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国際保健協力
フィールドワークフェローシップ
―12年の歩み―
序文
 私たち国際保健協力フィールドワークフェローシップ(以下、笹川フェロー)同窓生の中には、厚生労働省やJICA、UNICEFをはじめ、何らかの形で国際保健並びに公衆衛生の分野に自らの進路を見出した者も少なくありません。笹川フェローへの参加、世界の人々の健康水準を高めたいという共通の興味をもった仲間との出会いは、私たちの進路の決定に大きな影響を及ぼしています。それぞれの分野で地に足を着け努力を積み重ねる同窓生の縦のつながりも出来つつあります。この冊子は、こうした笹川フェローの歩みを参加者自らの手で記し、広報することを目的として企画されました。これからもこの笹川フェローが続いていってほしいと願っていますが、そのためには、私たち同窓生が直接あるいは間接に何をすべきかを考え、その意志を共有していくことが必須であると思います。この冊子がその一助となることを期待しています。
 本冊子の企画にご理解頂いた笹川記念保健協力財団、同財団 紀伊國 献三 理事長、泉 洋子さんはじめスタッフの皆さまに厚く御礼申し上げるとともに、本冊子作成のため、企画から原稿の収集、編集と力を尽くして頂いた大阪大学 山道 拓君、山梨大学 大渕 雪栄さん、今井 健太郎君はじめ11期、12期参加の皆さまに心より感謝いたします。
 
1期同窓生 名古屋大学 八谷 寛
 
* 以後、敬称略
 
国際保健協力フィールドワークフェローシップの意義について
国際保健協力フィールドワークフェローシップ企画委員長
国際医療福祉大学総長
大谷 藤郎
 
 国際保健協力フィールドワークフェローシップ(以下、笹川フェロー)は、笹川記念保健協力財団が厚生労働省及びWHO西太平洋地域事務局のご協力を得て、「全国医学生の皆さんに、大学医学部キャンパス内とは別の視点から、国際保健協力に目を向けていただく機会と場を提供する」「それが刺戟になって国際性に関心を持ち、将来そのうちの何人かは国際の場で活躍されることになれば嬉しい」という趣旨で設立されました。したがって、(1)医学生であれば全国どこの大学からでも隔てなく参加できる、(2)国内研修と海外研修の二本立とし、海外研修にはWHO西太平洋地域事務局の協力を得て現地の学生と直接交流する(海外研修参加は予算上毎年10名に限定)、(3)講師・アドバイザーには国際保健協力経験者、関係者があたる等の原則を立てて運営してきました。1995年(平成7年)第1回開催以来、幸い年々参加者は増加し、2005年(平成17年)第12回を迎え、海外研修計167名、国内研修計293名に達しました。参加大学も計75大学に及びます。これからもぜひ続けたいと当初から企画に関わってきた私としては念願しております。
 
 さて、笹川フェロー設立に到った経緯について、この機会に私の思いを述べさせていただきます。1960年代後半に私は旧厚生省官僚として医師研修と海外医療協力の二つを担当していました。当時研修についてはインターン・国試ボイコットから国立病院への就職拒否闘争など不毛のスチューデント・パワー時代が数年以上も続きました。一方日本の復興と共に要望がたかまってきた海外医療協力にはそれにふさわしい人材が殆んどなく、WHOや国際機関で活躍する医師もほんの一握りの人しかいませんでした。
 「国際化に向かう日本の将来を考えるとこのままでは問題だ。医学生に国内外の社会を広い立場から見て国際的視野を持たれるキッカケを考えよう」。紀伊國献三先生と相諮り、砂防会館に事務所のあった財団法人ライフプランニングセンターの民間事業として、1975年(昭和50年)、二日間の「冬期大学」を始めました。これには理事長の日野原重明先生をはじめ世界医師会長を経験された日本医師会長の武見太郎先生など地域現場や国際的な場で活躍している著名人が喜んで協力してくださいました。冬期大学は好評で、それに気を好くして1977年(昭和52年)には大学で殆んど見聞することのないハンセン病研修をテーマとする「夏期大学」を、こちらは笹川記念保健協力財団の協力を得て長島愛生園で開催しました。
 冬期大学、夏期大学とも創設以来毎年何人か何十人かの医学生参加があり、その中から厚生省やWHOの幹部になる人が輩出しました。1978年(昭和53年)に日本人医師である中嶋宏氏がWHO西太平洋地域事務局長に厚生省推薦で当選、10年勤務の後、1988年ジュネーブのWHO本部事務総長に就任しました。1945年(昭和20年)第二次大戦敗戦以来、日本は長らく国際の場で発言の機会を得られませんでした。国際機関のトップに立って世界の平和に貢献することは敗戦後日本人の夢でした。それを始めて叶えたのが私たちの仲間である中嶋氏でした。それに関係してきた私や紀伊國先生がそのときいかに飛び上がって喜んだか、若い皆さんにもその気持は分かっていただけるでしょう。当時川口雄二さんや篠崎英夫さんなどもWHOへ送り出しました。その後、数も増加し、現在活躍中の人も多いのです。1996年(平成8年)はらい予防法廃止が成就した年ですが、それまでの国の責任を考慮し、夏期大学はハンセン病研究センターで行うことになり、現在も国の予算事業として続いております。
 1989年(平成元年)私はがんで手術し、しかもその前後は高松宮記念ハンセン病資料館建設などで忙しくしていました。あるとき冬期大学はどうなっているのかと訊ねましたところ、「最近は国立病院や厚生省を志願する人が多く、海外で活躍する人も増えた。必要がなくなったのでやめた」とのことでした。私はびっくりして、冬期大学は人が来るとか来ないとか、そんな狭い実用面だけを目指したものでない。国と民間の有志が集まって、大学とは違う独自の視点から国内外の社会活動を医学生に広く見て貰う場を提供する趣旨である。九牛の一毛かも知れないが、異なる大学の医学生の皆さんに、立場を変えて話し合う場を提供することに意味があるのだ。それで紀伊國先生と相談して、1995年(平成7年)にテーマを国際保健協力にしぼって現地研修を加え、笹川記念保健協力財団で実施して貰うことにしたものです。これが笹川フェローです。
 私は厚生省の立場で、紀伊國先生は民間国際人の立場で、お互いに同志的紐帯で30年以上にわたって、冬期大学も夏期大学も笹川フェローもやってきました。私たちの志は、「国際保健協力に止まらず、日本の医療人がその分に応じて世界の平和に積極的に寄与するようになって欲しい」ということです。形は時代と共に変わるだろうが、どうか私たちの志とささやかなこの事業が皆さん自身に継承され、さまざまに発展していくことを心から願っております。
 
