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朝顔丸船首像と船体装飾の歴史
海事博物館顧問 杉浦昭典
朝顔丸船首像
 和船資料の多い海事博物館収蔵品の中で異彩を放つ明治期汽船の遺品に朝顔丸船首像がある。右手を胸に当てて心持ち顔を上げ、右上方を仰ぎ見て祈りを捧げるポーズの豊満な婦人の木像である。朝顔丸は、竣工した明治22(1889)年1月、三菱会社が社船朝顔として英国サンダーランドのJames Laing & Sons造船所より購入した総トン数2,461トンの鋼製汽船で、明治26(1893)年6月、日本郵船会社に譲渡され船名を朝顔丸に改めた。日本船には船首像を飾る習慣がなかったので、三菱会社が最初から英国の造船所に同社船として建造を発注したものではなく、すでに船首像まで取り付けた竣工真近な同船をたまたま何らかの事情で買い取ったものと推測される。なぜ朝顔丸にこのような船首像があったのかその根拠は全く不明であるが、1880年代建造船の船首像には英国船に限らずヨーロッパ船一般に白色塗装の婦人像が多く、当時の流行だったと見なすこともできる。
 朝顔丸の船体は黒塗りだったので日本へ回航された時点で船首像もまた黒く塗り潰された可能性大である。同船は日露戦争で軍用船として海軍に徴発され、明治37(1904)年5月3日、第3次旅順港閉塞隊に加わって黄金山砲台下に自沈した。旅順港閉塞隊の船は主に広島港から回航されたので、船首像はおそらくその時点で取り外され、その後、宮中建安府に保管されていたが、第二次大戦後、海技専門学院へ移管されて今日に至った。
 現在展示されている朝顔丸船首像は腐食部分を補修され、青味がかった乳白色に塗装されているが、海事博物館になる前の海事資料館収蔵品として本格的に整備されるまでは当初の黒色塗装のまま50年近い長期間にわたって放置されていたので、所々剥離した黒色塗膜の下に本来の塗装である白色塗膜が散見された。しかし、このことから、本来の塗色が純白であったことは明らかであった。
 神戸海洋博物館に八馬汽船株式会社が同館に寄託した第八多聞丸の船首像が展示されている。右手を胸に当てた朝顔丸船首像とよく似たポーズの一回り大きい婦人像である。同船は1889年にドイツで建造された総トン数2,985.5トンの汽船<Matilda Corner>を明治43(1910)年に同社が購入し、昭和8(1933)年に廃船として解体されたが、船首像は大正15(1926)年に取り外されて社屋に保存されていた。
 
写真1 朝顔丸船首像(移管時)
 
写真2 朝顔丸船首像(現在)
 
 現在の第八多聞丸船首像は塗装されておらず、木地そのままに磨き上げられて見えるが、船首像に木地をそのまま出していた例はなく、ワニス塗りの可能性はあるとしても船首像としては不自然であり、取り外されるまでは当然何らかの色彩に塗装されていたものと考えられる。建造年とその形態から推測すれば朝顔丸船首像と同様に白色塗装であったといいたいところであるが、残念ながら現状からその痕跡を見出すことは難しい。
 日本国内に残る船首像には銚子市飯沼山円福寺に竜神様として祭られている幕府御用船の美加保丸のものが知られる。同船は1865年にプロシアで建造された800トンの木造バーク<Branden-burg>を同年に幕府が購入し、慶応4(1868)年に銚子沖で難破した。海岸に漂着した同船の船首像らしい等身大の婦人像には両腕の肘から先の部分が無かったが、後年、宝珠を両手で捧げ持つ形に補修された。竜神様と呼ぶのはそのためである。
 龍野藩御用船神龍丸もまた美加保丸と同じ慶応4年に銚子沖で難破した。同船は、1856年に英国で建造された300トンの鉄造3本マスト・スクーナー<City of Nantes>を龍野藩が慶応3(1867)年に長崎で購入したものである。遭難時期も近く、美加保丸が8月26日、神龍丸が9月6日であった。このことから竜神様は美加保丸でなく神龍丸の船首像ではないかという異説も近年浮上しているが、決め手となるものはない。
 東京の交通博物館にも婦人を象った船首像が1体あるが、日本船でなくロシア船のものである。他にあるかどうかは寡聞にして知らないが、現存する日本船の船首像は非常に数が少なく、またすべて外国製であるのは当然として、朝顔丸船首像は帆船のものではないまでも帆船から汽船への移行期における実物史料として真に珍しく、海事博物館収蔵品の中でも一際目立つ逸品ということができよう。
 
