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'06剣詩舞の研究◎5
一般の部
石川健次郎
剣舞「山中鹿之助」
詩舞「春簾雨窓」
剣舞
「山中鹿之助(やまなかしかのすけ)」の研究
山田済斎(やまだせいさい) 作
 
〈詩文解釈〉
 絶句「山中鹿之助」の作者は山田済斎(生年不詳〜一七九四)以外にも藤井竹外、松口月城によって詠まれ、よく知られた題材になっている。山田済斎は江戸中期後半の儒者で、石王塞軒に学び京都では多くの門人を育成した。
 ところで本作品の主人公山中鹿之助(一五四五〜一五七七)は戦国・安土桃山時代の武将として知られ、山陰の名族尼子家十勇士の筆頭であった。鹿之助の本名は幸盛(ゆきもり)、早くに父を失い、幼少時から母親の厳しい教訓をうけて、常々「楽しい時は勿論のこと、苦しい時こそ部下の先に立って、その苦しみを自分が引き受ける武士になれ」と諭されてきた。
 ときは戦国大名による群雄割拠の世の中、永禄九年(一五六六)鹿之助が二十二歳のとき、彼の主君尼子義久(あまこよしひさ)は本拠である出雲の富田城を毛利元就の大軍に攻め落されてしまった。浪人となって東国にのがれた鹿之助は、京都東福寺の僧に身をかくしていた尼子義久(よしひさ)を推し、隠岐に渡って戦力をととのえ、遂に挙兵して旧領出雲を奪回するなど赫々たる戦果をあげた。
 こうした戦いの陣中にあっても鹿之助は詩文に述べられた如く、“我に七難八苦を与えたまえ”と三日月に祈った寓話(ぐうわ)は有名である。前にも述べたように、彼はこの世の苦悩を率先して自分が受け止めようと、母の教訓を守ったのである。
 また鹿之助の作とされる“憂きことの猶(なお)この上につもれかし、限りある身の力ためさん”も同様な心の叫びとして詠まれたものである。
 併しその後の鹿之助は主君尼子勝久を奉じて毛利軍と徹底抗戦したが播磨の上月城で武運拙なく敗北し、主家再興に一生を捧げた忠臣の生涯を閉じた。
 そこで、作者の山田済斎は忠臣山中鹿之助を次の様に詠んだ。『戦場では敵に討たれても止まる(とどまる)事はなく、常に前進する彼は敵など眼中にない。その真っ赤に燃えた鹿之助の戦う気迫は実に立派な武士の魂である。そうした時でも彼は西の空に輝く三日月に向い、何卒多くの苦難を、我が試練のために与えよと、心から祈った。』
 
山中鹿之助(像)
 
〈構成振付のポイント〉
 この作品の舞踊構成を考えてみると、詩文の成立から前半と後半に分けて山中鹿之助の人物像を描いてみたい。
 即ち前段の起承句では、武人として戦場で見せる勇壮な活躍を剣技によって構成する部分と、後段の転結句では戦いにおける苦戦の様相の中で、更なる奮起を神仏に祈願する鹿之助の姿勢を展開する。詩文では具体的な合戦について触れていないから、振付には随所に創意が必要である。一例として前奏から起句にかけては、抜刀した刀を振りかざした鹿之助が馬に乗って登場し、舞台を一巡した後に、敵陣に飛び下りて激しく剣技を見せる。地上の戦いでは、前後左右に攻撃の手を見せ、間隙を縫っては同僚の助太刀に飛び回る。承句では敵に囲まれた鹿之助が、策を弄してこれを打ち破る。後段では、こうした苦戦の最中に思わぬ不覚の手負をおうが、不屈の精神力で立ち直り、例えば扇を使った抽象表現を創意して、結句では更に扇で月を形容して空を見上げる。最終段階では刀をかざしたポーズの後に月に対して合掌して祈りを捧げて終り、後奏では役を離れ普通に退場する。
 
〈衣装・持ち道具〉
 武将の役なので衣装は黒紋付に袴が最適。兜のイメージで鉢巻は有効、たすきも効果的に使える。扇は天地金、銀無地などがよい。
 
詩舞
「春簾雨窓(しゅんれんうそう)」の研究
頼 鴨(らい おうがい) 作
 
〈詩文解釈〉
 この詩の作者頼鴨(一八二五〜一八五九)は頼山陽の三男で勉学のため大阪、江戸に学んだが詩学は梁川星巌を師とした。併し理論派の彼は反幕運動に荷担して捕らえられ三十五歳で処刑された。
 この詩は大変情緒的な題名にはなっているが、その内容は真理を求めようとする作者の心が鋭く述べられている。先ずその内容は『春は自然に巡って来るし、人々はこれを自然に迎い入れる。しかし世の中にはこの自然に対して、例えば雨などが降って天気が悪いと不満をいい、或いは晴天だといって喜ぶ人が多い。しかし雨降りといっても、春の雨は花を散らすばかりでなく、花を咲かせる滋養分となることも忘れてはいけない。
 自分は今こうして檐声(えんせい)(雨だれの音)を聞き、窓の外の春雨を眺めていると、同じ雨でも花を散らせる時期と、咲かせる時期では、雨に対する人間の感情が異ってくることに気がつく』と述べている。
 
