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半田市
 半田市が、愛知県下ではじめてモーターボート競走事業を開催したのは、昭和二十八年四月四日のことであります。以来、三十四年九月の伊勢湾台風まで、半田市営単独で開催してきました。さらに三十九年七月からは隣接の常滑競艇場で、半田市営を一ヵ月に二日間開催して現在に至っています。
 
 戦後の地方自治体の財政事情はきわめて悪く、本市もその例外ではありませんでした。戦後の復興、学制改革による学校施設の整備、さらに自治体警察の発足など、市財政は窮乏状態におちいっていました。
 こんな折、昭和二十六年六月十八日、国において「モーターボート競走法」が成立したのであります。この法律が国会審議の過程で成立することが確実視されていましたので、早くからその準備を進めていました。法案が国会を通過し、成立するとともに県モーターボート競走会では、同年七月五日に、名古屋ホテルで創立発起人総会を開催しています。十五人の発起人の中には、当時の半田市長・森信蔵も名をつらねています。総会後の八月二十日付で、愛知県モーターボート競走会設立許可申請書を運輸大臣に提出するまでに至りました。この申請に対し、同年十月一日付で、運輸大臣より「官文第一一〇九号」をもって設立が許可され、正式に競走会が誕生したのであります。その後十月十三日に、名古屋市内の中部日本倶楽部において、競走会創立総会が開催され、本市の中埜半左衛門、竹内増太郎は、理事に選任されました。
 以上は、県モーターボート競走会の発足当時の動きであります。
 これに対し、本市がモーターボート競走事業を開催するまでに至った経過、さらに開催後の歴史をふり返ってみます。ただし、伊勢湾台風で、施設はもちろん器具、書類等すべてを流失してしまいましたので、詳細な点について記載することができないことを、まずもってお断わりしておきます。
 
 海に面し、自然的条件に恵まれた本市は、先きに述べた県競走会の設立と足並みをそろえて、当初から同競走会の発起人に加わり、競艇事業に大きな熱意を傾けてきました。
 昭和二十六年六月十八日に開かれた臨時市議会で、モーターボート競走場設置特別委員会が設けられ、競艇事業への第一歩を踏み出しました。委員は十人で、委員長に竹内増太郎が選ばれました。また、この臨時市議会が開催された日に、国会においてはモーターボート競走法が成立しており「昭和二十六年六月十八日」は、本市のみならず競艇事業を行なっている自治体にとっては忘れられない日ということができます。
 その年十二月二十四日付「発産第二〇〇五号」をもって連合会に対し「モーターボート競走場事前審査申請書」を提出しましたが、これは通りませんでした。翌二十七年七月十日付で再び「事前審査」の申請をしましたが、この時も手続上の不備で審査が遅れました。その後、八月三十日に開かれた定例市議会で「モーターボート競走場設置について」の議案が可決され、同時に二十七年度のモーターボート競走事業費の特別会計三億六千四百九十七万五千円を計上しました。また、九月から市役所内に同事業の準備を進めるための事務局も置かれました。
 これより先、八月二十五日付「発商第九七七号」をもって、愛知県知事あてに申請していた「海面使用の件」に対し、知事から十一月二十日付で申請通り、海面使用の許可がおりました。ここに必要手続きがすべて整い、連合会の審査を受けることができ、同年十二月一日付「全連総第一三四号」で、設置承認を得ることができたのであります。
 その回答は、翌十二月二日朝、全国モーターボート競走会連合会の滝山理事長から、本市の森市長あてに「キシキヨウソウジ ヨウシンサケツテイスコンゴ ノゴ ハイリヨヲオネガ イスルタキヤマ」の電報が届きました。正式文書は、同連合会の足立会長から、審査決定に関する回答として「昭和二十七年七月十日付、貴市より申請のものを運輸省審査基準に基き、慎重に検討の結果決定した」というものでした。また、前出の十二月一日付「全連総第一三四号」の通知書には「運輸省、舶・工第九〇号」をもって正式に承認を得たという通知と同時に、添え書きとして次のような三点が希望事項として付け加えられていました。
(1)申請書記載の計画について至急競走場を建設されたい。
(2)右競走場建設工事状況並びに完成の時期等について逐一連合会に報告せられたい。
(3)モーターボートの整備及び選手の確保については格段の御協力をお願いする。
 この通知とともに、翌二十八年一月十日には自治大臣から、本市に施行者としての認可がおり、本市のモーターボート競走事業の開催が確定したのであります。
 また、二十七年十月の市制施行十五周年記念行事には、モーターボート競走の模擬レースが半田港で行なわれました。模擬レースとはいえ、筒井三治、遠藤英二、伊藤昭次さらに紅一点として下村鈴子ら登録選手六人を招き、舟券も発行するなど、本番さながらのレースを展開しました。観衆は、当時すでにあった競輪、競馬とは異なったスリルを満喫して、近い将来、誕生する「半田競艇」へ大きな期待を寄せました。
 二十七年十二月の定例市議会において、競走場設置の許可に伴い、同月二十七日付で競艇事業課を設けることを決めました。さちに同事業の適切化と能率的な運営をはかるため、市議会に「競艇事業振興特別委員会」が置かれました。同時に「半田競艇」の初レースは、二十八年四月四日と決定されました。
 