船体装飾の歴史
 船首を飾る習慣は太古に溯るという。中国、ギリシア、フェニキアの人々は船の行く手を見守らせるため船首両舷に目を描いた。世界の各地で船が進水する時、生け贄として捧げられた動物の首または毛皮を船首頂部に掲げる呪術的、宗教的習慣もあった。生け贄には牡羊、牡牛、牡鹿のような角のある動物が多かったともいう。動物の生首は後に彫刻に変わり、相手を威嚇するドラゴンや猪、また蛇や鰐の他、ライオンなどの頭像になった。
 船首像すなわちfigureheadのfigureは彫像であると同時に象徴という意味をも併せ持っている。headは船首である。carrackと称した帆船の船首先端に生け贄風ないし威嚇式の頭像らしいものが見られるのは15世紀までとcarrackが新型帆船galleonと混在していた16世紀であった。galleonにも16世紀中は船首にcarrackと大同小異の頭像があったが、17世紀に入ると船首像と呼ぶにふさわしい人物や動物の精巧な彫像を飾るようになった。
 16世紀に出現したgalleonはその名称を橈漕船galleyから取ったことが分かるような船首にビーク(beak)すなわちgalleyに似た船嘴があった。1610年の建造当時には世界一の大型戦艦であった英国の<Prince Royal>(1,200トン)の船首像として、船首に突出したビーク上面の先端近くに、ドラゴンを退治する英国の守護聖セント・ジョージの勇壮な騎馬像のあったことを伝える1613年にオランダ人画家が描いた絵画が残っている。
 <Prince Royal>では、船首像から後方ヘビークの左右を被う囲いの外側、船首楼と船尾楼を含む外舷側のすべて、とくに船尾板と船尾回廊は豪華に、さまざまな絵模様の浮き彫りが帯のように連なり、下地は緑色、彫刻はその上に貼った金箔で輝いていたという。ただし、16世紀の帆船には極彩色で描いた幾何模様が多く、彫刻は稀であった。また15世紀以前の帆船の船体は一般に質素で装飾には盾と旗を並べるだけであった。
 1637年建造の英国戦艦<Sovereign of the Seas>(1,500トン)は最も贅を尽くした船体装飾で知られ、船首のアルフレッド大王の曾孫エドガー王を模した騎馬像から船尾の船尾板(stern board)と船尾回廊(stern gallery)に至るまで船体外舷すべてを黄金色に輝くさまざまな彫刻で飾り、大砲100門を備える威容は敵対するオランダやフランスの軍艦を寄せ付けなかったが、反面、過大装飾が帆走性能を阻害したともいう。
 同艦は国王チャールズI世が先王ジェイムズ1世が放置して壊滅状態になっていた英国艦隊を復興するため建造させた主力艦であるが、艦隊編成のための軍艦建造費は海岸地域の住民から集める軍艦税でまかなわれた。1634年、慣例的法令による軍艦税が課されたとき反対はなかったが、翌年、内陸の住民にまで課税範囲を拡大したため王と議会の間は険悪となり、42年に内戦勃発、49年、市民革命によって国王は処刑された。
 英国の内戦に外国の介入がなかったのは、皮肉にも沿岸防備に国王の築いた艦隊の尽力があったからである。クロムウェルの共和政府は革命後、海軍の増強と組織化に努めたので、チャールズI世処刑当時39隻だった軍艦が1600年の王政復古時には229隻を超える大艦隊になっていた。そのために船体装飾という冗費を極力抑制したことはいうまでもない。砲門の並ぶ中央部の装飾を廃して船首像と船尾装飾に限る傾向を生じたのである。
 王政復古後、チャールズII世の時代にほぼ具体化した英国軍艦の基本型は19世紀前半まで残ったが、17世紀に英国と海の霸を競った他のヨーロッパ諸国の軍艦もよく似た状況の中でそれぞれの国柄によって独自の船型と船体装飾を見せた。17世紀英国の主たる海のライバル、オランダの軍艦は浅い喫水と幅広の船腹が特徴だったが、船首像はほとんどライオンで、艦名にちなんだ船尾装飾だけが豪華な芸術的片鱗を見せていた。
 オランダ軍艦は英国軍艦より一回り小さかったが、その造船技術は他の国々より優れ、称賛されていたので、オランダから船を買い求め、また技師を招いて船を造らせる国もあった。同様に英国の造船技師も他国から招かれたが、完成した軍艦は技師それぞれの国の様式に則っていた。船体装飾も同じである。その上にその国独自の装飾観念が加えられ、より豪華になるか、より簡素になるか、どちらかであった。
 17世紀前半フランスの保有した有力艦隊は、1642年、積極的な支持者リシュリューの死後全く放置され、61年のルイ13世即位時には戦艦ただ1隻という惨状を呈した。63年、コルベールが海軍長官就任と同時に艦隊再建に着手し、オランダとデンマークから軍艦を買うとともに国内造船廠の拡大整備を図りオランダとヴェネチアから造船技師を招いて軍艦建造を促進したので、70年には数の上で旧状に復した。
 16世紀に自称無敵艦隊を擁したスペインは、英国進攻に敗れた後も海外植民地と本国の間の航路を護る必要から、砲門数が同じでも英国より重い大砲を備える大型の軍艦を造り、技術水準も高かったが、17世紀後半におけるその海軍力は決して大きくなかった。17世紀は装飾の豪華さによって戦艦の威容を示す傾向から始まったが、実戦体験から性能と攻撃力を重視するようになり、18世紀までに各国の造船技術はほぼ同レベルに達した。
 
