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為朝公上陸之趾碑
 再びもと来た道をひきかえし、先は素通りしてきた「為朝公上陸之址碑」および「百按司墓」へ足を運ぶ。「運を天に任せて」為朝公が漂着したので、「運天」と呼ばれるようになったというドラマチックな話が伝えられている。為朝公上陸の話は伝説の域をでないようだが、この伝説自体に歴史があるのだと、古ぼけた周辺の祠や香炉から感じる。
 
源為朝公上陸之趾碑
 
 石碑の建立は大正13年でそう古いものではないが、古来からの伝説をどう受け止め、どのように内在化していくかによって歴史は作られてきたのだろうし、これからも歴史をつむいでいくとこになるのだろう。(松村)
 
百按司墓
 百按司(ムムジャナ)墓の方向を示す案内板に従い、草や木の枝をよけながら山の中を進んでいく。ムラウチ集落の裏手にある山の斜面に一人歩けるくらいの道があり、百按司墓へは、獣道のような細い道を通って行く気分である。どこに続いているのか先は見えず、実際、進めば進むほど寂しくなり、目的の墓は見ずに途中で引き返してきた。
 ムラの人にこのことを話すと「前は通れたけど、今は木がたくさん茂ってしまって、こわいよー」との事であった。あんな奥まったところへも以前は簡単に行き来していたようである。不思議な気がした。(松村)
 
運天にある百按司墓
 
ムラウチ集落
 運天トンネルをくぐりムラウチ集落に入って、まず目に付くのは防空壕である。崖にいくつも穴が掘り込まれ、今は倉庫かゴミ置き場のように、不用になったものを入れるのに使っている。加工しやすい地質なのでしょう、豪の入り口は、きっちり整えられて、運天の浜近くにある古墓群の様相とも似ている。防空壕の前を過ぎ、坂を下って福木の並木を通り、コバテイシのある通りまで出てそのまま左に折れ、崖縁の古墓群の下に行く。見上げると、ガタガタにずれた木の板の間から、黒釉のかかった陶製の厨子甕が覗いて見える。
 古宇利丸の発着がなくなり、運天港はどんな様子なのか「上間商店」のおじさん、おばさんに聞いてみると、「もー寂しくなった。人もいないよー」ということであった。以前はいつも車でいっぱいだった駐車場も今はそれ程でもない。上間商店の前の木陰で涼み、食堂でソバやぜんざいを食べながら船待ちをする人たちの姿はもう見られない。急いでも、焦っても、時間まで船はこない、この手持ち無沙汰な時間を、諦めたように気楽にのんびりとすごす人々の風情がなんとも言えずに好きだったので、寂しいような気がする。それでも、私がいた短い間に、買い物のお客さんが何人も出入りしていた。「大繁盛じゃないですかー」と店の人にいうと、「今日は休みだから、釣りの人とか中学生とかねー」といっていた。
 
運天のトンネル(平成17年)
 
 夜には、近所のおじさんたちが上間商店の食堂で一杯やりに来るそうだ。「酒飲みは嫌い」という上間商店のおばさんであるが、「みんな悪いお酒じゃないからいいよ」と、漬物などちょっとしたものを用意してあげているようである。「儲かる、儲からないじゃないからねえ、店やめたらボケてしまうよ」と、まだまだ運天港のまちやーぐわぁは健在である。(松村)
 
 ムラウチ集落の東側に大和人墓の墓塔が二基ある。運天港と大和と津(港)と船との関わりを知ることができる。ひとつには「明和五年戌子年八月」と「戒名は「妙法□定信士」とあり明和5年は1768年である。裏に「屋久島宮之宮之浦 父立也新七敬白」とある。屋久島の宮之浦の人で、親子で運天津にやってきたのであろうか、漂着なのか病死なのだろうか。父親の新七が息子のために墓を建立したようだ。
 もう一基には「安政二年卯十月十日」とあり、戒名は「即心帰郷信士」とあり、出身地は不明だが墓の形式から大和人である。安政2年は1855年にあたり、戒名から他の地運天で亡くなり、故郷に帰りたいとの思いを込めての戒名であろう。
 運天港には薩摩軍の琉球侵攻後、種子島や奄美大島や沖永良部島などの船が、米の積み出しや潮掛などで往来している。運天港と道の島や薩摩との関わりがあったことが伺える。また、運天港は琉球が薩摩支配をカムフラージュする役目を果たしていた。
 
大和人の墓塔二基


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