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社団法人香川県モーターボート競走会
設立当時のあらましとその後の発展について
 先ず全体を展望してみると
一 昭和二十六年 十二月二十六日
創立準備会発起人総会
二 昭和二十七年 一月三十日
運輸大臣の設立許可
三 昭和二十七年 二月
創立総会
四 昭和二十七年 二月二十二日
設立登記完了
出資金 二〇〇万円 会員一一七名
初代会長 国東照太氏
 
初代会長 国東照太氏
 
五 昭和二十七年 十月三十一日
ボートレース初開催
六 昭和二十八年 五月二十八日
出資金五十万円増額、総額二五〇万円となる。
会員一九二名
七 昭和三十三年 七月十一日
主たる事務所を高松市から丸亀市の丸亀競艇場内に移す。
八 昭和三十九年 十二月二十三日
会長 国東照太氏辞任
九 昭和四十年 一月二十二日
二代目会長に、副会長 鎮西麻吉氏就任
 
二代目・現会長 鎮西麻吉氏
 
一〇 昭和四十一年 五月二十八日
会長 鎮西麻吉氏留任
一一 昭和四十三年 五月二十八日
会長 鎮西麻吉氏留任、現在に至る。
「昭和四十三年五月二十四日、連合会総会にて鎮西麻吉氏常任理事に就任す」
 
競走会設立当時のあらまし
 香川県に競走会を設立したいとの動きは、中央での競走法制定運動と呼応して、二つの団体から起こされた。
 一つは、海運局関係の機帆船組合に属する人々を中心とした集まりで高松を中心に活躍したので、これを高松派と称し、他は、坂出市の龍田紅陽氏を中核とする有志のグループで、坂出地区在住の人々が多かったので、坂出派と称していた。
 当初は、この二つの派は、お互いの存在もその運動も知らず、それぞれ別箇に設立運動をしていた。
 モーターボート競走という競技を引受ける意向がないかとの情報が流れてきて、坂出に集まった有志たちも、これについての知識も全くもっておらず、法制化もされておらず、いわば五里霧中の体であったので代表者が、上阪し(昭和二六・二・二〇)笹川良一氏に面接して、いろいろと教示を受け知識を授かって帰ったものの、法案が国会を通過する目途も立たないまま、東奔西走しての努力もあまり報われず、会員獲得は困難をきわめた。
 しかし漸くにして会員数の目途もつき、たびたび、会合を重ねて準備を整え、法案の国会通過を待つこととなった。
 また競艇場選定も、県下各地を物色したが適不適の選定に悩み、加えるに政治的な配慮も加わって難航した。
 県内には、港湾、河川、溜池等が多くあったが、地の利の関係から高松市海岸の専売公社東側埋立予定地、丸亀市港湾、さらには大川郡の安戸池、長尾町亀鶴公園の溜池、仲多度郡の満濃池も候補地として選び、中央から矢次一夫氏、板倉弥三郎氏の視察を求めて場所選定にとりかかった。
 現地視察の結果、高松市の埋立予定地を第一候補地として、市当局と交渉を重ねた。しかし当時、高松市側は市議会議員の選挙違反に端を発して市政混乱の状況下であったので、市議会議長山田孝男氏の努力も報われず競艇場開設に取組むことが困難で即答が得られなかった。
 法制定後でもあり、荏苒(じんぜん)日を過ごすこともできず、丸亀市を第二候補地として市側に働きかけた。
 これとともにモーターボート競走について、一般大衆を啓蒙するために、さきに東京相模湖において、日米対抗モーターボートレースが開催された際に、第三位を獲得したモーターボート飛龍号を借用して、高松、坂出、丸亀、多度津において走らせて、普及宣伝につとめた。
 このように機運醸成に、励んでいるうちに高松派、坂出派も、お互いに動きを知り、時には競合的立場にも立ったが、県下一本の必要を悟り、笹川良一氏並びに矢次一夫氏の調停を受け、更に県副申書作製の段階において、経済部長大野乾氏の斡旋によって、かねてより参加希望のあった仲多度郡側を加えて、三者が大同団結して香川県モーターボート競走会が目出度く誕生して、昭和二十七年二月二十二日、設立登記完了の運びとなった。
 出資口数 二〇〇口で、その比率は
高松派 六、坂出派 六、仲多度派 三
初代会長 国東照太(高松派)
 〃 副会長 龍田紅陽(坂出派)
 〃 〃 浜野正雄(高松派)
 〃 理事長 宮武英一(仲多度派)
 なお、発起人として名を連ねた人々は下の諸氏であった。
国東照太 浜野正雄 細川秀雄 米沢多平 鶴尾 清 槇田 久 志水清英 佐長熊太郎 龍田菊次郎 仲子武一 阿部茂一 多田光之輔 多田 茂 坂本 明 多田羅正義 西山弥太郎 石井元八 宮武英一 森 義夫 片山樹三郎 新名 功
 
出資金 五十万円増額の経緯
 競走会が設立完了し、昭和二十七年十月からレースを開始するに至ったが、舟券売上の不振、競走会内部の派閥抗争、運営管理の不手際等のため波乱をかもし、会員の一部から発足日浅いにもかかわらず、刷新の運動が台頭した。
 折柄、丸亀市営モーターボート事業の経営の伸長には市と競走会との相互協調体制を整えることが最も肝要でありこれがためには丸亀市民の参画を推進する必要があるとの声が盛んとなり、出資金五〇万円の増額を強く要望した。その動きが効を奏して昭和二十八年五月、これが実現をみた。
 しかし、依然混迷期が続き、昭和三十三年役員改選の機会をとらえて、笹川連合会長の指導と仲介によって、首脳人事の更迭が行なわれ、会長国東照太氏は留任、副会長に鎮西麻吉氏が就任した。以来、施行者との緊密度は急速に深まるとともに、改善へのたゆみない努力が続けられ、徐徐に競走会の基盤が固まっていった。


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