写真3 <Sovereign of the Seas>の船体装飾
 
 造船学をnaval architectureまたはship-buildingというが、architectureとbuildingはどちらも建築学であり共通の技術用語もある。建築に装飾は不可分である。16世紀の大型戦艦はまさに浮かぶ城塞であり、17世紀には多少形態が変わったとしてもその考え方は変わらず、船の外装と内装に当時の王宮や聖堂の建築における装飾様式が取り入れられたとしても不思議ではなかった。
 17世紀の船体装飾は当代一流の芸術家の手に委ねられたため、その経費は莫大であった。<Sovereign of the Seas>はフランドル出身の宮廷画家ファン・デイクの下絵に基づいて彫刻され、またフランスのコルベールは彫刻家ピエール・ピュジェを重用して船体装飾のすべてを委任した。ピュジェの過大装飾に業を煮やしたある艦長が出帆後直ちに操船の邪魔になる彫刻物を鋸で切り落とさせたという逸話もある。
 17世紀後半以降、船体装飾が縮減の一途を辿ったのは、操船上の理由もあるが、軍備拡大に対応する国家の経済的理由によるものであった。その反面、軍艦の乗組員が船体装飾に愛着を持ったのも事実であり、操船の支障にならない限り船首像と船尾装飾はむしろ豪華なものが喜ばれた。したがって18世紀戦艦には不要と思えるほど複雑な船首像が取り付けられたものがあり、また船尾の装飾もそれなりの豪華さを保っていた。
 大型戦艦を除いて一般的に多かった船首像はライオン像であるが、その形態は国によって違った。galleonの船型が改良されてビークが先端を巻き上げるような形で小さくなり、ship型のビークヘッドに変わって行く過程で、同じライオン像でもその姿勢はビークの形に合わせて変化した。英国海軍は18世紀早々に船首装飾はライオン像とそれにつながる装飾板(trail board)に限ることを定めたが、大型戦艦の例外を認めざるを得なかった。
 英国の船首像縮小令は18世紀中に度々出されたが、1796年に「船首はscroll headとし、船尾装飾はその形成上必要最小限に止めよ」という決定的な制限令になった。scrollとは渦巻形文様のことでその場合はフィギュアヘッドでなくスクロール・ヘッドという。それまでに建造された軍艦については適用されないが、新造艦の場合でも制限令に対する反撥が強く、乗組員と造船技師が結託して何とか抜け道を探そうと努力した。
 スクロール・ヘッドはビレット・ヘッド(bil-let head)またはフィドル・ヘッド(fiddle head)という。ビレットは(古代人の使った武器としての)棍棒であり、フィドルはバイオリンの俗称である。船首先端頂の渦が前向きに巻くのをビレット、後ろ向きに巻くのをフィドルとして区別する場合もあるが、一般には混用され、19世紀には用語として軍艦ではビレット・ヘッド、商船ではフィドル・ヘッドというのを好んだようである。
 
