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社団法人長崎県モーターボート競走会
沿革
 昭和二十七年四月、全国に魁がけて施行された長崎県大村競艇の初開催以来、早くも十五年を経過した。一口に十五年といっても、決して短い年月ではない。競走会内部機構の問題、人事の問題、その他運営の問題等、次から次へと繰り返される多くの困難な案件の解決のために、関係者は絶えず辛労の連続であったことを、今更に想起する。開設当初、一日の売上げ僅かに二百万円内外に過ぎなかったものが、近年実に二千万円を超える盛況を示すに至った。
 一般大衆の理解と関係者の努力によって主催者自治体の財政上、極めて大きな貢献を残し得た功績は、特筆されてよいものであった。
人間本来の意欲
 競艇即ち公営賭博である。一種のギャンブルであることに間違いはない。昔から賭博と言えば市井遊侠の徒の業(なり)わいとして、一般庶民からはひんしゅくを受けた。然し、射倖心は人間本来の意欲の現われともいうべきもので社会民衆の良風秩序の維持のために、強く禁止抑制されつつも、往古以来人間の射倖心を抑圧し得た時代はなかった。文明国と称する欧米においても、一部には公然としてギャンブルが許されており、未開人のアフリカ諸国民間においては、日常の娯楽として賭博が行なわれておる。日本でも昔から富くじ形式のものは公然と許され、現在の『宝くじ』がその名残りである。終戦後の混乱の時代に地方自治体財政救援の一つの手段として、陸に競輪、海に競艇の開催が許されるに至った。つまり賭博が国家財政の救援の措置として公認された。畜産馬匹奨励の名の下に、公認競馬法を制定して、現在未曽有の盛況を示しておる事実を見ても、人間の射倖心を利用して、通貨を吸収せんとする政策の現われであることを知るべきである。
『全国第一号』の認可と大村市の決定
 わが長崎県有志は、二十六年六月十八日競走法の公布と共に、間髪を入れず競走会の設立に着手し、八月十日付で運輸大臣から全国第一号競走会の認可を獲得した。八月十五日に、資本金百二十万円(後日二百万円に増資)の『社団法人長崎県モーターボート競走会』の設立登記を完了した。県下公共団体の幾つかから競走場設置についての要請があり、わが競走会では、多数希望団体の中から最適地として大村市を決定推薦した。
突貫工事の成功
 大村市では、主務省への請願と同時に、直ちにレース場の建設に着手し、昼夜兼行の突貫工事の末、二十六年九月に落成という正に天馬空を行くの熱意には、関係者を少なからず感動せしめた。かくして運輸省が発した競艇第一号認可に応えて、全国初開催をかちとるべく、諸般の準備に突進した。
西日本選手権大会
 まず、年内初開催を目標に、選手養成会を設立して、選手三十名の養成に成功したが、全連の設立が遅れたために年内初開催の目途が立たず、やむを得ず十一月二十五日を期し、西日本アマチュアモーターボート選手権大会を実行することとした。
 競走会は、全役職員が参画し、最後の研修に備え大いに得るところがあった。
 当日の観衆実に一万余、予想以上の成功であり、競艇に対する一般民衆の期待と動向を知る上に、大きな収獲となったが、当事者である大村市と競走会にとっては多大の出血であり、まことに大きな負担でもあった。
全国での初開催
 こえて、二十七年四月六、七、八の三日間、念願叶って全国競艇初開催が行なわれた。これが競走法による全国モーターボート競走の第一回実施であり、所謂テストケースとして、全国同志の注目の的となったもので、競技場の施設、運営、選手の技術の面において、数多くの指針盤となり、あらゆる点にわたって幾多の教訓を残した。全国の地方自治体より同志の見学も多数に上ったので、将来、全国の競艇実施上において、極めて多くの貴重な資料を提供したことは、何人も認むるところであったが、これを採算的にみるときは、かなり大きな欠損となり、卒先して前進するものの生みの悩みという人の知らぬ犠牲があったことも事実であった。
先駆者としての責任果す
 次いで、同年七月四、五、六の三日間、三重県津競走場の開催に当っては、長崎県養成選手全員出場、審判員、検査員等も、指導者として求められて参画、津競艇の初開催に当り、錦上華を添えるの役割を果した。
 二十七年九月福岡県若松、芦屋の要請により、総員五十名、二ヵ月間の選手養成を完了した。この両者の初開催にも、全役職員が指導者として、実務の遂行に参画した。かようにして我が『長崎県モーターボート競走会』は、斯界の先駆として、全国認可第一号の負託に応え、その責任と使命を果して来たことは、声を大にして誇っても失当にあらずと信じておる。
内部機構改善と会長の更任
 三十年には本会開設に功労のあった初代坪内会長が退任し、三十二年には暴風雨の襲来によってレース場が破壊されたことと、引続き従業員のストライキがあり、三十三年選手再訓練、三十四年七月、事務局の大村移転問題等があって内部機構の改善を促進した。
 この間、会長の更任四度、経済界の変動、金融引締めによる不況。従って売上げは極度に低下し、競走会の運営は逐年困難の度を加え、大村競艇史上最大の苦難期に陥った。大村市は窮余の策として、長崎県競走会と離れ、市の単独経営を打ち出さざるを得ぬ一幕もあったが、一般経済界の立ち直りと共に次第に苦境を脱し、現在に至る間、役職員及び会員一同の努力によって、順調にして繁栄の一途をたどり、ゆるぎなき基盤を築いた。
 これが長崎県モーターボート競走会の既往と現在である。
昭和四十二年三月末日
 