春雨に烟る(けぶる)五条坂の桜
 
〈構成振付のポイント〉
 この様な作品を舞踊化するのは大変難しく、つい詩文をなぞった振りの羅列になりがちだが、全体的な意味が把握できる様な構成を考えたい。そこで一つの試みとして作者の心情を、まず一人称的に想像しながら筋を展開してみよう。(前奏)は作者が春雨の降る坂道を帰宅する心で登場する。振付は扇で笠または傘を形容し、伏線として途中で桜を眺めて置く。(起句)は雨音が気になり、すだれ越しに窓の外を見る。振りは扇を活用して簾の操作や、雨脚(あまあし)の様子を表現する。(承句)は、さてこの雨で花が散ってしまうかもしれないという困惑の気持ちを振りで見せ、ままならない自然の営み(いとなみ)に苦慮する様子を抽象的に表現する。(転句)は、春の雨は折角咲いた花を散らせてしまうこともあるが、また見事な花を開かせるためには必要だと云うジレンマを自覚し、振付例としては、扇で花を散らす振りと、花が開く振りを対称的(シンメトリー)な角度で見せる。具体的には、例えば下手向きで花の散る振りを見せ最後にその扇も散らしてしまい、次に上手に向きを変えながら新たな扇を取出して花が開く様子を華麗に表現する。さて(結句)は作者の心に戻り。雨音を聞きながら、人々にはそれぞれの思いがあることに気付き、転句とは異なる抽象振りで、例えば転句で散らした扇と開花に使った扇をそれぞれの象徴として二枚扇による異った感情表現を演出する。後奏は作者として静かに退場する。
 
〈衣装・持ち道具〉
 季節は春だから、明るいグリーン、ブルー、グレー系などの色無地を基調にして袴を選び、詩意からしてあまり派手な色彩は避けたい。扇は振付によるが、例えば散り花の模様と桜花の図柄で組み合わせるか、又は色ちがいの切箔散らしなどで象徴的模様の組合せを考える。
 
今月の詩(2)
平成十八年度全国吟詠コンクール指定吟題から
【幼年・少年の部】(絶句編)(2)
不識庵機山を撃つの図に題す 頼山陽
 
【大意】(上杉謙信の軍は)ひっそりと鞭音も立てないようにして、夜のうちに千曲川を渡って(川中島の敵陣に)攻め寄せた。(武田方は)明けがた(霧の晴れまに)(上杉方の)大軍が大将の旗を中心に守りながら迫ってくるのを見つけた。(この戦いで謙信は信玄を討ちとることができなかったが、)(その心中を察すると、)まことに同情にたえない。この十年の間一ふりの剣を磨いて、(その機会を待ったのであるが、)うちおろす刀光一閃の下に、ついに強敵信玄をとり逃したのは無念至極なことであった。
 
【青年の部・一般一部・二部・三部】(絶句編)(2)
桂林荘雑詠諸生に示す その一 広瀬淡窓
 
【大意】桂林荘時代の作品で、四首連作の第一首。最も有名な作である。まだ規模の小さい塾の様子がうかがえる。共に暮らし、共に学ぶ楽しみを、冬の朝の炊事の支度の一齣に捕らえたもの。
 他郷へ出て勉学するのはつらい、などと言いたもうな。着物をともにする友もでき、仲よく暮らすようになるのだ。朝早く、柴のとびらを開けて外に出れば、雪のように霜が降りている。さあ炊事のしたくだ。君は川の水をくみに行きたまえ、僕は薪を取りに行こう。
(解説など詳細は財団発行「吟剣詩舞道漢詩集」をご覧ください)
 
吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第25回
文学博士 榊原静山
江戸時代の詩壇【その一】
 時代の推移を展望したところで、つぎに江戸時代の漢詩を伝承した人々をみてゆく。
 儒学者は前節に述べたように藤原惺窩の系列がうかがわれたが、漢詩作者についてもこの時代、やはり先駆者は藤原惺窩である。
 
藤原惺窩(一五六一〜一六一九)播磨の人で、名は粛、字(あざな)は斂といった。藤原定家の十三代の子孫で、初め仏門に入り、京都の相国寺で仏教学を修め、秀吉の朝鮮遠征の時、肥前の名護で徳川家康に会う。
 陣営で家康のために書を講じ、また江戸でも家康に学問を教えた。後に惺窩の門人林羅山の勧めで家康は惺窩を学長にして、京都へ学校を創設しようとしたが、家康が没したのでこれは実現しなかった。彼は朱子学を深く修めただけでなく、陽明学にも深い関心を持ち、前述した如く江戸時代初期の学問の祖といわれた。
 詩文は、“惺窩先生文集”二〇巻があり、門人には有名な林羅山、堀杏庵、松永天五などがいる。
 
 
(語釈)遊芸・・・芸に遊ぶで、技芸のこと。化工・・・造化の工、天地の化のこと。無声詩・・・詩のこと。有声画・・・画のこと。西湖十景・・・中国の杭州の西湖の十勝景のこと。
(通釈)優れたこの芸術は天地の化を奪っている。徳が成り上下天地に精通している。この画とこの詩があまりにも優れているので、我は中国の西湖の十景に遊ぶような思いがする。――


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