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海路の賑わい
―当館所蔵の航路図付航路記(その1)―
樋口元巳
 航路図については既に南波松太郎先生の概説がある(「海事資料館年報」第4号昭和52年)。又、松木哲先生の蔵品解説(「海事資料館収蔵目録」等)があり、神戸市立博物館特別展「古地図にみる世界と日本」(昭和58年)での記念講演「日本の航路図について」がある。海事参考館、海事資料館時代に資料の蒐集購入の任に当たったのは松木先生である。零が1つしか付かない乏しい購入予算上の制約があって高価なものに手を出す余裕は無い。ために松木先生はいろいろな種類の航路図を蒐集する事を1つの目標にされたという。海事博物館蒐蔵品中、和船関係資料が異彩を放つその一端として航路図の蒐集品が質量共に充実しているのはその御蔭である。航路図についてまとめておきたいと松木先生が言われてから稍久しい。見聞と博識、驚嘆すべき記憶力とで是非まとめておいてほしいと願うものの、多忙と遅筆とが邪魔をしてきた。その任にあらずとは知りつつ露払いをしようとするのである。
 松木先生の言われる色々な種類の航路図とは何か。あれやこれや思い巡らした末、どうやらそれは航路図の中味だけではなく外面、体裁の事ではなかろうかと思い至った。これも何事も先達はあらまほしきことなりという結果になる。勿論四界海の事ゆえ瀬戸内のみならず東海西海北海南海等の航路図はある。航路は横に長く連続するものだから紙を継ぎ足して行けば自ら巻る本か折本の形態になる。大きな紙1枚に描いても折り畳んだ折帖にして保存する。本の形態的歴史は巻る本から冊子本へと便利なように展開したのとは逆に航路図には巻る本が多い。
 南波先生は概説で、航路図分類の基準には装幀(綴本・折本・巻物・屏風等)、手書きか印刷か(木版・銅版)、彩色の有無、航行区域などがあるとされた上で、主に装幀を基準にして解説される。同概説では航路図には航路を主として記載して地図そのものの地形や河川・道路・集落等にこだわらないもの、一般の地図に航路を書き入れたものの二種があること、航路図は海路図、航路絵図などとも称されることにも触れられた。簡にして要を得た上記概説を冗表に書き改めて報告する。
 元禄10年(1697)刊の石川流宣の「日本山海図道大全」は松前から対馬まで、更には朝鮮半島、琉球に至る迄が描き込まれた絵図で、陸路と共に海路が記入されている。地図余白には東海道宿場、一宮等と共に大阪より西国海路道法、潮千満図等が掲げられる。又、天保前後になると名所図会が次々と刊行される一方で道中案内記の類が陸続と出版されている。「改正大日本道中案内図」(天保10年刊、折本1帖)などもその1つで、松前から対馬、琉球までの街道と海路とを細かく記載した書である。見返しに「御居城在々津々名勝旧跡海陸着微細」との効能書がある。当時の出版情勢を窺うべく天保9年版の「東西船路名所記」の奥に列挙されている秋田屋の刊行物を冗漫乍ら挙げておく。
 大日本海陸図 東海道旅行図会小本1冊 日本道中行程記折本 海陸行程細見記折本 難波船路記全2冊 東海道分問絵図折本5巻 東海道中記東国名勝志全部5冊 西国筋名跡図会大本1冊 日本海陸両道中独案内折本 大増補日本道中行程記折本 改正日本道中行程記井船印入 増補日本行程細見記 日本行程指南車折本 西国航路之記小本 北海針筋湊方角之図折本 西国筋道中記折本1枚 大日本独案内大形折本 日本早引道中記折本 東海道分問之図二ツ切折本 木曾道中勝景図会 伊勢道中勝景図会 東海道勝景図会 大日本海陸道覧彩色本 増補海陸行程細見記一名旅日記小本1冊 新増重鐫大日本道中行程細見記折本東西船路名所記 大日本廻船針直路之図1枚摺
 図会や名所誌等に大本、複数冊の書が若干あるのを除けば殆どが小冊子及至小型折本の取り扱いに便利な判型を採用している。書名を列挙するに当って図会類等と他とを区別してまとめるとか、同種のものをひとまとめにするとかの配慮は全く窺えない。ただ漫然と並べただけかも知れぬが、これらの書物を特に区別して扱う必要を感ぜず同種類のものとしているのであろう。
