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 只今ご紹介いただきました金子健二です。
 まず一番最初に、ちょっと私の作品を、こんなことをやっている男だということをみていただきたいと思います。これは共同制作の「風の又三郎」と言いまして、私が一番最初に花巻市に設置させていただいた作品です。(画像)これは「教育を考える会」という会のメンバーでもございます桑原清四郎先生が教鞭を執っていた川口市立朝日東小学校で置かせていただいた少女像です。これは横浜のみなとみらいに置いてあります「プロポーズ」と言って、一昨年造らせていただきました。このような作品を造らせていただいております。
 
 
 まず、お話を始める前に皆様にちょっとお聞きしたいのは、「皆様、絵を描くのはお好きですか」という質問に対して、「好きだ」と文句なく「はい」と手を挙げられる方、ちょっと手を挙げていただけますでしょうか。はい。1、2、3、4、5、6。そちらの事務局の方も「好きだ」とおっしゃっていますけれど。(笑い)少ないですね。
 じゃあ、「私は絵を描くのが嫌いだという方」。そうですか。多いですね。(笑い)本当に困ったことで、絵なんか嫌いになるはずがないのですけれども、日本のどこへ行っても、7、8割は皆さんお嫌いだとおっしゃるのです。
 以前、ある県の教育センターに行きまして、20名ぐらいの方、図工の先生です。その際6時間お話と実習をしたのですけども、その先生に最初に聞いたときに、図工の先生がですよ、ただ、小学校ですから算数も国語も教える先生たちですが、その先生たちもやはり7、8割が嫌いだとおっしゃっていました。「どんなに嫌いかということが災いかを本当に知ってください。絵が嫌いな先生が子供に教えると、子供は絵が嫌いになってしまいますよ」ということを申し上げたのですけれども、「でも本当に正直、絵が嫌いなのだ」と、「図工を教えなければならないので、何とかここでハウツーを学びたいのだ」とおっしゃるのです。
 「ハウツーじゃないんですけれどね」と言いながら、「でも、どうしてですか」と聞きますと、「下手だから」。この言葉が一番多いです。それから、「不器用でうまく描けない」。「下手」だとか「不器用」、絵にまつわる代表的な言葉でしょうか。それから「美術の成績や図工の成績が悪かった」、「私は1回も金賞を取ったことがない」。
 ちなみに、先程打ち合わせをした時のスタッフの方は非常にすばらしい先生に出会ったらしいのですけれども、ほとんどの方たちは、具体的に「どうして嫌いになったの」と言ったら、「小学校5年生のあの先生のあの一言で嫌いになりました」と非常に具体的なのです。涙ながらに語られると、私は本当に私たちの先輩、後輩たちがどんなことを教えているのかという、本当に恥ずかしいというか謝らなくてはならないなと思うのです。
 認知症の患者さんたちに病院で出会いまして、彼らにも聞きますと、「やめてください。やめてください。お願いだからやめて、絵なんて描かせないで」とこうおっしゃるのです。「50年間、60年間も絵なんて描いたことがないのです。ドクターに言われて来ましたけれど、絵を描かされるのですか。今日はやめてください。お願いです。帰してください」と懇願されてしまうのです。
 でも、そういう中で私たちはアートセラピーをやらせていただきまして、1回で好きにさせられるかどうかということに、私たちの腕が懸かっているのです。これが「やっぱり駄目でした。やっぱり嫌いでした」ということになってしまったら、もう二度といらっしゃいません。
 でも本当に美術が嫌いなのかなと思って、「絵を見るのはお好きですか」と言うと・・・。いかがですか、「絵を見るのはお好きですか」って聞かれるといかがでしょう。どうもありがとうございます。義理でも手を挙げていただきまして。(笑い)
 ほとんど7、8割の方が絵はお好きだと。この間、韓国に行っても同じ割合でした、多ございました。「どうしてお好きなのですか」と言うと、「美しいものをめでたい」とか「楽しい」とか「ストレスの開放」とか、「美術館のコーヒーがおいしい」とか(笑い)。そういう本当になるほどなと思えるような内容なのです。ですから、本当に日本の人というか、一般の人たちは本当は絵が好きなのです。好きなのですけれど、絵を描くのは嫌いだと。
 でも今日はぜひ、今日の実習時間はほんのわずかなのですけれど、「ああ、そういうことか」という、なぜ嫌いだったのかという理由をご自分の心の中に問いかけながら、そのトラウマをぜひ取っていただきたいと、今度は絵を描いてみようかと思っていただきたいと思うのです。
 
 
 ちなみに、私は春日部の高校を卒業しまして、そこに、この真ん中にタイトルがございます、日本画家と書いてあります。この「福宿」と書いて「ふすき」と読むのですが、この福宿光雄先生と出会いまして、私は美術が好きになってしまったのです。私の父は農林省の官僚でしたけれども、何とかサラリーマンにならない方法はないものかと高校時代考えました。毎日朝7時には出掛けている父の姿、夜11時に帰ってきて家族とはほとんど話さない父の姿を見て、ああいうふうにならない世界になりたいなと。男の子とはそういうものですね。
 そういうなかで高校時代に自分探しをしておりまして、小説家になろうと思って小説を書き、音楽家になろうと思って楽器を演奏し、そして全部挫折しまして、美術が好きだったような気がすると美術に取り組んでみましたら、とっても心が落ち着くのです。そして、美術部に入りまして、絵を持っていったのです。そしたら、この日本画家の福宿先生だったのです。「金子くん、絵を持って来てくれたのかい」と言って、絵を持っていった僕を拝むのです。そして最敬礼していただきまして、稚拙な絵を見て「ここはいいね」と言うのです。何とも忘れることができないのですけれども、本当に稚拙な絵の中にも1個ぐらいいい所があるじゃないですか。そのいい所だけをほめて、「ああ、ここはいいねえ」と感動的に言ってくれるのです。それを聞いて、私は先生に感動してしまいました。「ああ、この先生のために何か描こう」と、先生のために描きたいみたいな感じです。そして、また絵を持っていくと、「金子くん、絵を持って来てくれたのかい」と手を合わせるようにして迎え入れてくれました。「見せてごらん」と言って、そしてまた「ここはいいね」と。「ああしろ、こうしろ」とは一切言わない人でした。もう本当にいい所だけをピックアップしてほめてくれる。それが、「私は美術がうまくなりたい。美術家になりたい。」と思ってしまった訳です。ある意味では勘違いという感じなのですが。(笑い)
 この写真のメンバーのなかで3人も芸大に行っているのです。福宿先生は旧制浦和中、浦和高校で30年近くも教えた先生ですから、埼玉県の代表的な芸術院会員クラスの作家はみんなこの先生の生徒として教わっているのです。みんな勘違いしたのかなと思います。(笑い)でも、いい勘違いもあるのです。才能がなくても、この先生の言葉によって美術開眼させていただいた。今、この臨床美術、アートセラピーをやらせていただいて、この先生のこのほめ言葉、この言葉が私にとっての忘れることのできないことで、一番大事な恩師だなと思っているわけでございます。ですけれどもそのなかにあって、芸大の話なのですけれども、芸大の6年間、いま思い出しても、何というのでしょうか、卒業していく先輩の姿を見て、私の姿はどうなるのかなと想像しながら先輩たちの姿を追っているわけです。そうすると、ほとんど10年後に7割近い先輩たちが絵をやめてしまうのです。で、筆を折ってしまうという言い方をしますが、私は彫刻ですから筆を折るということは言わないのですけれど、絵筆を折ってしまう姿を見ました。
 かつてあれだけ優秀だった先輩たちが、学校時代はどっぷりと絵を描ける状況、彫刻ができる状況なのですけれども、大学を出ますと結婚をし、子供が生まれ、アルバイト生活をしながら美術家の活動をする。非常に貧しい生活になってしまいます。そして、奥さんに働いてもらいながら自分も生活、勤務する。作品が小さくなってくるのですね。だんだん空虚になってくるのです。それを見ていると分かるのです。それで、展覧会なんかに出品しますと、最初、学生時代は賞をもらっていたような男が賞をもらえなくなる。そして落選者になる。
 そして2度、3度といろいろな所で落選してきますと、入選するための傾向と対策を考え始めるのです。入学試験みたいです。「どうしたら受かるだろう」と。そうなったら終わりです。自分を見つめるのではなくて人の目を意識し始める。そして、そんなことをするとますます駄目になってしまうのです。それで作品が当然落選しますよね。すると、もう二度と絵は描きたくないという世界になってしまいます。
 芸大を卒業したような友達が、もう10人いたら7人近くやめてしまう。生活のために学校の教師をやっています。学校の教師をやっているのだけれども、ご自分は絵をやらないという世界になってしまうわけです。ですから、私は6年間大学にいる間に、どうしたら自分たちでそうならないようにできるかということを考えまして、三つを作ろうと思いました。制作する場、発表する場、生活する場です。この三つを自分たちの手で作ろうと思いました。


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