競艇記念日と開催地順位
 全国競走会連合会では、昭和二十七年四月に、長崎県大村競走場で実施した全国第一回をもって、競走法に基づく最初のレースをテストケースと名付け、二十七年七月三重県津競走場で行なわれた第二回施行を全国初開催、即ち『第一回施行』と唱え、両者何れが『初の開催地』であるかに迷うて来た経緯もあったが、昭和二十九年七月二十日付運輸省船舶局長示達(別記)をもって、競艇記念日は大村市が実施した昭和二十七年四月六日をもってすることに決定した。
 かくして、全国競走会の競艇記念日が定まり、全国の関係者は一丸となって、毎年記念行事及び各種レースの実施並びに開催地の順位をレース開催の順位、即ち第一回大村第二回津というように決定された。
船舶局長示達
一 競走会記念日
モーターボート競走法実施の趣旨を一層鮮明にし、既往を顧み将来の発展を期するため、全国に於て初めて第一回の競走を長崎県大村市に於て実施した。
昭和二十七年四月六日を記念するため、毎年四月六日を全国的の競走記念日と定め、競艇関係者打って一丸となり、毎年記念行事及レースを実施すること。
二 開催地の順位
モーターボート記念レース開催の順序として第一回施行を大村、第二回を津、以下開催順位を以て定める。
 
長崎競走会の七問題
西日本アマチュアモーターボート選手権大会 その一
 大村市ではレースの早期初開催を目途に、(株)光部組の手にて総工費二千万円余を投下、突貫工事が施行され早くも二十六年九月には工事落成、その筋への認可申請が行なわれた。九月中には第一回初開催の施行態勢に入ったのであるが、肝心の連合会発足が遅れたため選手や審判員の登録も出来ず、九月開催はおろか年内施行の見通しさえ付かなくなった。そこであわて出したのが施行者と競走会で、これまで大村市では九月の初開催を強く打出し採算を度外視した突貫工事を行なった事、一部要員の確保も行なわれ、諸準備も一段落という段階で、九月開催が全連等の企図する如く翌年の四月実施に延期された場合、市と競走会では九ヵ月間のズレとなり対外的にも対内的にもゆゆしき問題である。早くも一部では市理事者の不手ぎわと、行き過ぎを非難攻撃、政治問題化してきた。一方競走会では執行委員の割当から曲りなりにも、選手の養成を終え、諸準備も終了したが、設立以来の人件費、運動費、その他の諸経費等、僅々百二十万円の資本金は既に底を払い、今日の運営にも事欠く実情であり、施行者と競走会はいよいよ断崖の岐路に立たされた。これらの打開策として生れ出たのがモーターボートアマチュア選手権大会であった。
 この催しは、内外への宣伝を兼ねた従業者の研修であり大村市民に対する緩和剤ともなり、又全国初開催への導火線でもあった。両者は度々の話合いで主催大村市、競走会は協力団体として出場を決定、十一月十日付、大村柳原市長より、坪内会長宛に次の様な委嘱状が発送された。
 「西日本モーターボートアマチュア選手権大会開催に付いて」
 謹啓 向寒の砌り貴会益々御隆昌の段慶賀仕ります、陳者は標記大会に関しましては、種々御高配を賜り深謝致します。来る十一月二十五日大会を開催と決定しましたので、御多用中甚だ恐縮に存じますが、競走執行上競走部委員として各役員御出席の上御協力を賜る様御依頼致します。
 競走会では同月十三日役員会を開催して次の通り議決を行なった。
一 十一月二十五日大村市主催アマチュア選手権大会に協力後援する事
二 当日出場する選手の着用するユニフォームを競走会にて調達する事
三 当日競走会より大村市へお祝金二万円を贈呈する事
四 入場券を競走会には無料交付の事を大村市へ交渉する。右不能の時は会員の入場料は競走会に於て全額負担する事
以上決議する。
 競走会では全役員、職員の出場に決定、特に選手着用のユニフォームが無いため、これの調達に付て種々協議を交したが、急場の間に合わない事、又選手服装に付ての規定が出来ていない、結局類似業長崎自転車振興会に借用する事に協議決定した。
 大村市では、ボート、エンジンの製造元東京隅田川造船所杉浦技師を招聘して、エンジンボートの操作整備等に付き最後の仕上げを行ない、万端の準備を終了。十一月二十五日午前十時、世紀の大会は幕を切って落された。
 当地方では初めての競技である。この日のスリルとスピードを味わわんものと地元大村、長崎、佐世保は勿論、佐賀、福岡、遠くは四国、関西地方、千葉方面よりも多数詰めかけ、当日の観衆は実に一万を数えられ、臨時列車やバスの増発等、人気を呼んだが、朝来気づかわれた天候は、十三時頃より風速十米以上の北東風に見舞われ、遺憾ながらも中止のやむなきに至り、残りの第三レースと決勝戦は十二月二日に持ち越す事となった。
 折角の催しが中止された事は主催者大村市と競走会の一大痛恨事であった事は勿論、特に遠路はるばるの来観者に多大の迷惑をかけた事であった。十二月二日、残りレースを実施、入場者は前回を下回ったが、観衆はボートのもつスリルとその良さを満喫、深い感銘を与えギャンブル競艇の将来に一縷の曙光を認め得たものである。この大会は大村市、競走会共に採算面には大きな出血であったが専従者に深い習練と強い信念を与えた事、宣伝効果、対内策等大成功裡に幕を閉じたのである。


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