日本財団 図書館


社団法人滋賀県モーターボート競走会
第一章 設立の経緯
 昭和二十六年六月五日、延長国会最後の日にモーターボート競走法案が衆議院に上程され可決成立するや、各府県は挙って競走会の設立に着手した。
 滋賀県においても、風光明媚な琵琶湖で本事業を実施すれば京阪神を始め、名古屋等の大都会より顧客を誘致することができ琵琶湖の観光開発に大いに寄与することは勿論であるが、県の財政が逼迫せる折柄財政収入の増加を図り健全財政を確立せんとする趣旨から競艇事業を実施することに決定をみた。
 六月十五日、滋賀県知事服部岩吉氏は、滋賀県モーターボート競走会の設立方針を定め、これの主宰方を琵琶湖汽船株式会社杜長黒川寛一氏に委託した。
 六月二十日、黒川杜長は競走会の仮事務所を浜大津の琵琶湖汽船株式会社本社に設置し、ただちに設立準備に着手した。
 先ず、本県の観光施設に重大なる役割を担っている県内の交通会社を主体とした下記の発起人による設立準備会が組織された。
総代 黒川寛一(琵琶湖汽船株式会社社長)
村岡四郎(京阪電気鉄道株式会社社長)
後藤悌次(江若鉄道株式会社社長)
川崎一雄(京阪電気鉄道株式会社専務取締役)
井汲一二(近江鉄道株式会社社長)
岩崎定次郎(大津商工会議所会頭)
出口市兵衛(彦根商工会議所会頭)
小林源太郎(長浜商工会議所会頭)
上田健治郎(滋賀県ヨット協会会長)
加田桂三(前長浜市長)
西村 章(琵琶湖観光株式会社常務取締役)
前川鬼子男(大阪窯業セメント株式会社相談役)
田中耕次(滋賀県監査委員)
 次に、会員の獲得である。会員は県内の各郡市から代表的な有力者一名乃至二名を選び会員数を多くしない方針で進められた。だがこのころ、終戦後六年を経過はしているが社会的、経済的に未だ不安定な情勢であり庶民の生活は甚だ苦しい時代であった。この情況の下でモーターボート競走の趣旨を理解し、競走会設立に賛同して入会を希望する人は少なかった。その結果、加入の確定した人十五名交渉中の人十五名余、約三十名の会員を獲得できる見通しがついた。
 八月十八日、滋賀県庁会議室で創立総会を開催する運びとなり当日会員が招集され初めて一堂に会した。ただちに定款の制定が承認され、役員選出の結果、黒川寛一氏が満場一致をもって会長に推され就任することになった。
 八月三十一日、滋賀県モーターボート競走会設立発起人総代、黒川寛一の名で運輸大臣山崎猛宛に「モーターボート競走会設立許可申請」が下記の服部知事の副申書を添付して提出された。
事第九九号
昭和二十六年九月七日
滋賀県知事 服部岩吉
運輸大臣 山崎 猛殿
滋賀県モーターボート競走会設立について副申
 標記競走会設立許可申請書別紙の通り提出がありましたが、本競走会は適当と存ぜられ且つ又、本県に於ては競願もないので至急御詮議の上御許可下さるようモーターボート競走会連合会の設立及び監督に関する規則第二条により副申致します。
(文中の傍点は筆者記入)
 どうして、服部知事の副申書を転記したかといえば、副申書文中に「本県においては競願もない」として提出をしたが、この競走会設立について横槍を入れた一派があった。
 それは当時本県より選出されていた森幸太郎代議士の一派で、既に、別の競走会を設立する準備が進められていたのであった。しかし、競走会は一府県に一団体しか許可されないし、きさに黒川寛一氏を会長とする競走会の設立許可申請書が運輸省に提出された後であった。
 その当時、競走会設立事情の詳しい経緯について、岩口麻里氏著「服部岩吉」に書いてあるのでその一部を抜粋転記して往時を回想してみることにする。
 「森は同会(注 黒川寛一氏が設立する競走会)の役員が全県的でないという理由で、市町村会長、漁連会長を交え、井花伊右ェ門、井上昇ら二十人を発起人とする別個の競走会をつくった。そして知事公舎に服部を訪れ「おれにやらせろ」と例の野人的な言葉で要求した。競走会は一府県一団体が原則だから、そしてすでに黒川寛一を会長とする競走会の許可申請書を運輸大臣に送った後だから、森のいうことをききたくとも、すでにおそい。それに服部は、競艇で金をもうけたら、それを観光施設に投ずる心づもりだった。だから滋賀県で琵琶湖観光に重大な役割をになっている琵琶湖汽船の社長黒川寛一を表面に立てたのであった。それにギャンブルに政治家が手を出してはいかんという考えも服部は持っていた。こういう性質の事業は実業界の紳士がやらぬと、批判もきびしくなり競艇そのものを下品にするおそれがあるとみていた。ともに我の強い服部と森は一歩もひかず、知事公舎で相当長時間議論をした。がついに物分かれとなった。河野一郎が奥村和三郎に、服部と森は仲が悪くて困るといったことは前に述べた。しかし県下で二人は対立の気ぶりも見せたことはなかったが競艇問題ではじめて二人は激論し、双方が集団をひきいて対立しているさまを県民の前に示したわけである。申請をしたが許可はなかなか下りぬ。そのうち競艇場の工事は進んだ。完工式の前日許可がついに下りたが、その日の朝まで森派は『許可は自分の方に下るという情報があった』といった人もある。知事の副申のない申請に許可の下りるわけはないのだが、森派はなおあきらめてはいなかったようである」
 このように県下で政治的に二派が対立したので競走会の設立が非常に難航したが、さきに提出をした許可申請に対し、昭和二十六年九月十九日付をもって、黒川寛一あてに許可が下り、同月二十九日に登記が完了し正式に競走会が発足したのである。当初の役員は次の通りであった。
会長 黒川寛一、常務理事 前川鬼子男(総務担当)、西村章(業務担当)、田中耕次(経理担当)理事 村岡四郎、後藤悌次、上田健治郎、川又清忠、井汲一二、出口市兵衛、監事 岩崎定次郎、岩崎義夫。
 なおこれよりさきに、大津市白玉町に土地建物を購入し琵琶湖汽船の仮事務所から移転をし、十月一日に競走会事務所を開設した。かくて、競走会の今後の事業が具体的に計画され、徐々に開催準備が推進されるようになった。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION