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2. 財団の基本方針
 こうして誕生した当財団の名称には設立当初からハンセン病が掲げてありませんが、それは財団創立者グループには、ハンセン病対策はあくまでもより大きな公衆衛生対策の一部として行うべきだという確信があったからです。そして、そのプログラム設定および運営に関する次のようなはっきりとした基本方針がありました。
 
 その第一は、当財団のハンセン病プログラムの目的は、発展途上国の保健省のハンセン病対策を強化し、いずれは自分たちの手でその対策が行えるようにすることでした。第二は、当財団のプログラムは最新の医療知識・科学技術に基づいたものであること。そして第三は、既に世界でいろいろハンセン病対策に取り組んでいる人たち、WHOハンセン病対策部門はもとより、世界各地で数十年の経験をもつ既存の民間団体、さらにハンセン病対策に実際に従事している発展途上国のハンセン病対策責任者等からできるだけ多くのことを学び、少なくとも彼らが過去に冒した失敗を繰り返さないという、三つのことでした。
 
 第一の、発展途上国保健省のプログラムそのものの強化をWHO、UNICEF、UNDP等、国連関係団体ではない一民間団体が行うということは、少なくともハンセン病に関する限り、まったく前代未聞の出来事でした。すでに申し上げたとおり、世界各地でハンセン病対策のために多くの民間団体が永年活躍していましたが、それはハンセン病に関心のない政府の代わりに、自分たちのやりたいハンセン病の仕事を推し進めていたのであって、政府のやるべき公衆衛生対策とはまったく異質のものでした。
 
 ところが、新しくできた笹川記念保健協力財団は、政府の公衆衛生対策としてのハンセン病プログラムの強化を支援するために、政府のハンセン病対策要員の研修・育成、必要な薬品、機材、また資金供与を行うということで、それは各国政府およびWHO等から大きな驚きと期待をもって歓迎されることになりました。
 
 一般的な風潮として、30年前の発展途上国の保健省は独立後まだ日も浅く、マラリア、結核、肝炎等の公衆衛生上の問題が山積していたために、たとえハンセン病に関心はあってもとてもその対策までは手が回らず、ハンセン病関係の民間団体が何かやりたいといえば、どうぞご自由にというのが多くの場合の実情であったようです。しかし、当財団が同じようなやり方をしなかったのは、創立者のグループの中に、ハンセン病を含むすべての公衆衛生問題は、その国の保健省が自分たちの責任として取り組むべきもので、国外からの団体に任せるべきものではない、との強い確信があったからでした。
 この確信の正しさは、財団設立後10年ごろから多くの人の認めるところとなり、他の民間団体も次第に政府の公衆衛生対策の一つとしての全国的なハンセン病活動に協力するようになっていきます。
 
 第二の、当財団の協力するプログラムは、最新の医療科学の知識・技術に基づいたものでなければならないというのは、とかく善意のみが先行し、実際の仕事にはあまり感心できないという民間団体の海外支援活動の実情に詳しい創立者グループから出された意見でした。多くのクリスチャンを含む当財団の創始者、協力者のすべてに、強い人道主義的関心がハンセン病対策の背後にあったことは当然でしたが、当財団のプログラムの設定運営には、日本国内・国外の専門家、そして現実にハンセン病問題に直面している各国の責任者等の意見が、財団が主催した数々の国際会議を通じて広く取り入れられ、理論的にも技術的にも最善のものとするよう努力しました。
 
 第三の、WHOやその他海外のハンセン病関係の民間団体から十分に学ぶ、ということに関しては、財団発足以前に創立者グループの中から、石館、紀伊國、犀川の3人がジュネーブにあるWHO本部と、当時フランスにあったヨーロッパ救らい団体連合(ELEP)の本部をまず訪問し、そしてその帰りにデリーとマニラにあるWHO地域事務局を訪問することから始まりました。私は財団が設立されてから1年半後に医療部長(現在は保健協力部長)に就任しましたが、最初の仕事は、就任後1週間足らずの12月中旬にパリで開かれた会議に、アメリカ救らいミッションと同時にメンバーとしての参加を認められたその会議に当財団を代表して出席することでした。
 アメリカと日本とが参加したことで、団体名称そのものもヨーロッパ救らい団体連合(ELEP)から世界救らい団体連合(ILEP)に変更され、私たちの参加によって世界のハンセン病対策へのこの連合の貢献はいっそう大きく強力なものになっていきました。この連合自体がいちばん大きかった1980年代には先進国からの参加団体は23もあり、各団体の活動資金の合計額は年間90億円に近いものでした。これは当時、世界各国政府が使っていたハンセン病対策費の総額よりもはるかに大きい額でした。
 
 ところが、前述したように、巨大な資金を持つこれらの民間団体も、政府のハンセン病対策には直接の支援はせず、私たちのやりかたをどちらかといえば冷ややかな批判的な目で見ていたようです。彼らにいわせれば、患者たちを直接助けずに、政府の仕事を支援するというのは資金の無駄遣いで、まったく非能率的なやり方だということでした。彼らのこの態度の基本的変更が求められ、財団のやり方を手本とするようになったのはかなり後のことになります。
 
 しかし、たとえ基本姿勢に違いはあっても、数十年、特に私も属していた英国救らいミッションは100年以上の海外援助の実績を持っておりましたから、彼らの海外で働くことの経験、現地の職員や患者たちとの交流の仕方等には大いに学ぶ点が多く、当財団も彼らの意見はできるだけ聞き、同意できるものは最大限に活用する態度は崩しませんでした。さらに、私たちが彼らから得た実際の仕事上の利便は多く、当財団がこの世界的救らい連合に最初から参加したということは、財団創始者グループの先見の明のひとつといえるでしょう。


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