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八束(やつか)の青鬼赤鬼(あおおにあかおに)
 昔(むかし)は、どこの学校(がっこう)にも怖くて(こわくて)有名(ゆうめい)な先生(せんせい)がおりました。
 気(き)の荒い(あらい)漁師(りょうし)の子(こ)が多く(おおく)、毎日(まいにち)悪さ(わるさ)が横行(おうこう)していた船形町(ふなかたまち)(今(いま)の館山市船形(たてやましふなかた))小学校(しょうがっこう)の話(はなし)ですが、大正九年(たいしょうくねん)(一九二〇)に第八代校長(だいはちだいこうちょう)となった、忍足清(おしたりきよし)(八束村福澤(やつかむらふくざわ))という先生(せんせい)は、たいそう怖い(こわい)人(ひと)で、悪さ(わるさ)をした生徒(せいと)を見つけ(みつけ)ますと、直ちに(ただちに)校長室(こうちょうしつ)へ呼び(よび)、ピシャピシャと鞭(むち)で叩いて(たたいて)叱り(しかり)、更に(さらに)親(おや)を学校(がっこう)へ呼び付け(よびつけ)、
「貴方(あなた)の家庭教育(かていきょういく)は、どの様(よう)に為さって(なさって)おられるのですか。問題(もんだい)がございますよ。」
と、船形(ふなかた)の人(ひと)たちは普段(ふだん)使わない(つかわない)上品(じょうひん)な言葉(ことば)で長々(ながなが)と説教(せっきょう)したのです。忍足校長(おしたりこうちょう)が怒る(おこる)時(とき)は、いつも青い(あおい)顔(かお)になりましたので、船形(ふなかた)の人(ひと)たちは、八束(やつか)の青鬼(あおおに)と言い(いい)ました。
 昭和八年(しょうわはちねん)(一九三三)に次ぎ(つぎ)の第九代校長(だいきゅうだいこうちょう)になったのは庄内巳之助(しょうないみのすけ)(八束村宮本(やつかむらみやもと))という先生(せんせい)でしたが、前校長(ぜんこうちょう)よりもっと怖かった(こわかった)のです。生徒(せいと)を叱った(しかった)後(あと)は、家(いえ)まで押し掛け(おしかけ)、漁師(りょうし)よりも乱暴(らんぼう)な言葉(ことば)で、
「主(にし)らみてえな馬鹿(ばか)もんな親(おや)だから、餓鬼共(がいども)が皆(みんな)、悪役(あやく)になっだ。ちゃんと躾(しつけ)をしやがれ、こんだ悪さ(わるさ)したら落第(らくでい)だぞ。」
と怒鳴った(どなった)のです。庄内校長(しょうないこうちょう)は顔(かお)を赤く(あかく)して怒り(おこり)ましたので、今度(こんど)は八束(やつか)の赤鬼(あかおに)と言われ(いわれ)ました。
 
 
風呂屋(ふろや)の客(きゃく)
 昔(むかし)は、風呂(ふろ)を持たない(もたない)家(いえ)が沢山(たくさん)ありましたから、どこの街(まち)にも、湯屋(ゆや)(ゆいや)とか銭湯(せんとう)と呼ばれた(よばれた)風呂屋(ふろや)がありました。
 ある時(とき)、ある風呂屋(ふろや)に、丸い(まるい)卵(たまご)と、目(め)の粗い(あらい)笊(ざる)と、真っ黒(まっくろ)な炭(すみ)が揃って(そろって)来た(きた)事(こと)がありました。そして湯銭(ゆせん)(入浴料(にゅうよくりょう))を払わず(はらわず)、湯(ゆ)に入ろう(はいろう)としたのです。
 番台(ばんだい)の親父(おやじ)が、
「おいお前(まえ)ら、金(かね)を払って(はらって)から入れ(はいれ)。」
と声(こえ)を掛け(かけ)ますと、
 先ず(まず)卵(たまご)が言った(いった)のです。
「たまたま来た(きた)だから、いいっぺや。」
 すると、次ぎ(つぎ)に笊(ざる)が、
「俺(おれ)は、ザーッと入る(はいる)から、いいっぺぇ。」
といったのです。
 次ぎ(つぎ)の炭(すみ)も、同じ(おなじ)ように言い(いい)ました。
「俺(おれ)は、隅っこ(すみっこ)に入る(はいる)から、いいっぺよ。」
 それぞれが勝手(かって)な言い訳(いいわけ)をしながら、ただで湯(ゆ)に入った(はいった)のですが、今度(こんど)は、見ては(みては)いられぬほど、ぞんざいな湯(ゆ)の使い方(つかいかた)をしたのです。卵(たまご)は、呆れる(あきれる)ほど長い(ながい)時間(じかん)、体中(からだじゅう)が真っ白(まっしろ)で滑らか(なめらか)になるまで洗い(あらい)、笊(ざる)はザーザー湯(ゆ)をこぼしながら洗い(あらい)、炭(すみ)は、湯船(ゆぶね)(浴槽(よくそう))の中(なか)で体(からだ)を洗い(あらい)、湯(ゆ)を真っ黒(まっくろ)にしてしまいました。
 
