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私の考えるハンセン病制圧
日本財団理事長 WHOハンセン病制圧特別大使
笹川 陽平
 ただ今ご紹介をいただきました笹川でございます。
 先ほど湯浅先生が笹川記念保健協力財団は「人の縁」に恵まれた30年間であったとお話しされましたが、本当に私たちの仕事はよき人々に恵まれたということに尽きると思います。
 本日は、私どもの大先輩に大勢お集まりいただいております。私は医師でも専門家でもございませんので、このような大先生を前にして誠に「釈迦に説法」というようなことに相成るわけでございまして、面接試験を受けるような気分でもございます。
 本日はWHO事務局長として10年間にわたり活躍され、特に第一線でハンセン病制圧事業にも非常に大きな役割を果たしていただきました中嶋宏先生もフランスから来日されてご出席いただきました。WHOをはじめ国際機関はいろいろありますが、現場主義を貫くという伝統をつくられたのは中嶋先生ではなかったかといわれるくらい現地に赴いて仕事をしてこられました。私どももその驥尾に付しまして、現場主義に立ち、最前線に出て仕事をしてまいりました。そして、患者の立場に立ち、あるいは回復者のみなさんの立場に立って、ものを考え、行動するという習慣づけをしてきたのであります。
 また、当財団の設立にご尽力いただきました大谷藤郎先生は、日本のハンセン病の歴史に大きな役割を果たされた方でありますが、ハンセン病と人権という立場から数多くのご著書を出版しておられます。
 さらに全国ハンセン病療養所入所者協議会からは、遠く四国の大島青松園から曽我野一美会長にもお出でいただいております。ありがとうございます。
 
 日野原重明会長のお話をうかがっておりますと、この財団ができたのは笹川良一が75歳、石館守三先生が73歳の時ということでございます。30年前、こういうご高齢の方々が大きな志とビジョンをもって働いたということはたいへん重要なことでございます。何はともあれ、咋今、日本の社会は若干閉塞気味でございます。元気がないわけです。私は、そういう意味で、明治生まれの方々の大きなビジョン、あるいはミッションをもって事に当たり、そしてあまり後ろを振り返らないという姿勢は、私たちも大いに参考にしなければならないと思います。日野原重明先生はただ今93歳でいらっしゃいますが、すでに3年先のスケジュールまで入れておられるということでございます。こういう立派な先生方に恵まれて、私はただ言われるままに走り使いをしてきたのですが、そういう巨人の間で仕事をさせていただいたことは、私の人生にとりまして何よりの勉強となったわけでございます。私の人生の師が周りにこのように多士済々いてくださったということは、私はたいへんな幸運に恵まれた者だと感謝している次第でございます。
 本来ならば、理事長の紀伊國献三先生が生き字引でいらっしゃいますので、お話しくださるようずいぶんお勧めしたのですが、私にやるようにとのご命令でございますので、私からみなさまにお話をさせていただきます。
 