 大正16年元旦の大阪毎日新聞附録「日本鳥瞰中国四国大図絵」という珍しい折帖がある。遥かに樺太・台湾までもが描き込まれる。街道に変って鉄道が走り、和船は蒸気船になって海上航路上に描かれているが、基本的には江戸時代の案内図と同じものである。右に取り上げた「日本山海国道大全」「改正大日本道中案内図」「日本烏厳中国四国大図経」はいづれも航路図と呼ぶべきものではなく、地図であり案内図である。何を以て航路図とするのか、その基準は何かは中々厄介である。石井謙二氏(「船」法政大学出版部、「図説和船史話」誠光堂等)の言われる航路誌的記述、港湾航路の状況、風向、航路の里程、方位などの記述のあるものが航路図(海路図とも)であり、航跡を記したものは航路図ではなく海図であるとの考え方がある。事柄としてはその通りであるものの基準としては厳密過ぎて実際的でない。用語も明確に区別されている訳ではない。
 航路図は航海上目当てになる山や建造物、土地の名勝などは別にして地上の自然や施設を描く事が目的でない。航路には軌道がないが、あるかのように描かれる。必ずしも正確にではなく概念として描かれる事が多い。海上の航路に随って陸上の自然や施設や港湾島嶼を中心に目当てや城、寺社等を描くばかりである。航路図と云う限りは絵図があるものという事になる。「日本汐路之記」には絵はない。絵は無くともよいのである。航路の記されていない絵図さえある。航路図を定義しないまま取り上げて行く事になるが、凡そ書名、内容に随う事とする。船の字は異体字を用いる事が多いが全て船で統一している。分類は冊子本・小型折本の部、一枚物・大型折本・屏風の部、巻子本の部の三類とした。
冊子本・小型折本の部
 写本に次のものがある。
(1)「対州より大坂迄航路上り」1巻1冊
(2)「向地宮内海上絵図」1巻1冊
(3)「道法」3巻3冊
 以下資料に通し番号を付す。
 (1)「対州より大坂迄航路上り」墨付27丁の小冊子である。対馬から大阪川口迄の238里の航路の潮汐代り覚を書き記す。「一、対州より勝本迄四十八里、勝本江乗掛対馬瀬戸と云うより乗込、又風に依中の瀬戸より入事も有、付同所楫の沖の嶋をにやくの嶋といふ、島に添ひて瀬有、同所の北手沖に鼻毛といふ岩有、此角北風穴物風ニ北東風ニハ殊外浪高し、瀬行早し」の箇条から始まる。勝本から相嶋まで35里、同勝本から瀬戸浦まで3里、瀬戸浦から玄界か嶋まで25里、以下玄界か嶋―鹿の嶋―相嶋―慈嶋―山家御崎―若松―内裏―下関―田の浦(下路)と続く。田の浦の条に「問ニ速戸の瀬戸有、潮行早し、明神社有、田浦ハ東風南風ニ吉」とあり、瀬、目当、潮風を記す。以下瀬戸内を辿って「一、兵庫より神戸迄一里、かふベハ西風穴物風に吉、其外の風ハ悪し、一、神戸より脇の浜迄一里、脇の濱ハ西風穴物風北風ニ吉、其外の風ハ悪し」を経て尼崎―安治川口―木津川口に至る。木津川口の条には「西風南風強く吹ハ浪高し、水押本の内に入レバ吉し、右尼ケ崎より地方船筋淺し」とある。別丁追而書に「兵庫出川口へ乗掛筋東ニ高山有り、くらがり峠を云、此山目当之山也、金剛山と云有り、目当ニ印、又二子山と云有り、是も目当に宜し」と云う。対馬近辺に詳しい所に特長がある。全体の記述内容は「日本汐路之記」と比較して特色は認められない。達筆の写しであるが成立事情、書写者等に関する記述は全くない。潮風目当里程の記述に終始するのは実用一点張りである。対馬の船頭などの作であろうか。
 右の写本に絵図を付け加えれば「日本航路細見記」になる。「細見記」は後回しにし、写本の見本が「向北宮内海上絵図」である。
 (2)「向北宮内海上絵図」は中本17丁の冊子である。別府湾から彦山、中津辺を西端とし、伊予、能島を周辺に描きつつ、防州大島瀬戸から芸州隠戸瀬戸までの海岸線、島嶼を描き、港津北名を記す。描線のみの簡単な図面であるが広島湾、厳島周辺は詳細に書かれている。申し訳程度の簡単な航路が書き込まれている。「大島瀬戸口ヨリ岩国辺マテハ落強キ所也、乗走リノ時由断有問教事也」のような記事が若干ある。素人臭い絵で写しも雑である。広島周辺の船頭の手に成るものか。奥に「文化十四年丁丑夏写之 高井藤右衛門任鳳」と書き付けた貼紙がある。冊子ゆえ1丁1丁とめくれば良い。経験者にとっては簡単ながらも実用性のある書だと思われる。