写真4 <Cutty Sark>船首像
 
 軍艦だけでなく商船にも船首像はあったが、18世紀まで目立つものはなかった。現在世界中に残っている商船の船首像はほとんど19世紀のものである。商船の船名を表す個性的な船首像は1840年代に出現したクリッパー・シップの優雅なクリッパー型船首から始まった。米国船は足までの全身像が多く、英国船は69年建造の<Cutty Sark>に好例を見るように裳裾から後方へなだらかに唐草模様の装飾板が連なっていた。
 クリッパー・シップの船首像は帆船から汽船に移行した後も、また木船から鋼船に変わっても船型がクリッパー型である限り伝統的に存続した。もちろんフィギュアヘッドでなくスクロール・ヘッドの場合もあった。20世紀初期に建造された日本の練習帆船、大成丸・進徳丸・日本丸・海王丸はそれぞれ趣のあるスクロール・ヘッドで、船首と船尾に唐草模様が帆船の伝統的手法に則って配されていた。
 
結び
 帆船時代、船首像と船尾板は船名標示の一手段であった。帆船で賑わう19世紀ニューヨークの波止場風景を描いた絵画がある。帆船はすべて船首を陸岸に向けて突っ込むような形でバウスプリットを歩く人の頭上高くに並べ、バウスプリットの下方にはさまざまな船首像がまるで展示品のように見える。そんな中で目当ての船へ行くにはその船首像を探すのが一番であり、海側からの目印は船尾板であったことが一目瞭然である。
 17世紀の船体装飾は建築装飾に倣ったグロテスク様式の彫刻が好まれたようであり、18世紀の複雑な船首像にも同じ傾向があった。内装はゴシック調で近代帆船に至るまで伝統的に残った。18世紀後半から19世紀に及ぶギリシア復興(Greek Revival)建築様式は船首像にも影響し、極彩色塗装よりギリシア彫刻の大理石に模した白色塗装が多くなった。白色の朝顔丸船首像は明らかにその流れを汲んでいる。
 
参考文献
L. G. Carr Laughton : Old Ship Figure-heads and Sterns 1925
M. V. Brewington : Shipcarvers of North America 1962
general editdr Hans Jurgen Hansen : Art and the Seafarer 1966
editor Gervis Frere-Cook : The Decorative Arts of the Mariner 1966
Peter Norton : Figureheads (National Maritime Museum) 1972
Peter Norton : Ships' Figureheads 1976
田辺 穣:船首像(フィギュア・ヘッド) 平凡社カラー新書123 1980
H. J. Hansen and C. B. Hansen : Ships' Figureheads 1990


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