 
馬鹿嫁(ばかよめ)
 昔(むかし)むかし、八束(はつか)のある農家(のうか)で嫁(よめ)さんを貰い(もらい)ましたが、馬鹿嫁(ばかよめ)でしたから何(なん)でも指図(さしず)されねば仕事(しごと)の出来ない(できない)人(ひと)でした。
 ある日(ひ)その嫁(よめ)さんが、山(やま)の中(なか)の田(た)へ草取り(くさとり)に行く(いく)事(こと)になったので、
 姑(しゅうと)が、
「小猿(こざる)が上がったら(あがったら)、帰って(かえって)来なさい(きなさい)よ。」
と送り出した(おくりだした)のですが・・・。
 ところが嫁(よめ)さんは、夕暮れ(ゆうぐれ)になっても帰って(かえって)来ない(こない)ので、姑(しゅうと)が心配(しんぱい)していますと、月(つき)が昇った(のぼった)夜中(よなか)になってやっと帰って来(かえってき)ました。
 そして嫁(よめ)さんが言う(いう)のには、
「お母(かあ)さん、お母(かあ)さん。小猿(こざる)は何時(いつ)になっても出て来ない(でてこない)し、何処(どこ)にも上がんなかった(あがんなかった)ですよ。おらあ、どうしていいか困って(こまって)しまったー。」
 実(じつ)は、この話(はなし)の小猿(こざる)というのは、夕暮れ(ゆうぐれ)に稲(いね)の葉先(はさき)へ付く(つく)小さな(ちいさな)露(つゆ)の玉(たま)のことなのです。
 その露(つゆ)の玉(たま)は、陽(ひ)が落ち始め(おちはじめ)、気温(きおん)が下がる(さがる)と、田(た)の水面(すいめん)から稲(いね)の茎(くき)をスルスルと上がる(あがる)のですが、その様子(ようす)は、まるで可愛いい(かわいい)小猿(こざる)が木(き)に上がる(あがる)姿(すがた)を連想(れんそう)させます。また、その時(とき)が、稲田(いなだ)の草取り(くさとり)を終える(おえる)時刻(じこく)であった訳(わけ)です。
 昔(むかし)でも嫁いだ(とついだ)ばかりの嫁(よめ)さんの中(なか)には、それを知らない(しらない)者(もの)がいたのでしょう。ですから前以って(まえもって)教えて(おしえて)おこうと、この馬鹿嫁(ばかよめ)の話(はなし)が作られ(つくられ)広く(ひろく)語られた(かたられた)のです。
 
富士(ふじ)の蟆子退治(ぶよたいじ)
 八束(やつか)で富士(ふじ)の一番(いちばん)よく見える(みえる)所(ところ)は、深名(ふかな)から福澤(ふくざわ)にかけて広がる(ひろがる)字(あざ)・杉原(すぎはら)の地区(ちく)ですが、そこに、大昔(おおむかし)、たいそう遠目(とおめ)が利く(きく)大男(おおおとこ)が住んで(すんで)いました。
 その大男(おおおとこ)が、特別(とくべつ)に空気(くうき)が澄んだ(すんだ)夏(なつ)のある日(ひ)、富士(ふじ)を見(み)ますと、なんと山頂(さんちょう)に、蟆子(ぶよ)(ハエ目(もく)・ブユ科(か)の小さな(ちいさな)昆虫(こんちゅう)で、体長(たいちょう)二〜三ミリ)の、群れ(むれ)の飛んで(とんで)いるのが見えた(みえた)のです。
 「蟆子(ぶよ)の分際(ぶんざい)で、神聖(しんせい)な木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)の御座す(おわす)、富士(ふじ)の山頂(さんちょう)を飛ぶ(とぶ)とは何事(なにごと)だ。俺(おれ)が退治(たいじ)してくれよう。」
 大男(おおおとこ)は、そう言い(いい)ますと、家(いえ)から弓(ゆみ)を取り出し(とりだし)満月(まんげつ)のように張り(はり)、ヒョーと矢(や)を放ち(はなち)ました。矢(や)は見事(みごと)、蟆子(ぶよ)の群れ(むれ)の先頭(せんとう)を飛んで(とんで)いた雄(おす)に命中(めいちゅう)し、その雄(おす)の、ふぐりをもぎ取り(とり)ました。蟆子(ぶよ)の群れ(むれ)には雄(おす)は一匹(いっぴき)しかいなかったので、もう生殖(せいしょく)は無く(なく)滅びる(ほろびる)だけです。
 蟆子(ぶよ)たちは、びっくり仰天(ぎょうてん)して逃げ散り(にげちり)、その時(とき)から今(いま)の世(よ)に至る(いたる)まで、富士(ふじ)の山頂(さんちょう)を飛ばなく(とばなく)なってしまったのです。
 この民話(みんわ)は、昔(むかし)から伝わる(つたわる)八束(やつか)の法螺吹き話(ほらふきはなし)の一つ(ひとつ)ですが、おもしろいですね。誰(だれ)が作った(つくった)のでしょう。
 


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