 道法という語は現代では殆んど耳にしないが、近世にはよく用いられた語のようである。京六角堂の宿屋もちや惣左衛門が顧客宣伝用に配ったと思われる宿場案内書がある。縦7.9cm、横16.9cm6丁の三切本である。これには「西国道法」の題が付けられている。先の石川流宣の地図でも出て来た。元禄期に遠近道印と称した地図狂もいた。
 (3)「道法」と外題のある上中下三冊の写本がある。箱書に「光松院様御自筆道法之二冊 外日光江御成之御供之御覚書一冊」とある。現在の箱の中味は同装の3冊各冊に「道法上・道法中・道法下」の外題が表紙に直接書き付けられている。「日光江御成之御供之御覚書」に相当するものはない。「道法上」は従大坂四国中国九州海上道法他16道法、「道法中」は従江戸摂津大坂迄之道法他9道法から成る。一方「道法下」は「大坂より下関迄船中道付」の内題があって瀬戸内九州航路から成る。上中とは記述の内容も異なり、筆跡も違っている。箱の厚さも上記3冊分にしては少々窮屈である。元々は上・中に相当するものと、外に日光御成に関する覚書の小冊子があったものではなかろうかと推測している。
 「道法上」「道法中」は海路陸路を問わず全国の道程を記述したものである。「道法上」の内容は次の通り。
 従大坂四国中国九州海上道法 従江戸奥州津軽弘前迄之道法 従江戸奥州仙台迄之道法 従江戸出羽鶴岡迄之道法 従下総古河奥州白河迄之道法 従下総古河奥州若松迄之道法 従信濃 遠江見付迄之道法 従信濃上田近江膳所迄之道法 従越後高田出羽本庄迄之道法 従越後高田美濃加納迄之道法 従出羽鶴岡奥州弘前迄之道法 従越中黒川尾張名古屋迄之道法 従越前福井山城二条迄之道法 従出羽鶴岡同国窪口迄之道法 従若狭小濱但馬出石迄之道法
 最初の道法が海路で余は陸路である。次に「道法中」は次の通り。
 従江戸摂津大坂迄之道法 四国九州道法 従江戸摂津大坂迄之道法 従大坂長門下関迄陸地道法 従伊勢桑名紀伊和歌山迄道法 従伊勢亀山摂津大坂迄之道法 従山城二城丹波福知山迄道法 従山城二城備前国岡山迄道法 従因幡鳥取長門萩迄道法
 大阪江戸間は海陸共に記しているのである。最初の従江戸摂津大坂迄之道法は東海道である。「従江戸小田原江廿里半、従江戸神奈川江七里、品川橋有り、六江橋有り、中端橋有り、従神奈川藤沢江五里、藤沢橋有り、従藤沢小田原江八里半、相模川舟渡、花水川歩渡、佐川歩渡」の如き記述に終始する。
 「道法下」は内題の次に下関までとの標題があるが、実際には九州全域にまで記述が及んでいる。漢字片仮名交り、文末に「御座候」が頻出する。高貴な人に提出したものか。記述は次の様である。「一、大坂ノ川口伝法ヨリ尼崎二里、是ヨリ白石迄湊塩下シ申候付、伝法ノ二ノ三ヲ木ノ内ノ川風ニモカゝリ所能御座候共云々 一、尼崎ヨリナル崎江壱里、附地方アサク塩カゝリ不申侯 一、ナルヲ崎ヨリ西ノ宮へ二里、北風ニハ塩カゝリ仕候、其外悪敷侯 一、西ノ宮ヨリアフキヘ壱里、西風北風アナシ風ニ塩カゝリ 一、アフキヨリミカケヘ壱里、何之風ニ茂悪教御座候(以下略)
 後に見る刊本の記事と較べて特に異質なものではなく、どれも似た様な記述内容である。当然そうあるべきものでそれ故信頼できるというものである。光松院と称したのが誰なのかは不明。成立年代も不明である。天保五年以後と考えられる。
 道法に陸路・海路の別は無い。至便な方を選ぶのである。東海道に七里の渡があるように。江戸から大阪までは東海道を、大阪から長崎までは海路を取るのが一般である。それゆえ海陸図も作られる事になる。
 次に刊本の冊子・折帖を上げる。本館蔵に次のものがある。
(4)「西国船路道中記」小本1冊
(5)「日本汐路之記」各小
(6)「増補日本汐路之記」本1冊
(7)「大日本海路図」2巻2帖
(8)「東西航路名所記」小本1冊
(9)「改正日本船路細見記」小本1冊
(10)「海陸道中画譜」小本1冊
(11)「新大日本航路細見記」小本1冊、銅板
 航路誌の最も古い刊行書は貞享4年(1687)刊「西国船路道中記」とされる。これは未見。「国書総目録」では「西国船路道中記」の項に貞享4年版、享保5年版を上げる。本館には元禄14年刊及び同15年刊の「西国船路道中記」がある。これが右の書と同一のものかは未確認である。