 二十八年二月十一日、待ちに待った競艇場陸上施設の起工式が、建設地である当時の北新田地内で盛大に行なわれました。この日、式のあと愛知県出身の四選手(後藤盤谷、筒井三治、伊藤昭次、下村鈴子)による試走会が行なわれ式典に花を添えました。
 こうして四月の初レースを間近に控え、競艇場の建設は急ピッチで進められ、三月二十五日、晴れて完成を見たのでありました。
 その間、三月の予算市議会で、競艇事業会計に七億五千七百九十八万円を計上して、同事業の運営にあたることになりました。
 開催に先だち、開場のための競走会との交渉、艇、モーターの注文、大時計はじめ器具の購入、従業員の募集ならびに訓練など、初の大事業に取り組む、思えば長い苦しみでした。また、初レースに出場する選手三十九人は、四月一日に来半、レースに備えて水しぶきをあげ練習を重ねました。初レースに出場した選手は、次のとおりです。
 宮川彦太郎、真島勝義、山下正義、浜田力、山口惣市、長谷川玉義、筒井三治、吉田正雄、田島信雄、大谷裕子、吉沢源太郎、浅田福光、富田佳治、外村外一、大橋範、高島克己、東根浅雄、渡辺研、引馬節男、山本和男、大島次夫、森下和俊、紀平道好、子守次男、吉川正文、笹本和男、藤川義男、有隅勝、堺節夫、河原昭治、東胱、高山寛、武田秋一、伊藤昭次、黒田次男、池田和作、岡田忠雄、石村和昭、下村鈴子。
 昭和二十八年四月四日、東海地方では三重県津競艇に次いで二番目、県下で初のモーターボートレースが、半田競艇場で開催されました。
 四月四日午前九時、晴れの開場を行ないました。いよいよ十時、白、黒、赤、青、黄、緑の六艇がスタートラインに並び、一、八〇〇メートルのレースが展開されました。初レースで早くも五千円台、最終の十二レースでは一万円台の“アナ”が出るなど、つめかけた二千余の観衆は、レースに酔いしれ初日を終了しました。
 こうして、四、五、七、八、九の五日間の第一節では、一万四千三百五十九人が入場し、七百九十四万円の売上高を記録しました。この数字は、当初、予想していたものより悪かったため、翌十日、さっそく市議会全員協議会が開催され、こんごの対策が熱心に討議されました。
 開設当初から、開催期間は一ヵ月十二日間、モーターはキヌタとヤマトが、ボートはハイドロとランナの二種類がそれぞれ使われていたのは現在も変わりありません。番狂わせが多く、入場者の興味を引くために風に弱いスリーポイント(3PH)の艇を使用したのは当初だけでした。また、舟券の買い方も今とは違う、単勝式、複勝式、連勝式の三種類でスタートしました。
 同年五月四日、市議会議員改選後の初議会、競艇事業開始後一ヵ月目に開かれた市議会本会議においても、競艇事業運営について活発な質疑応答があり、同事業に対する市のなみなみならぬ熱意が示されました。
 半田競艇が開催されてから三ヵ月を経過した、二十八年七月十日には隣接の常滑市でも、競艇事業が開催されることになり、当初は入場者の減少を心配したのでありますが心配とは逆にうれしい結果がでました。すなわち、競艇ファンはかえって増加の一途をたどり、売上高の向上をはかることにもなりました。
 
昭和28年4月初開催当時の半田競艇場
 
 四月開場以来、回を重ねるにつれて入場者、売上高、ともに増し、八月には、「半田競艇まつり」と銘うって六日間、記念レースを開催しました。この期間中は、商店街も協賛の大売出しを行ない、芸妓総出の花電車が街を練るなど、娯楽施設の乏しかった時代ではありましたが、全市が祭り気分にひたったものでした。
 翌九月二十五日、東海地方を襲った台風十三号では、施設にほんのわずか被害を受けるだけですみ、関係者一同、ホッと胸をなでおろしました。
 この年十一月のレースで、本命は当時、ファンから“競艇の神様”といわれていたベテランの三津川要をアタマに二着にはこれまた好調の岡田忠雄の6・3人気で、大方の入場者がこの窓口に殺到しました。ところが、レースが始まってみると、三津川が失格、岡田がエンストという思ってもみない出来ごとが続出し、山地俊夫と山田実の5・2艇が一、二着に入り、的中券一枚・二十五万円の“大アナ”が出てファンを熱狂させました。この“大アナ”は当時、全国の競艇場でも最高の配当金として話題を呼びました。
 この“大アナ”が出てからは、これまで一度も競艇場へ足を運んだことのない人までも「一度、半田競艇へ行ってみよう」ということになり、地元の人はもちろん、名古屋三河方面からの来場者が急激にふえました。
 
