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 これまでの長い歴史の中で、ハンセン病にかかった人はハンセン病専門の病院に行かなければなりませんでした。ところがMDTが配布されるようになりましてからは、どこの病院でも、あるいは保健所でも、数多くある病気の一つとして取り扱われるようになったということも、たいへん大きな出来事といえましょう。医療の統合、われわれはインテグレーション(integration)といっておりますが、ハンセン病だけが特別な病気なのではなく、たくさんある病気の中の一つなのだということで、現在ではどこでも患者を受け入れてくれるという形に切り替わってきました。そういう意味でも、制圧活動はさらに強化されているわけであります。
 ハンセン病は治る病気だ、薬は無料である、あるいは差別をしてはいけない、私はこの三つを“シンプル・メッセージ”といっているのですが、これを何百回も何千回も言いつづけるというのが私の大きな仕事です。
 そんなことはわかっていると言われるかもわかりませんが、世界は広いのです。ある国でハンセン病の施設を訪ねる予定でおりました。その折、大統領にお会いしますと、自分の若い時には見たけれども、わが国には今はそんな病気はない。昔、ビクトリアの島に追いやってしまったから、それ以降そんな病気は見たことがない、と言われました。ところが実際には、大統領の官邸から45分のところにハンセン病の病院があるのです。
 つい先日、私はインドのゴアでの会議から帰ってきたのですが、アバウトな言い方では、インドでは50%の人がハンセン病は治ると理解が進んできたということでした。インドは、公用言語だけでも19もある。主な言葉はヒンディー語と英語であります。そのほかにも17ある。そして、それ以外に部族が使っている言葉が1,800以上もあるということですから、われわれがさまざまなキャンペーンを張って、新聞、テレビ、あるいはデモなどを数々やりますけれども、われわれの動いている範囲はたかが知れたものでございます。
 インドの地図を思い浮かべていただきたいのですが、中央部の右よりのところにウッタルプラデーシュ州というのがあります。この州の人口は1億7,700万人です。面積は日本の本州と九州を合わせた広さといわれています。この一つの州をどのような戦略で攻め込むかということを考えますと、もちろんあらゆる手立てを使わなければいけないのですが、そのひとつに子どもたちを対象にしたものがあります。
 具体的にお話ししますと、人体図を描いた絵を小学生が家に持ち帰って、お母さんに全身の皮膚のチェックをしてもらいます。お母さんには子どもと人体図とを照合して、少し皮膚の色が変わっているところがあると印をつけてもらって、子どもたちに学校に持ってきてもらう。なかには子どもをお医者さんに回すというケースもあるのですが、そういうことをやって早期発見に努めるということもやっています。
 あるとき、小学校の生徒にご褒美として鉛筆を1本やってくれないかと頼まれたことがありました。私はすぐに「はい」と言おうと思ったのですが、実は私には怖いお姉さんがおります。笹川記念保健協力財団の山口和子常勤理事で、世界のハンセン病の生き字引といわれている方です。私の家庭教師のような方ですが、「小学生は何人いると思いますか?」と言われてはっと我に返り、「あげましょう」ということは言えませんでした。小学生だけで2,000万人いるのです。したがって、鉛筆も2,000万本いるのです、1回の宿題のご褒美に。それを考えていただくと、いかに大きい国であるかということがおわかりいただけると思うのです。
 先ほどのウッタルプラデーシュ州、それにつづいて右寄りにチャティスガール州、西ベンガル州などがありますが、今度私が訪問する予定にしております山岳地帯、そんなに深い山ではないのですが、四輪駆動車に乗り込みまして最終地点、これ以上四輪駆動が入れないというところから、すべてのものを背中に背負って山登りのような格好で入るのです。1日35km歩いてようやくある部族を見つけて、それを集中的にチェックして薬を渡します。そしてまた次の部族のところまで30kmか40km歩くのです。ところが、行ってみたら、その部族はもぬけの殻で、次の場所に移動していた。そういう山の中を移動する人たちなのです。そういう人たちも含めて、薬を持って、患者を求めて、われわれの仲間は日夜走り回っているわけです。そういう努力を積み重ねて、インドのハンセン病患者はようやく人口1万人に対して2.4人というところまで下がってきました。私はやはり、一つの目標を設定して、関係する人々が一丸となってそれに対処することが重要であると考えます。
 先ほども言いましたように、政治家も替わりますし、行政の方も替わりますし、はたまたメディアの方はもっと替わるわけであります。常にわれわれは、「薬はただです、治る病気です、差別をしてはいけません」と、こういうことを言いつづけていかなければいけないわけです。幸い、私たちは現地に行く機会も多く、私は昨年(2003年)だけでもインドに5回行きました。ブラジル、マダガスカル、モザンビークにも行きました。道もない、電気もないというようなところで、この病気の制圧活動が活発になされていることをご理解ください。
 そういう中で、先ほどビデオメッセージでWHO事務局長のイ・ジョンウク(李鐘郁)先生が1980年代以降1,400万人の患者を治したというお話がありましたが、これは間違いではありません。
 
