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上杉県令の山原巡行
 第二代沖縄県令上杉茂憲は在任中、民間の状況を視察し県政に反映させる目的で、沖縄に着任した明治14年(1881年6月)の11月〜12月にかけて県内各地を巡回した。日誌は随行の記録係によって記されているが、当時の陸路と海路を使った山原巡行の様子や各地の状況が活き活きと描かれ、車の時代に失ってしまった「歩行と船の時代」のテンポを余すところなく伝えている。(現代語訳:石野)
 
【11月20日】
■膨張(フクレ)港
 午前9時5分、金武番所を出発する。
 ・・・坂道を上がって数丁行くと、道の両側には松の木が続いている。道は二手に分かれるが、右の方を採って坂を下ると海岸に出た。この浜辺は湾をなしていて、ゴツゴツとした珊瑚の岩が乱立している。非常に大きな船が泊まっており、その側を一艘の小舟が波間に見え隠れしている。ここを膨張(フクレ)港という。
 
■久志村
 金武村の役人が別れを告げて帰った。代わりに出迎えに来たのは久志村の役人である。
 道は右に折れ、又山道に入り、その後海岸に出た。久志村に到着した。三本柱の帆の琉球船が一艘碇泊している。その前方に小粒のような島が一つあり、くり舟の漁船がその傍らを過ぎていくのが見える。白サギが浅瀬で魚を探している。まるで一枚の絵を鑑賞しているかのようだ。
 
■大浦湾
 輿に乗って、松や雑木がうっそうと茂る中を行く。十丁余り(約1km)行くと、坂道はまるで羊の腸のようだ。何度も坂を下っては、またぐるっと大回りして上っていく。駕篭かき人夫はゼイゼイと喘ぎまるで「呉牛の月に喘ぐが如し」である。
 少し行くと道はまるで砥石のように平らになり、人夫の顔がパッと喜びにあふれた。ついに海に出たのだ。小川が一つ、傾斜して海に流れ、潮の回流が湾を侵食しながら入り込んでいる−この湾を大浦湾という。
 
【11月21日】
■久志村の朝
 90歳と11ケ月になる大城という名の老人が来た。頭は禿げていて、赤ら顔、あごひげ、ほほのひげが垂れ下がり、とても老いぼれて見えた。上杉公は褒美の目録をあげた。
 午前9時5分、久志番所を出発。道を右に折れると、村役人たちが門の外に並んでお辞儀をしていた。竹の束を持った者が先導しているのは、昨日と同じである・・・。午後零時5分、羽地番所に到着した。
 
【11月22日】
■大宜味番所
 午前9時5分、羽地国頭役所を出発する。道を左に折れ、村役人が二名、青竹を携えて先導するのは前の間切と同じである。
 ・・・午後1時50分、渡し舟が岸に着いた。そこが大宜味番所である。距離を測ってみたところ、羽地番所から三里五合七勺四才である。
 番所の門は少し西の方を向き、海を隔てて宮城島に面している。海上には山原船が五艘停泊しているのが見える。番所の囲いの中には貝が付着している岩があり、右手にはガジマルの老木がうっそうと茂っていた。
 
【11月23日】
■屋嘉比港、鏡地港
 午前10時10分、大宜味番所を出る。
 ・・・(一名代村で)昼食をとり、午後零時40分出発した。根謝村の男女が皆、道に座って拝観している。ここから坂をよじ登り、坂が終われば降り、屋嘉比川の板橋を過ぎて屋嘉比港に出た。帆柱が林立し、村に近づいていくと浜辺に出た。湾となっており、舟の帆が岬の半島から突き出ているのが見える。
 離れ小島が一つあり、山原船が泊まっているが、そこを「カガンヂ」港という。・・・右の山の下には茅葺の家が数十軒あり、どの家も芭蕉を植えている。左の方には支流が流れ、その両側には白茅やアダンが多い。
 
