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表紙説明
名詩の周辺
 
獄中の作(武市半平太)
高知・高知市吹井
 武市半平太は土佐尊王攘夷派の指導者で、本名小楯、通称半平太、号は瑞山です。生家は石高五十石の田畑を持つ豪農でしたが、坂本龍馬などと同じ郷士で、土佐国長岡郡仁井田郷吹井村(現在高知市吹井)に武市半右衛門の長男として生まれました。幼少より剣を学び、嘉永元年(1848年)20歳で高知城下新町に道場を開き、別に、藩命によって藩内各地で剣術を教えています。安政3年(1856年)には、江戸に出て桃井春蔵の門下に入り、塾頭に抜擢されたほどです。
 一時帰国し、中国、九州の諸藩を歴遊したのち、文久元年(1861年)再び江戸に出て、水戸藩や長州、薩摩の尊攘派と交わり、桂小五郎や久坂玄瑞、樺山三円らと薩長土の提携を策すなど、この頃から強く国事に関心を持つようになります。
 同年、帰国して「土佐勤王党」を結成。坂本龍馬、中岡慎太郎、間崎哲馬など、下士、郷士を中心に尊攘派190余名の加盟者、同調者を得て、土佐藩内の大きな勢力となります。翌2年、公武合体論を主張して譲らない士佐藩参政吉田東洋を暗殺、半平太は土佐藩の京都留守居役になりますが、前藩主山内容堂は元々公武合体論者であり、文久3年(1863年)8月18日の政変により土佐勤王党は弾圧され、半平太は投獄されます。
 この詩は獄中にあった1年10カ月の間に作られたもので、半平太の信念を素直に述べています。
 慶応元年5月11日、半平太は切腹の刑に処せられ波乱の一生を終えます。享年36歳でした。
 (武市半平太旧居と瑞山神社・墓=旧居は現在も人が住んでいるため、見学には一言断って下さい。交通は、はりまや橋から前浜行バス瑞山橋下車、徒歩10分)
 
取材――株式会社 サークオン
 
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水六訓
一、あらゆる生物に生命力を与えるは水なり。
 
一、常に自己の進路を求めてやまざるは水なり。
 
一、如何なる障害をも克服する勇猛心と、よく方円の器に従う和合性とを兼ね備えるは水なり。
 
一、自から清く他の汚れを洗い清濁併せ容るの量あるは水なり。
 
一、動力となり光となり、生産と生活に無限の奉仕を行い何等報いを求めざるは水なり。
 
一、大洋を充し、発しては蒸気となり、雲となり、雨となり、雪と変じ、霰と化してもその性を失わざるは水なり。
 
 水を心とすることが平和と健康と長寿の妙薬であります。
 
笹川良一
 
OPINION
明日への提言
 
よもの海(うみ) みなはらからと 思ふ(おもふ)世(よ)に
など波風(なみかぜ)の たちさわぐらむ
河田和良
 世界平和を希求される明治天皇のお歌です。去る五月五日(こどもの日)、静岡市民文化会館大ホールで開かれた平成十六年度全国名流吟剣詩舞道大会の企画構成番組「日本海上波高し」―日露開戦百周年に思う―の冒頭で謹詠させていただきました。
 「本日天気晴朗なれども波高し」は、明治三十八年(一九〇五年)五月二十七、二十八日両日にわたる日本海海戦の戦闘開始を告げる有名な電文です。
 日露戦争の開戦は、この年の一年前、明治三十七年(一九〇四年)二月十日でしたので、今年は開戦百周年の年にあたります。
 日露戦争の勝敗を決する日本海海戦で、東郷平八郎指令長官率いる日本連合艦隊は、ロシア帝国のバルチック艦隊に完勝しました。
 この時、東郷平八郎指令長官が全軍の指揮をとった連合艦隊の旗艦である戦艦「三笠」は、今でも、横須賀の白浜海岸に「記念鑑三笠」として永久保存されています。
 日本が世界に誇るべき日本海海戦の立役者、戦艦「三笠」は、今から百五年前、日露の対立が風雲急を告げる明治三十二年(一八九九年)、英国西海岸のバーロー港にあるヴィッカース社の造船所で建造され進水しています。
 この「三笠」の進水した明治三十二年は、奇しくも(くしくも)、財団創始会長笹川良一先生のお誕生の年と一致しています。
 今日、ご紹介した明治天皇御製は世界平和を訴えられる究極のお歌(うた)と讃えられるものです。「四方(よも)の海(うみ)・皆(みな)同胞(はらから)と」は、そのまま、財団創始会長笹川良一先生が生涯にわたり唱え、かつ訴え続けられた「世界一家・人類皆兄弟姉妹」の精神そのものであることに驚きますとともに、ひとしお感慨を深くしました。


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