 しかしながら、ここにひとつの問題が出てきました。病気が治ったということと、社会に復帰できるということは全然別のことなのです。通常、どんな病気でも、病気が治れば社会に復帰して仕事にも就けるわけですし、結婚もできるわけです。しかし、この病気だけは、病気が治っても、社会の側が差別という病気を持っています。1,400万人の治った方々が社会に復帰できたかというと、ほとんどできていないのが現状です。
 私は、これはたいへん大きな問題だと思います。社会が持っている病気をどのように変えていけばいいのだろうかと考えました。国連の人権委員会をうまく活用できないだろうかということに思い当たりました。国連の人権委員会で議決を得られるということはそんなに効果があるのかといわれますが、それはわれわれの使い方如何でございます。そういうところのお墨付きをもらうということは、社会に変革を求め、大きな波を起こすためのツールとして活用できるのではないかと思います。国際人権委員会はジュネーブにございますが、その委員は政府代表によって占められており、私たちのようなNGOの出る幕はほとんどありません。もちろんスピーチの時間は頂けるのですが、約3分間です。国連の人権委員会の席では何百という人権問題が討議されているのですが、発足して50年経つのですが、不思議なことに一度もハンセン病の問題が話題になったことがない。これは正直いって私自身が驚いたのです。さまざまの人権、小さいものでいえば数千人程度の問題から討議されています。ハンセン病は約1,400万人、そしてそれ以前に治った人も入れれば約2,000万人、その人の家族を入れますと1億人というような大きなかたまりが、この世の中で社会から離れた場所で静かに声を上げないで生きつづけている。まことにもって異常なことです。しかし、そういう異常なことが現実として存在していたということも二重の意味で私には驚きでございました。
 針の穴にらくだを通すような話ではございましたけれども、人権委員会の委員の皆様、全部で26人おられるのですが、これは重要な人権上の問題であるということで、全員が賛成をしてくださいまして、来年(2005年)の8月までに調査結果を報告いただくことになりました。
 たとえばネパールなどに行きますと、ネパールの患者数は約7,000人ですが、新聞記者にその話を一生懸命いたしますと、「笹川さん、ネパールにはもっと困難な問題がたくさんある。たった7,000人の人のために何であなたはそんなに夢中になるのか」と不思議がられます。「いや、それは人が人を差別するというとても重要な部分で、人権の問題だから」と言うと、新聞記者は顔色を変えて、「よくわかりました」ということになるケースも往々にしてございました。
 私は、社会の側の病気を治すのは、やはり国連の人権委員会で採択をしていただいて、そしてそれを活用することによってさまざまな社会活動をなさっている方々、それは専門家ばかりではありません。NPOあり、労働組合あり、企業家あり、商店の連合あり、さまざまな組織の方々がそれを理解されるという、そういう社会運動としての統合、インテグレーションとして活動すべきだと考えます。何もわれわれ関係者だけの問題ではありません。差別は社会全体の問題です。医学的には先ほど言いましたように統合されて、どこの病院でもこの病気を診るようになってきました。もう一つの人権上の問題につきましても、単にわれわれ関係者だけではなく、広く社会のさまざまの組織を活用しながら、社会が持っている差別という病気を世の中からなくすための闘いが、医療と社会運動の統合を図ることによって可能になると私は考えます。
 紀元前7世紀、インドの文献『Sushruta samhita』に出てくる、人間が人間を差別するということの原点であろうと思われるハンセン病をなくすための最終目標が今、明確になってきたと思います。それをいかに実行していくかということに相成るわけでございます。ハンセン病の医学的な側面としての制圧は、百里の道のりの九十九里、あと一里というところまできました。しかし、人権上の問題としてのアプローチは百里の道のやっと一里を今、歩き始めたという関係にあるわけでございます。
 
 長年にわたる医学上の多くの方々の努力を多とすると同時に、もうひとつ、われわれは社会が持っている差別という病気を治さない限り、病気が治っても社会に復帰できないという厳しい現実があります。インドでは、この前、総選挙がありましたけれども、ある地方ではハンセン病の患者の投票窓口は別にするように住民が要求しました。そういうことが今もなお行われているのが現実です。なかには社会的に成功した患者さんもいらっしゃいますが、ホテルに行ったら断られるのではないかと恐る恐る生きていらっしゃる。中国でも600カ所とも700カ所ともいわれていますが、みんな山奥の目立たないところで静かに肩を寄せ合って、一般の社会と接しないように生活しておられる。世界の何千箇所に今もそういう地域がある。そういう問題にぜひ、みなさまの関心を寄せてください。世界的に歴史の古いこの病気が、中嶋先生を筆頭にしてずっと日本人が世界の主導的役割を担って努力してきたわけでございます。現在のWHO事務局長の李先生は湯浅先生のお弟子さんでもございます。ずっとハンセン病と取り組んでこられた方であります。李先生の採用を決めたのは中嶋先生でございます。
 
 ハンセン病に関係してこられた先生方はみなさま遠慮深い方々ばかりでございますが、世界のハンセン病の歴史を見ましても、その解決への道筋の大事なところは笹川記念保健協力財団を中心にして回ってきたといっても過言ではありません。さらにわれわれは高いレベルの目標を設定してこれからも努力を積み重ねていきたいと思っておりますので、ご支援のほどどうぞよろしくお願い申し上げます。
 ありがとうございました。


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