【11月24日】
■辺土名港
 午前8時20分、国頭番所を出発する。上杉公も随行の者も皆、竹の杖を携えた。
 ・・・山道に入り、坂を下りるとちょうど真北に辺土名港がある。海上の霧がもうもうとして薄暗く、霧が帆や松の木の上にかかっているのが見えた。今まさに港口に入ろうとするときに見れば、道に植えられた松の木々が横に張り出して、枝や幹がゴツゴツと見事に育っている。側には芭蕉の畑が多く、茅葺の家も二、三軒ある。畑の中にポツポツと蘇鉄が植えてあるのも見える。
 浜辺に出れば、白い砂がまるで雪のようだ。伊是名島、伊平屋島はどこだろうと探してみたが、雲や霧に隠れ、ぼんやりとしていて、どこと言い難い・・・。
 
■辺野喜港
 竹村(注:佐手村か?)を過ぎると、村役人の出迎えがあった。村を離れて川があり、海に注いでいる。岸に近いところに小さな島があり、墓が多い。険しい坂をよじ登り、最も高い地点から遥か洋上を見渡せば、伊江島の山の形はまるで亀が尻尾を引きずっているようだ。
 険しい坂を迂回しながら下ると、また猪垣があった。極めて険しい、極めて厳しい坂である。
 村役人が出迎え、辺野喜港に到着した。山原船が三艘停泊している。その多くは砂糖桶用の木を積み込み、那覇に運搬するという。
 
【11月25日】
■安田港
 安田港の景色は優れて美しい。壷のような形をした岬が三つ、右手に突き出し、洞窟の入口が二つ見える。その東には鋭い岩が突起している。また東北の方には安田嘉島がある。その姿はまるでナマコが這っているようだ。左側には不思議な形の岩があり、三羽の海鳥がねじろにしている。鵜に似た鳥だが、土地の人はアタクと呼んでいる。
 山原船が数艘停泊し、極めて絶景である。その櫂はしなやかに動き、船はゆったりと揺れながら集まったり拡がったりしながら進んでいく。
 秋永(注:記録者)は上杉公の舟に同乗し、他の随行員は別の舟に乗り、競争しながら渡った。右手にはまるで横木を渡したような山が、屏風のように連なっている。その山を耕して、甘薯の畑を作っている。山の中腹には猪垣が続き、万里の長城の図を見るかのようだ。
 
■安波港
 今ちょうど安波港に入ろうとするところである。右手に三つ四つの鋭い岩があり、激しい波は山のように大きく、珊瑚の岩に白波が真珠のように砕け散り、雪景色へと変化する。左方も岩が乱立し、左右の岩の間が湾となっている。
 安波港に入った。安波川が見えるが、この川は福知山と徳川山にそれぞれ水源を持ち、二つの支流が一つになって、海に注ぐ。その流れは三里七合あり、沖縄一の大きな川である。
 港には山原船が四艘停泊している。舟を下りて川に沿って進み、安波村に到着した。
 
【11月26日】
■国頭番所
 午後2時30分、三日ぶりに国頭番所に着いた。護得久は、先に買い求めていたバイ貝を料理していたが、食べてみるとこれが非常に美味であった。
 この夜、午前3時、蝋燭を灯し、日誌を書く。その後白川警部と一緒に海上の漁り火を見に行ったが、肥の国の不知火のようで、すこぶる不思議な光景であった。
 
【11月27日】
■羽地役所
 午後1時40分、羽地役所に到着した。既にノロクモイ二名が上杉公に謁見に来ていた。しかし平服を着けていたので、明朝、祭服(注:神衣装)を着けて来るよう、上杉公は命じられた。
 ・・・晩酌のおかずに、所謂「羽地川の鮎」を焼き、醤油と橙(注:デーデー)の汁にひたして食せば、その味、甚だ口に合うなり。肥前の川上で見た鮎を採る梁(やな)を思い起こし、秋永は漢詩を一つ詠んだ・・・。
 
【11月28日】
■勘手納港
 午前9時、羽地国頭役所を出発する。これよりまた、村田役所長が随行する。
 ・・・数丁行くと勘手納港に出る。前方には奥武島や危険な岩が乱立し、陸前の松島に並び称されると言えよう。
 その北に屋我島(注:屋我地島)がある。島の中に四つの村があり、島の周囲は三里程、戸数300余り、島の南側は湾を作り出している。「海水如盆瑠璃碧なり」という句をここに当てはめるとすれば、取りも直さず、今目の前にしている風景となる。
 
