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表紙説明◎名詩の周辺
乃木将軍を挽す―杉浦重剛作
山口・下関市長府
 乃木将軍とは、明治時代の陸軍大将・乃木希典のことですが、乃木将軍は軍人としてだけでなく、文人としても教養が高く、将軍の作られた多くの漢詩は私達吟剣詩舞道家とは切っても切れない関係にあります。
 
 
 乃木希典は、幼名無人(なきと)。嘉永二年十一月十一日江戸麻布の長州藩邸に毛利家家臣乃木希次(まれつぐ)の三男として生まれました。藩邸はその昔、赤穂四十七士の一部の者がお預けになり割腹した所なので、父親は特に四十七士の生き方を武士の典型として教えたといいます。標題の詩中「赤城の熱血」とあるのは、これを指しています。十歳のとき、父母に従って長州に行き、漢詩文のほか、馬術・剣術・弓術・砲術を学び、また松下村塾では玉木文之進(乃木の親戚であり、吉田松陰の叔父)から教育を受けています。慶応三年、長州征伐のとき、高杉晋作の報国隊に加わり、戊辰の役では東北に転戦して功を立て、明治四年陸軍兵制の確立とともに少佐となり、その後、西南戦争の連隊長、歩兵第一連隊長、歩兵第一旅団長等を歴任しました。日清戦争では第二軍に属して出征、各地を転戦、明治二十八年、中将に進み第二師団長となります。三十七年、日露戦争では第三軍司令長官となり、大将に任ぜられました。三十七年八月から五カ月旅順総攻撃を指揮しましたが、この時の死傷五万五千。長男勝典(かつすけ)は南山に、次男保典(やすすけ)も二〇三高地で戦死しました。
 その後、宮内庁御用掛や学習院院長となり、伯爵を授けられましたが、四十五年七月三十日、明治天皇崩御。大正元年九月十三日、御大葬の当日午後八時、霊輿御出発の号砲を合図に、静子夫人とともに殉死、享年六十四歳でした。
 標題の詩はこの乃木将軍を尊敬していた作者が、その死を痛惜して作ったものです(作者、杉浦重剛については二〇〇三年六月号「表紙説明」参照)。
 なお、乃木将軍を祀る乃木神社はこの他にも東京乃木坂、栃木県那須、京都など三カ所にあり、いかに日本人が乃木将軍の人格・精神を尊敬しているかを示すものといえます。
 
城下町長府の名にふさわしく町を歩くといまも多くの武家屋敷や練塀(ねりべい)が見られる
 
乃木家用の井戸「梅井」。乃木将軍の幼年時代より在り、将軍が旧邸を訪問の時には必ずこの水を汲んで昔をしのばれたとある
 
【乃木神社】JR下関駅よりバス長府方面行きで約22分、バス停「城下町長府」下車、徒歩約5分。


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