 笹川記念保健協力財団は数多く仕事をしておられますが、先ほど常務理事であります湯浅洋先生が触れられた点がたいへん重要な点でございます。それは何かといいますと、NGOの一つである当財団が、各国の行政と組んで仕事をするという発想で設立されたものであるということでございます。これは考えてみればごく当たり前のこととはいえ、同時にたいへんなことでもあります。
 当財団の設立以前にも、日本財団は13の国立療養所と2つの民間療養所を継続的に支援してまいりましたが、この財団ではその幅をもう少し広げて、国際的な面からハンセン病制圧事業を展開しようではないかということでございました。
 当財団は、大谷藤郎先生が当時の厚生省国立療養所課長のときに認可をいただきました。当時は、一つの財団は一つの目的のもとに活動するということになっておりました。すでに国内のハンセン病については藤楓協会という組織がございましたから、国内は藤楓協会が行い、それで海外については笹川記念保健協力財団がやるという棲み分けでスタートいたしました。
 目を海外に転じますと、各国に国際救らい団体がございます。ほとんどのところが設立100年以上の歴史をもっておられますが、こういう団体はキリスト教系のところが多く、それぞれの国のある一定の区域に深く食い込んで仕事をしておられる。いわば“点”を対象とした仕事をやってこられました。そういう状況の中で、この財団ではハンセン病については公衆衛生の問題として取り組むべきではないかということで、各国の行政と仕事をやっていこうということになりました。
 言ってみれば簡単なことではございますが、このような考え方は、当時は明らかに異端でございました。そして、紀伊國先生が中心になられまして、WHOとの連係を強めながら、個々の政府あるいは行政機関に働きかけていくという方向が見出されたわけであります。中嶋宏先生の前にWHOの事務局長をしておられたハーフダン・マーラー先生のときから私たちはWHOと接触しておりましたから、早速、マーラー事務局長に話を持ちこまれたのでございます。
 当時、WHOではハンセン病の予算は年間30万ドルくらいしかありませんでした。それが100万ドル、あるいは200万ドルの資金を提供しようということでしたから、それはWHOにとっても大きな事業資金となりました。その後、中嶋先生が10年間WHOの事務局長をおやりになられたのですが、それは私たちにとってもたいへん運のよいことでありました。それ以前、中嶋先生がマニラにあるWHO西太平洋地域事務局長をなさっておられるときに、カレンダーブリスターパックと申しまして、ハンセン病治療薬を1ヵ月ごとのパックに薬を入れて薬の飲み忘れがないように工夫されたのです。それまではハンセン病の薬も新聞紙に包んだままで渡したりしていましたから、量も一定ではありませんし、ほかに流したりするなど、なかなか複雑な問題があったわけです。それをプラスチックのケースをつくって、毎日一つずつ飲めばいい、どこに置いてもあまり劣化もしない、質も変わらないというものを考え出されました。それが薬を普及させるためのひとつのきっかけになったと思います。
 また、湯浅先生は少し遠慮気味におっしゃっていらっしゃいますが、あらゆる問題を解決するときには数値目標をつくることはたいへん重要なことでして、患者の数をその国の人口1万人に1人以下にすることを公衆衛生上のひとつの目安にしようという発案をなさったのです。
 ブリスターパック、この数値目標、そして薬は日本財団あるいは笹川記念保健協力財団がすべて無償で提供しましょうと、そういうことが相重なりまして、世界的に急速にハンセン病を制圧していく動きとなっていきました。
 話にすると簡単ですが、各国政府にとっては、HIV、あるいは結核やマラリアにしましても、数の多い優先順位の高い病気があるわけでございまして、そういう中にあって各国政府の優先順位としてのハンセン病の位置づけはそれほど高いものではなかったのです。
 しかし冷静に考えますと、地球の総人口の4割は1日2ドル以下の生活をしているという状況で、医者を探し、薬を買うお金を手に入れることに努力しなければならないという何百、何千とある病気の中で、ハンセン病の薬であるMDTだけは無料で入手できる世界で唯一のものです。私はキューバの山の中にも行きましたし、インド、マダガスカル、モザンビーク、ネパール、ミャンマーなどのあらゆる奥地に入りましたが、これだけ世界中に普及して、患者のすぐ近くまで届いている薬は、私の知る限りほかにはありません。それほどこの薬の配布が行き届いているわけです。今、率直に申して、忘れられつつある病気、あるいは重点項目から外されているというような感じをもつ病気ではありますが、「人口1万人に1人以下」という数値目標が設定されていますから、現在世界中でこの目標に向かって取り組んでいるわけでございます。
 
 しかしながら、中嶋先生もおられて恐縮ではありますが、WHOや世界銀行、あるいは当該国政府にしましても、2年、3年、あるいは5年で担当者は替わっていきます。この国でようやくいいチームができそうだ、この人がいてくれたらうまくいくぞ、というときに、何かの理由で転勤していくことも少なくありません。人事については積み木崩しのようなもので、積み上げたと思うと崩れるというような状況の中で、日野原先生を中心に、紀伊國先生、湯浅先生を擁する笹川記念保健協力財団だけがスタンスが少しも変わっていないのです。そこでWHOも相談に来る、当該国政府の保健大臣も相談に来るということになっております。つまり、国際的な戦略をもって継続的に対処しているのは、実は笹川記念保健協力財団しかないといえるのです。
 私はこれがハンセン病の制圧事業に大きな影響を与え、また、大きな成果を上げた原因であると確信しております。


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