■運天港
 午後1時40分、今帰仁番所、首里警察分署の前の岸に到着した。
 ・・・今帰仁分署に着く。門は南西に向かい、古いガジュマルや甘い実のなる木々が陰を作っているが、樹齢400〜500年という。傍らには福木が見事に茂っている。港口には日本形の船が二艘停泊している。
 ・・・上運天の平民、仲村平八の母ウタ93歳と、同村平民金城新緒の母カマタ90歳の二人に褒美の目録が与えられた。
 夜の宴の時、上杉公は地頭代を呼び、言うには、三地方(注:国頭・中頭・島尻)の中で島尻の東風平を除くと、今帰仁間切一箇所だけが学校を新築しており、力を尽くして奮発の程、感心しているとのお褒めの言葉があった。そして地頭代に杯を渡し、火酒(泡盛)を飲ませた。
 
【11月29日】
■今帰仁番所出発
 午前8時40分、今帰仁番所、首里警察分署を出発する。道を左に折れ、ちょっとした坂を上る。巡査が二名護衛し、村役人二名が袖を絞り、竹竿を束にして持ちながら先を駆けていく。
 上運天村では、朝のかまどの煙がモヤモヤと棚引いている。道に一人の婦人がおり、合掌してお辞儀をしていた。数丁行って勢理客村に入ろうとした時、仲村豊次郎の母カマト90歳が来て、手を合わせて上杉公に謁見した。桃の花の色の着物を着ていたが、新調したもので、子や孫たちが側に付き添っていた。上杉公は輿を止めて、褒美の目録を渡され、カマトはスデガホウ(注:シドゥガフウ・感謝のあいさつ)と言って、深くお辞儀をした。
 
【11月30日】
■本部番所出発
 午前8時45分、本部番所を出発する。
 ・・・薄暗い木々の間を行くこと数丁、坂道を下り、せせらぎを渡り、水の流れに沿って泉(伊豆味)村を過ぎた。芭蕉や甘薯の畑が多い。石灰を焼くかまどの煙突が一個あり、焼けた土が赤々としている。再び谷川を渡ると坂になり、よじ登って山に深く入って行った。せせらぎの水を杯に汲んで、朝酒ののどの渇きを潤した。右手には藍壷が五〜六ある。
 厳しい坂を数丁上り、坂が切れると下る。猪垣の多くはヘゴで作ったものである。
 ・・・午後1時20分、名護番所に到着した。
 
【12月1日】
■古平底港・チシ(注:喜瀬?)港
 午前8時50分、名護番所を出発する。数久田村に入り数久田川の板橋を渡り、古平底(クヘンツク)坂をよじ登る。また坂を下り、山を廻って行き、板橋を渡り、砂浜の辺りを過ぎて、古平底港に入る。山原船が八、九艘、錨を下ろしているところであった。
 ・・・幸喜村を過ぎ、海岸に輿を止め、上杉公は漁船が網を降ろすところをご覧になられた。
 数丁行って、チシ(喜瀬か?)港の川を渡る。川岸に薪を積んであるのが、まるで山や丘のように見えた。
 
■恩納港
 (瀬良垣村を過ぎて)行くこと数丁、青々として澄み切った小さな湾が見えた。湾の中に二つの丸い島があり、その南に面してそびえ立つ恩納岳が、くっきりと姿を現している。
 道は甘薯畑の中に入り、坂を越え、海岸に出た。恩納港という。変わった形の珊瑚の岩が星の数ほども海上に散らばり、帆柱は森林の樹々のように波間に広がる−まさに明媚と言えよう。
 午後2時25分、恩納番所に到着する。
 ・・・護得久が以前、山原口説を作っており、それをここに記録する。
 「今宵あくれば明日羽地、あさて今帰仁、本部名護、恩納越えての読谷山、北谷浦添泊り那覇、ありしことども、かたりつつ、枕ならべて、たのしきそ」
 
■上杉県令の山原巡行図■
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