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5. 湧川港
 湧川は今帰仁村の一番東側に位置する字で、羽地内海に面している。海岸沿いやヤガンナ島には塩田跡が今でも残り、かつての塩田地帯であった。対岸の屋我地島にも塩田があり、羽地内海を舟で渡り嵐山から塩炊きの燃料となる薪をとり運んでいた。湧川港は水深があり、また波が静かで錨を下ろすのに適していた。湧川の人達はくり舟や伝馬舟を操ってマリーにあった畑や山に出かけていた。また湧川と羽地の仲尾次との往来があり、黒糖や塩を運搬していた。
 
中山原から見た湧川港一帯
 
 湧川の港が賑わいを見せていた明治30年代から質屋や料亭、理髪店・豆腐屋などが並んだ時代があった。湧川のマチや港を賑わせたのは伊豆味や呉我山、天底、それに屋我地から来た客だったという。当時の新聞記事の報告に、文具・小間物・石鹸・化粧品・味噌・醤油・陶器などの品々がある。湧川港から積み出す品物に砂糖、伊豆味や呉我山で生産された藍玉などであった。
 
歴史を彷佛させる運天
 運天港は今帰仁村運天にある港である。1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」で雲見(運天)泊要津と登場してくる。当時から重要な津(港)として知られている。また源為朝公上陸の伝承を持つ場所でもある。近世から大正5年まで今帰仁間切(村)の番所(役場)が置かれた場所でもある。
 運天港はオモロで「うむてん つけて」と謡われ、源為朝公上陸や薩摩軍の琉球侵攻、そして仕上世米を積み出す四津口(那覇・運天・勘手納・湖辺底)の一つ、さらに1816年にバジル・ホール、1846年にフランス艦船が、1853年にペリー一行が立ち寄った港でもある。このように「沖縄の歴史」の一場面を彷佛させる場所である。
 
運天港の最近の様子
 
運天への道
 今帰仁酒造のところから、急な坂道を登りつめ、運動公園には向かわずに、道なりに右折していくと、異様にまっすぐな直線道路にでる。初めのころはこの道の真っ直ぐさに違和感があったが、次第になんとも思わなくなっていた。この道路、元は米軍が作った軍用道路だったそうだ。今帰仁城跡などでは道は、戦いに有利になるように、地形を利用した細くでこぼこした道になっているけれど、軍用道路は土地を均し、真っ直ぐで平坦な道なのである。飛行機の滑走路なみにひたすら真っ直ぐになっている。
 運天港へは、仲宗根→渡喜仁→上運天を通って行く。寄り道もせずにムラウチに入ってしまうのももったいないので、運天トンネルには向かわず、ティラガマに行ってみることにした。(松村)
 
運天港にあるコバテイシの大木
 
 急勾配坂道を進んで行くと、「為朝公上陸址之碑」や「百按司墓」の案内があらわれる。それらの案内を右手にみながら、さらに進んで行くと、畑で仕事をしている人に会った。キンキンカンカンと金属で何か硬い物を打ち付けているようなので、覗いて見ると、畑の土の中にうまっている大きな岩を砕いているところである。畑の周囲に目をやると、石垣が途中まで築かれている。畑の中から出てきた石をこうして砕いて取り除き、積上げて石垣にしているのか? おじさんが黙々と石を砕いていたので、話しかけずに帰ってきた。昔から、耕作地はこのおじさんがするように拓かれてきたのだろうか。段々畑なども、人の手で斜面を耕し、石を取り除きながら人の手によって築かれたのだろう。
 この畑からほんの数十メートル先にティラガマがある。このガマで源為朝が一時生活をしたといわれている。ガマの入り口の前はちょっとした広場があり、そこには香炉が据えられている。足元にはたくさんのクワズイモの葉が茂り、周囲におおいかぶさる様に茂った木々の枝葉はこの空間を守っているかのようである。ガマの中へはコンクリートの階段を下りて入っていく。入り口付近や側面などいたるところに香炉が据えられ、拝む場所がたくさんある。天水の浸食を受けて溶け出した岩は、大小さまざまな迫力のある襞をつくっている。岩肌はしっとりと湿っており、どちらかというと、超低速で流れる液体のように見え、中に入るとゆっくりとしたうねりの中に飲み込まれていくような感じがする。奥まで入ってみる勇気がないので、入り口から中を覗きみ、階段のところで引き返した。(松村)
 
運天の御嶽(ティラガマ)
 
 ティラガマを出、さっきの道に戻り坂を下っていく。細い砂利道で、途中にあるのは畑と墓ばかり。崖を下りきったところで、細い砂利道は舗装道路につながる。勾配のきついこの道に沿うように、山から浸みだした水が流れていた。この一帯はクンジャーと呼ばれる場所(集落)で、山から染み出した水がながれているカー(湧泉:ジャー)があり、ムラウチ(村内)集落から崖を越えた地にあるジャー(湧泉)に名付けられた地名のようだ。
 ここには漁業組合の建物と船があり、コンクリートの防波堤には釣り竿をたらした中学生が、わいわいと何人も並んでいた。目の前に古宇利島が間近に見える。古宇利島を眺めながらオヤッと思い、最近まで古宇利−本島間を結ぶ古宇利丸の発着地であった運天港よりも、ここクンジャーと古宇利島の距離の方が近いのではないか。運天港からは、崖が視界をさえぎり古宇利島が見えないし、古宇利島からも運天港は見えないが、クンジャーと古宇利島はお互いよく見渡せる位置関係にある。エンジン付きの船で古宇利−運天間の渡しが行われるようになる以前は、この対岸から合図しあい、クンジャーからサバニや伝馬船で行き来をしていたという。また、コンクリートの防波堤が出来る以前には、このあたりの海で沢山ウニがとれたそうだ。海草を抱えて上手に姿を隠したウニを探しだし、とって歩いた思い出を運天に住むオバァが話してくれた。(松村)
 
■運天港の様子■
(拡大画面:229KB)


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