 こうして初めて取り組んだ大事業も創業期の苦しみをなんとか切り抜け、二十八年度一年間に百三十日開催し、二十七万一千六百二十七人が入場、五億七千百十三万五千七百円の売上高があり、競艇事業の必要経費を差し引いた額一千八百四十万円を収益金として一般会計へ繰り出すことができました。
 翌二十九年度は、競艇事業会計に一億六千八百六十四万円の予算を組みました。この額は前年に比べ五億八千九百三十三万円余の減ですが、これは払戻し金を計上しない方針によったものです。
 一年を経過し、いろいろなことを体験してみると、本レース場は外海に面していたため、東と南の風が吹くと波が高くなり、レースが荒れることがわかりました。このためレース場の沖にドラム缶をつないで波止めをしたり、荒天時のレースにはランナボートにゴムの浮袋をつけて転覆を防ぐなど、健全娯楽を前提として、みんなが楽しめる競艇場づくりに苦心を重ねたものです。また、ボートの転覆防止策として、ベニヤ板をボートの後部に取り付けて走った“げたばきレース”が登場したのもこの頃でした。
 この年の夏には、一年前の“大アナ”とはまったく逆の的中券0というレースがあり、全員に八十円ずつ払い戻したことがあります。
 この年(二十九年度)は、百三十三日開催し、五億二千二百六十二万八千三百円の売上高を記録しました。
 
 三十年の八月には、三河の蒲郡市に県下三番目のレース場ができ、競艇人口はますますふえ盛況をみるに至りました。
 三十年度の一日平均売上高は、三百五十四万円でした。
 迎えて三十一年の正月レースでは、一日から三日まで連日、一千万円以上を売り上げ、正月景気にわきかえりました。
 また、この正月レースが終わった一月末には、尾張と三河を結ぶ衣浦大橋が完成しました。これを記念して行なわれた“衣浦大橋竣工記念レース”で、整備員がエンジンを調整中、航行してきた船に衝突して死亡するという、本競艇史上最悪のできごとがあり、関係者一同、故人の霊を慰めました。
 このような忌まわしい事故があったにもかかわらず、競艇事業は市民の中にしっかりと根をはり、市内からも前野英夫をトップに竹内幸三、菊地昭二、蜷川和正、桑子佳純、鯉江三郎、竹内淳麿、清水敬治、都築重夫、石川洋ら多くの選手を出し、今なお第一線で活躍している選手もいます。
 三十一、三十二、三十三年と年を追って、事業成績も伸び、収益金は公共施設の整備に大きく貢献しました。
 
 昭和三十四年九月、その月の後節レースを二十五日で打ち上げ、ホッとしていたのもつかの間、わが競艇事業にとって決定的な打撃となったのが、翌二十六日夜半、東海地方を襲った伊勢湾台風でした。
 競艇場は、選手控え室の一棟をわずかに残すのみで、他の建造物、諸器機、書類等すべてを流失してしまい、陸上施設が建っていた敷地は、一夜のうちに白砂の荒野と化してしまったのであります。本市は、この台風で競艇場ばかりでなく、全市が壊滅状態という空前の被害を受けました。
 そして、十一月十二日開かれた緊急市議会で、深津市長から「こんどの台風で本市競艇場は、全滅的被害を受けました。競艇事業は、現在本市の大きな財源ではありますが他に優先的復興事業がありますので、この際思い切って廃止にふみ切ったのであります」という廃止の旨の提議があり、ここに本市単独の競艇事業を廃止することが確定したのであります。
 このため、この年は日程の約半分にあたる六十八日間を開催して、遂に閉鎖してしまいました。
 レース場は再開できなくなりましたが、施行権はその後も保持していました。このため三十九年六月、常滑市に対して同市のレース場使用を申し入れ、同市の協力を得て同年七月から、一ヵ月二日間を半田市が開催することになり現在に至っています。
 常滑競艇場を借用して開催するようになってからの同事業の収益金は、すべて土木事業、特に道路の整備費として使っています。
 昭和二十八年四月四日、右も左もわからないまま、県下で初めての競艇事業に取り組み「これから・・・」というときに伊勢湾台風にあうなど、幾多の苦難や思い出を残してきた「半田競艇」も、ついに三十四年九月、市単独開催を断念したのであります。三十九年七月からは、常滑市はもちろん皆様方関係者一同の深いご理解で、再開させていただくことになったのであります。
 
昭和34年9月、伊勢湾台風後の半田競艇場、建物は選手控室の残骸、この左方に投票所等の施設があった。


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