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 まず制作の場です。芸大は非常に素晴らしい世界でも冠たる設備があるのですけれども、大学を出てしまうと何の設備もない。この本当に太古の時代に戻ったような状態で、この写真のように2トンぐらいの石を1メートル動かすのに、三又を使って半日もかかってやるような状況でありました。その中で、仲間を集める時に、公募展に出さないと決めている彫刻家を集めました。公募展というのは、日展とか二科展ということです。会員制を有する展覧会に出しますと、3色に分かれるのです。入選する人、落選する人、賞をもらう人。飲み会で、必ず賞をもらった男が落選した男にコメントをするのです。「おまえ、こんな作品つくってたら駄目だよね」と、そういうようなことを言って仲間分裂が起こるのです。ですからそういう意味で、公募展に出さない彫刻家を集めました。
 それから、もう一つは展覧会です。自分たちで展覧会を作ろうと。そして、新具象彫刻展を作りました。そこで具象彫刻を追及するという内容なのですけれども、その中で「10年後に解散する」ということが、私たちにとって一番大事な規約でした。10年間たったら、若い人はまた「金子先輩、入れてください」と言ってくるに違いない。その時、また私は偉そうにふんぞり返って、「おまえの作品なら入れてあげないよ」と言っている姿が想像ついたのです。こうなると公募展と変わらないのです。するとまたそこでやめてしまう後輩がいっぱい出てしまう。
 でも10年間は自分たちの世界を見つめてみたい。「金子くん、こうしなさい。ああしなさい」ということには耳を傾けないで、10年間自分の世界を見つめてみたいというので、10年間はやろう。10年間で解散しようと。この10分の10というパンフレットは最後の年のパンフレットです。このおかげで、40名の仲間は今でも全員、有名、無名関係なく彫刻家をやっているということを私たちはとても誇りにしているのです。
 それから、教育の場というと格好いいですけれどね、実はこれは生活なのです。高校の非常勤講師で教えるというのもいいのですけれど、自分たちで教育の場を作ってみようと。というのは、私はその当時、美術の予備校で教えていました。新宿美術学院と言う所で17年教えたのですけれど、その予備校で、高校生たちがみんな来るのです。私は約20名ぐらいの学生を扱うのですけれども、その高校生や浪人生たちに絵を描いたことがない人たちがいっぱいいるのです。「何で芸大に行きたいの」と言うと、4、5名は「算数も駄目だし、国語も駄目だし、英語も駄目だし」と消去法で美術が好きだった気がするというので、「芸大に行きたい」と言うのです。
 そういう子たち、私と非常によく似ているタイプですから気持ちはよく分かるのです。でもその子たちが最初に描くものが、幾何形態の6面体の石膏デッサンを描いて、コンクールかなんかで1番から300番まで並べられて、当然初めてですから300番近い。そうすると、その子は何をやったかというと、1番のデッサンを見て「こういうデッサンを描くと芸大に受かるんだな」と思うのです。
 そういう絵を描く動機は初めから競争です。競争はいけないとは思っていないのです。競争は大事だと思っています。ですけど、ともすると競争主義に陥るのです。競争主義というのは競争に負けた者は人間じゃないよ、仲間に入れてあげないよと、こういう風潮は実は美術界にあるのです。ですから、それはやめようよと、そのことを言いたいのです。
 で、そういう世界を見ていたものですから、自分の魂を見つめる、自分の美的感性を磨く、自分の感じたものを表現する、これが必要だと思うのです。子供たちが芸術によって育っていくのを見たいということで、子供の造形教室は今からちょうど30年前に今の中浦和の駅前で始めました。本格的なアトリエ空間を提供しよう、非日常の環境を提供してみようということでやったわけです。作家として物づくりをやめたら先生はやめて下さいねと言いながら、子供たちの質と、先生の質を見ながら、子供が先生を選択できるようなシステムを作りました。これが30年前です。今から10年前に、様々なソフトが認知症の治療をするうえでとても役に立ったわけです。
 