 (4)「西国船路道中記」の元禄14年版は題僉を欠くものの内題は右の通りである。序は無く跋がある。「右此冊者或人之真宝、歛櫃蔵之書也、予累年請求之、今鏤梓以与世人於重之、他日携此書、則座而知遠近之駅路、面而着事跡之名所者也、日本六十余州大之所覆、地之所載、海外塞上不済記也、実天下之宝書也 元禄十四半巳年正月吉日書林和泉屋山口茂兵衛梓」。余り参考にならない跋である。船路誌的興味よりも地理的観光案内的興味の方が勝っている。とは言え、以下の書との比較の事もあり、引用が長くなって恐縮しつつ書き出しの部分を上げる。
 京与ふしみ迄三里 たかせふねのりきり代五両(中略)五条の橋大仏同御まへの道両方ニみゝづか有
伏見京橋与大坂京橋へ船路十里
大坂与でんぼへ一里
 でんぼ与あまがさきへ二里 でんぼう二のみを木の内ハ何風にてもとをり所よく候 たゞし西の風みなみ風つよく候〜バなみ有 一のみを木与あまがさきの間ちかたあさく候ニよりきつ川と伝法の川口の間一里の余有 きつ河与あまがさきへ三里有(以下省略)
 以下鳴尾西宮青木御影脇濱神戸兵庫を経て小倉平戸長崎から薩摩国京泊に至る。
 西国船路の記事が主であるが、その後に長門下寸関与奥州田ふなへの西路(港津と里程のみ)、大坂与西国方への海路長崎迄(同右)、昼夜ながくみじかく成をしる事、しほ時月の出入之事の記事を付載する。
 「西国船路道中記」には元禄15年版がある。本館蔵の横小本1冊は元題僉を欠き、付題僉に「西国名所□」とあり、傍に別筆で「大坂板道中記」とある。14年版と比較すれば内容は殆んど同一であるものの、如何なる事情のあったものか、板を新しくしたものである。
 冒頭に西国舟路名所絵図が2丁に亘ってある。大坂川口御番所から長崎までの航程を描くものであるが、陸地にも全て島として表わすという異様な描き方である。御座船、唐船、南蛮人、丸山遊女等が描かれている。次いで「西国船路道中記」と題があって14年版と同じ「京□ふしみ迄三里」以下の本文がある。ところが「伏見京橋□大坂京橋迄舟路十里」の次に唐突に
大坂ニテ諸国船のりばをしるす
川ふねうんちん付
西国陸路 大坂より雲州松江の道同因州鳥取の道(港津地名・里程のみ)
の三記事が挿み込まれ、その後に又「大坂与伝法江一里」以下の先の本文の続きに戻る。諸国船の居場はそのまま「改正日本船路細見記」に転載される事になる。道中記の本文は板は新しいが内容は14年版と同一である。14年版の巻末にある4項目の付載記事は「大坂与方々へ船路 のり長崎迄」のみが残され他は省かれている。全部絵図2丁、本文39丁になる。安井嘉兵衛、豊嶋又兵衛、藤屋弥兵衛、鴈金や庄兵衛、油屋与兵衛が板行元になっている。
 「西国船路道中記」は類書中では古い刊行物であるにも拘らず再三再版新版が出ている。その本文は次代の船路記に受け継がれるのである。そんな船路記の中でも「日本汐路之記」「改正日本船路細見記」は就中有名である。
 (5)「日本汐路之記」小本1冊、全部66丁の初版は元文3年(1738)に刊行されている。板元は西村一良右衛門、錢屋庄兵衛、同三郎兵衛である。本館蔵本は元題僉を欠く。見返しには「諸国通船汐路之記」とも書かれている。作者は辻柳陰子とあるが不詳である。叙に「此書初には大坂より長崎まで海上船路の道のり名所瀬戸汐がゝり風のよしあしくいしく是をしるし、次には国々船付城下への道のり又東海北海の大廻し 凡あらゆる船路これをもらさず 終りには月の出入汐のさし引ちしごまですべて渡海に便ある の取りあつめ書記す者也」とあるので内容が知れる。叙に依れば辻柳陰子は大坂の人で、表府との位置に此の瀬彼の瀬を見聞するに委せて筆記したものが本書の元になったと云う。見聞きに晴明出帆図が描かれている他は本書には絵図は無い。叙に続いて汐路記目録がある。「あらゆる船路これをもらさず」と云うのに従って上げておく。
 自大坂至九州長崎名所瀬戸汐掛風之善悪 自七葉至卅七


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