七万じゃあ帰れないんです。また部屋へ戻って、恐る恐る「大変申しあげにくいんですが、実はこれじゃあ帰れないんです」とやったんですよ。
 原田 ねばっていましたねえ、私も知ってました。
 平野 つらかったね、それで猪川さんらに、一ぺん市役所へ帰ってもらい、何かの金を足してもらって――。


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