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(五)新居町方記録 解説(渡辺和敏・『新居町史』第五巻より)
 『新居町史』第五巻編集担当者の巻末「解説」は、享保・元文の新居「無人島漂流」に関わる解説として、担当者渡辺氏が近世交通史研究の立場で今切の事を書かれた町民向けに要を得た文章なので、ここに抜粋再録する。
 
 新居といえば、直ちに関所と今切渡し船を想起するであろうが、実はもう一つ、今切湊の存在も非常に重要である。周知のように、遠州灘は航海の一大難所で、しかも沿岸に良湊が殆どない。今切湊はそのなかで、天竜川河口の掛塚湊や太田川河口の福田湊とともに廻船の寄港地として、あるいは遠州西部の城米輸送の基地として重要な役割を担っていた。新居町の全体の廻船数については、廻船の購入・売却に関する記載がかなりあるから、変動が多かったようである。宝暦九年(一七五九)八月の書上によれば、新居町内では六百〜二百石積の廻船を七艘所持している。
 浜名湖周辺の城米の殆どは浜名湖舟運により今切湊に集められ、今切湊で廻船に積み替えられて江戸へ輸送された。その仕事は毎年正月に遠州中泉代官所に手代が派遣され、手代立会いのもとに行われる。宝暦八年(一七五八)正月六日の覚書によれば、天領の五宿村の城米千百五十俵を新居宿船町三名の廻船に分載して江戸まで輸送している。
 遠州灘での難船に関する記載も多い。その殆どが難船に関する浦触であるが、なかには天明三年(一七八三)三月の一札のように、具体的な取扱い方や紛争の様子を記したものもみられる。新居町内で所有した廻船が難破した例も多々ある。例えば宝暦十年(一七六〇)十一月十一日の届書によれば、水主六人乗りの船町の廻船が、江戸から帰帆中の同月八月に遠州御前崎で座礁したことを飛脚で知らせてきたとある(以下、鳥島の個所中略)。
 島は暑熱が強く、五〜六年の間に次第に仲間の水主が死亡した。いつか故郷へ帰る日もあるかと一縷の望みをたくし、下田番所の手形と金子、それに算用帳類だけを保管しておいた。キリシタンでないことを証明するためである。実は出帆した享保四年には下田番所があったが、翌年には同番所が閉鎖されて浦賀番所にその機能が移されていた。無人島生活を送るうち、一度だけ沖合を船が通り過ぎていった。漂着後十年を経て、生き残った人数は三名だけになった。それからさらに約十年、南部八戸からの荷物を積んだ十七人乗りの大坂の廻船が、難風に遭って三名のいる無人島に漂流してきた。元文四年三月二十九日のことである。大坂の船乗りは三名に同情し、船を補強して同乗させた。
 南風にのって戌亥の方角に約四百里帆走したところ、四月の中旬に流人の島の八丈島へ無事着船。しばらく八丈島で滞在するうち、流人放免のための御用船の出帆があった。大坂の十七人とともに三名が乗り込むこととなった。こうして五月二十二日江戸へついたのである。
 江戸では二十年ぶりに帰還した三名の噂が広がり、将軍吉宗にも謁見したことが『徳川実紀』に記されている。吉宗は新居町の領主である松平資訓に対し、相応の生活援助をするように申渡した。三名が故郷新居に帰郷したのは、江戸での諸々の吟味を終えた後の六月二十二日であった。その後、三名は新居の町奉行所から一カ月に米一斗五升ずつの扶持米を受け取っている。
 
(六)南方海島志「小笠原嶋」の項(『豆州志稿』より)
 平成十五年、静岡市の羽衣出版より発行された『豆州志稿』の一部をなす『南方海島志』の「小笠原嶋」に鳥島(めつほう嶋)が当てられていて、ここで新居人の漂流事件が記載されている。『豆州志稿』(寛政十二年・一八〇〇成立)は江戸時代、韮山代官江川氏の廻村許可を得て伊豆国内を遍歴調査した伊豆長岡の国学者秋山文蔵(富南)編纂の地誌の一環であるが、新居の三人が帰還した事件が、その後も伊豆に広く知られていたことを示す文献として再録する。(一部文字不明)
 
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あとがき
 終戦後の昭和二十四年、中学校の修学旅行で京都へ行った時の思い出。市電の中で、どこかのおじさんから「お前達はどこから来た」と話しかけられました。「静岡県の新居」と言ったのですが、「知らん」と言われ、「関所がある町」と言っても又「知らん」と言われました。「浜名湖は?」と言ったら、「知っているけれど有名な人が出ていないじゃないか」と言われたので、その頃日本中が大騒ぎしていた「古橋広之進」と言ったら、さすがにびっくりされました。しかし今度は「京都からはノーベル賞の湯川秀樹が出たぞ」と言われたので、こちらも「隣の鷲津からは豊田佐吉が出た」と言ったら、「ウチの方では藤原鎌足が出たぞ」と言われ、それには負けました。鎌足はそのころ千円札の絵柄になったばかりだったのです。
 新居は昔から偉人英雄も出ないが悪人犯罪者も出ない所だと言われてきました。今度取り上げた「甚八・仁三郎・平三郎」は、とても古橋や豊田佐吉の比ではありませんが、この人達は、江戸時代は天下に知れた庶民の英雄でした。が、今は新居で知っている人がありません。昨年新しく発売された小林郁『鳥島漂着物語』(成文堂書店)で注目されていて、その中で、小笠原父島に九人のお墓があることを知って、地元新居もこれを知るべきだと思いました。ところが、丁度その矢先、今年(平成十六年)のお正月三日のテレビニュースで、宮崎県の釣り人二人が鳥島に流れ着いて無人の気象観測所の屋根で手を振って助けを呼んでいる光景を見ました。そこでは断崖絶壁草木のない岩山と波荒い海岸の岩場も映し出されました。江戸時代新居の人が、こんな所で大変な生死を経験したのだと思って感慨を新たにしました。
 本書刊行にあたり、鳥島・小笠原父島の現地写真、地図、墓碑銘などを下さった小林郁氏、鳥島とアホウドリの写真をお貸し下さった長谷川博氏に厚くお礼申し上げます。お二人には鳥島・父島についてその他多くの情報を頂きました。関係文献は小林氏著に多く記されています。それらの閲覧のため新居町立図書館、浜松市立中央図書館、豊橋市立中央図書館、静岡県立中央図書館、大阪府立中之島図書館、国立国会図書館の世話になりました。また、浮世絵図版を新居関所史料館に提供頂きました。お礼申し上げます。
 出版に際し新居町史研究会の協賛を頂きました。 (山口幸洋)
 
今切湊があった付近


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