 
 こういう社会的活動の最初の仕事は、宮沢清六さんの仕事でした。宮沢賢治の弟さんです。この人との出会いは、福宿先生と並び称するほど私にとっては大きな出会いでした。この人から私たちに提案があって、「この若者たちに、没後50周年記念の記念碑「風の又三郎」をやらせよう」と言っていただいたのです。私たちは全く無名の作家でしたから、何かの勘違いではないかと思って、仲間と一緒に花巻市の宮沢邸を訪れました。
 その時に大きな手で握手してくださいまして、宮沢さんは「金子さん、大変なご縁ですね」と言うのです。うちの親戚か何かが宮沢家に嫁いでるのかなと思って、「は?」と言ったのです。そうしたら、「こんなに晴れているし、お互いに幽霊の複合体でしょう」と言われたのです。「すみません、『晴れてるし』は分かるのですが、『幽霊の複合体』って何でしょうか」と言ったら、「金子さん、『春と修羅』を読んだことないの」と突然言われてしまいました。「すいません。ごめんなさい。勉強不足で読んできませんでした。『風の又三郎』だけ読んできたのですけれど」と。
 すると、「『春と修羅』の1ページ目に、お互いにわれわれ幽霊の複合体って書いてあるのです」と。「金子さんにも、お父さんとお母さんがいらっしゃるでしょう。私にもいます。お父さんとお母さんには、お父さんとお母さんがいらっしゃるでしょう」「はい。私は祖父と同居をしておりましたから知っております」「そのおじいちゃんとおばあちゃんにもお父さんとお母さんがいらっしゃるでしょう。10代数えたら何人になると思いますか」と言われて、「ちょっと待ってください」と、ちょっと暗算できない数字なのです。「千名超えるのですよ。15代数えたら3万人超えるのですよ。何億人という人の幽霊の複合体として、私たちがここにいるのです。この2人が会ったということは大変なご縁でしょう」と、こういう話をしていただきまして、「はあ、そうですね」といきなり何か温かいかいものに包まれた感じがしました。
 そして、私たちの質問、「すみません。私たちは何の実績もなく全くの無名なのですがよろしいでしょうか」と言ったら、「賢治も無名でした。だから君たちのような若い者にやってもらいたい」。そういうことを言っていただきまして、私は本当にこの脳の活性化ということをよく言いますけれど、人に愛されるとか人に信用されるとかいうことが、一番の脳の活性化だなということを思いました。
 その後、1年半宮沢家に通い詰めて「こういう感じでしょうか。ああいう感じでしょうか」とイメージデッサンを見ていただいたのです。最初のスタートはよかったのですけれど、1年半「ノー。ノー」と言われ続けました。最後に私たちはギブアップ宣言して「すいません。できません」と申し上げました。1年半後に宮沢清六氏は「ガラスのマントを着て飛び出す夢の世界のところを作ってほしい」と言われたのです。そのテーマは彫刻にはなりづらいだろうと、唯一避けていたテーマでした。それから1年後に完成した作品の写真です。これは高さ4メートルの幅が7メートル、総重量が32トン。黒御影石を彫った7人の子供です。「何で7人なのですか」と言うと、南無妙法蓮華経は7でしょう。7というのは聖書では完全数と言われているのですと、説明できるように7人の子供たちの群像を造らせていただきました。
 これは今、宮沢賢治が教鞭を執っていた花巻農業高校の跡地に、ぎんどろ公園と言うのがありますけれど、そこに置いてあります。もし花巻に行かれるチャンスがありましたら見てください。
 こんなことが私の日々の生活でございます。そして、ちょうど今から30年前の1976年に私どもの研究所ができました。「小さな芸術家たちのアトリエ」と言いまして、そして今年ちょうど30周年なのです。
 今から10年前、創立20周年目の時、何か記念事業をしようということになりました。その時に、スタッフの義理のお母さん、ご主人のお母さんが認知症になったというケースがあったのです。そして浜松の「エデンの園」と言う所に住んでおりましたので、浜松におられる浜松医療センターの金子満男と言う先生と出会って、いろいろな治療メニューをいただいたと。私の父の名前は金子満なものですから、私はとてもよく知っておりました。知っていたというか、父とよく似た名前の人がいるものだなということで知っていたのです。
 その金子先生の治療メニューの中に右脳活性化ということが書いてあったのです。私は予備校時代に全く絵をやってこない受験生たちに、右脳を使って絵を描かせると非常に有効に授業や指導をすることが出来るということが分かっていました。というのは、絵を教えていて、学生たちのデッサンを見て「もっとよく見なさい。ここは何かがちょっと違うでしょう」と言っても、「先生、そう見えないんですよね」と言うのです。「何で見えないの。おまえは目はいくつ?」と言うと、「2.0」と言うのです。「とてもいいじゃないか」と、「よく見えるはずじゃないか」と言っても、「先生の言うように見えないのです」と。いつも「もっとよく見ろよ」としか指導できなかったのです。何か指導の限界をいつも感じていたのです。
 その時に、いろいろな文献がアメリカは出るのですけれど、ハウツー本なのです。くだらないのが多いのですけれど、当時「内なる画家の眼」と言う本が出ました。それを読んだときに、右脳でものを見るとこう見えるのだというのが書いてあって、「何だ、それは」と思って、私は自分で実験をしたのです。そうすると、とても分かりやすいのです。指導しやすいということが分かったのです。
 それを学生に指導してみましたら、あるコマに1カ月半近くかかる所が、2週間ぐらいでそこまで行ってしまうのです。すると、1カ月以上また時間が取れるわけです。とても私にとって、予備校の教師としては有効だったのです。そんなことで17年も予備校にいることができたのです。そういう英才教育に使っていたわけです。
 それと、私の子供の造形教室でも、小学校の2年生、3年生ぐらいから子供は絵が描けなくなるものです。あんなに自由闊達に描けた子たちが絵が描けなくなる。「駄目だな」。ひょっとしたら学校で左脳教育されてしまうかもしれないなんてことで、更に、右脳で見る方法を教えますと絵が復活するのです。「これは面白い」と言って、そんなことを15、6年やっていたのです。
 
 
 ですから、うちのスタッフのお義母さんの治療メニューに右脳活性化で、絵を描かせればいいのではないかと。それは違う。絵を描くには私たちの特殊な方法が必要なのだということを言って、ちょっと私たちがお役に立てるかもしれないということを思ったのです。そして、当時の浦和市役所の福祉課に行きまして、「こういうドクターはいませんか。こういうことに興味のあるドクターはいませんか」と言ったときに、大宮医師会市民病院の木村伸という脳外科医を紹介していただきまして、彼と話をしました。意気投合しまして、「金子さん、やりましょう」ということになりまして始まったのがこのスタートになります。
 この時に、認知症の義母をもったスタッフは「それだけじゃ足りません」と「家族はどんなにストレスをためているか皆さんはお分かりじゃないでしょう。家族のカウンセリングが必要です」ということで、美術家と医師とカウンセラー、この三位一体で治療してみようということになりました。
 これが、私たちのいまの原点です。このことをビデオでは何件かあるので、見ていただきましょう。NHK総合の「こんにちは いっと6けん」と言う番組でございます。


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