国際保健協力フィールドワークフェローシップの12年間
笹川記念保健協力財団
理事長 紀伊國 献三
<はじめに>
 近年、国際協力・国際交流活動における日本の果たす役割はますます重要になっています。保健医療の分野でも、数多くの日本人専門家が世界で指導的な役割を果たしています。世界中の人々の健康増進のために貢献する人材が求められている今日、日本の役割への期待も高まっていることは言うまでもありません。
 
 このようなことから、笹川記念保健協力財団では、将来の国際保健医療分野の中核を担う医学生等を対象とし、国際保健協力フィールドワークフェローシップ(以下、笹川フェロー)を開始しました。国内研修では様々な視点からの日本の国際協力活動について、また海外研修では開発途上国の保健医療の実態を学ぶ機会を提供し、この分野に対する理解を一層深めてもらうことを目的として、1995年より毎年実施しており、今年度、第12回目を無事に終えることができました。
 
 そもそもなぜこのプログラムが生まれたかというと、医学生のみなさまに、将来、臨床だけではない、国際保健や医療行政といった様々な働き場所があるということをわかっていただきたかったということが一番の理由です。若い医学生に、医師としての幅広い活動をアピールするために当時の日本医師会長の武見太郎先生をはじめ、様々な分野から選りすぐりの講師をお招きし、日野原重明先生のライフプランニングセンターと協力して「冬期大学」として、2日間の国内研修プログラムから始まったのが1975年のことでした。その結果かどうか、一昔前までは人材不足に悩んだ医系技官希望者が増えてきて、今では試験で選考されるまでになりました。1993年の冬期大学の打ち切りの後、さらに充実したプログラムをということで、発案者の大谷藤郎先生とご相談して始めたのがこの笹川フェローなのです。更には、大谷先生と私が、わが国はじめての医療系総合大学として1995年に開学した国際医療福祉大学の創設に関連したこともあり、これからの医療や国際医療協力にはチームワークが必要との考えで、同大学の学生も参加していただいています。同大学からの参加学生はじめ、医学生からも大変好評をいただいています。
 
<笹川記念保健協力財団について>
 さて、笹川記念保健協力財団について少し触れましょう。当財団は、1974年、抗ハンセン病薬プロミンを日本で合成された石館守三先生と、財団設立者の笹川良一先生の出会いから、わが国周辺のハンセン病で悩む国との協力を目的として始まりました。その結果、病から来る身体的苦しみのみならず、社会からの不当な偏見にも苦しむハンセン病に強く関心を持ち、ハンセン病を中心として国際協力をやっていこうという財団になったのです。
 
 あるとき、私は笹川さんに呼ばれて言われました。「ハンセン病で困っているアフリカのために1億円を送りたい」と。途上国と仕事をする上で気をつけないといけないことは、お金を送った後、本来の目的のために使用されているかどうかということです。残念なことに、個人の懐を暖めることとなるケースはその当時は珍しくなかったのです。そこで提案したのが、世界保健機関、つまりWHOを通しての支援でした。その数週間後には私はジュネーブに飛んで、マーラー事務局長と話をし、そこからWHOと財団との関係が生まれ、笹川良一会長亡き後も、30年余りに及びWHOに対する拠出金により、全世界ヘハンセン病治療薬MDTを無料配布することが可能となりました。このことが「2000年末までに、ハンセン病を公衆衛生上の問題として制圧する」というWHOのハンセン病制圧宣言を実現に導くために大きく貢献し、グローバルレベルでの達成は、宣言どおり果たされました。その後、この目標はすべての国レベルで2005年末までに達成することに修正され、2006年1月現在で7カ国以外のすべての国で達成され、これら7カ国に関しても近々目標の達成が見込まれています。
 
<笹川フェローに望むこと>
 ハンセン病分野だけでなく、世界には海外支援を必要としている様々な保健医療問題があります。財団では、少しでも多く、これら問題に取り組む気力と実力のある専門家を日本から送り出すことを願って、笹川フェローを実施してきました。笹川フェロー参加者は国内研修・海外研修を合わせて、すでに400人を超えました。参加者の中には、卒業後、厚生労働省や独立行政法人国際協力機構をはじめ、いろいろな形で国際保健医療や医療行政の分野に進んでいる方々は少なくありません。もちろん、臨床の道を進んでいる方も大勢いますし、それぞれの形で幅広く社会に貢献されていることはすばらしいことです。
 
 今後も、笹川フェローは継続していきたいと考えています。参加者のみなさまには、これからも横のつながり、縦のつながりを大切にしていただいて、笹川フェローで得た経験を誇りに、それぞれ見出された分野で創立者の願いを少しでも実現していただきたいと切に願っています。


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