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世界のハンセン病対策と財団の貢献
笹川記念保健協力財団常務理事 前国際らい学会会長
湯浅 洋
1. 財団の設立とその背景
 今から30年前の1974年(昭和49年)、全世界で1,000万から1,200万人のハンセン病患者がいるとされていましたが、当時の世界のハンセン病対策は、正直なところ、こうすればハンセン病を世界的規模で制圧できるという具体的な計画も、またそれを可能にする適切な手段もまったく見当たらない時代でした。しかもハンセン病対策は、他の多くの公衆衛生対策とは異なり、その患者発見に必要な診断法、治療開始に必要な病型の分類、治療期間の設定、また治療中に起こる神経障害対策等、すべてが他の感染症対策より複雑で、しかも治療期間が短くても数年、長ければ生涯にわたるため、一般の公衆衛生要員の手に負えず、特別の訓練を受けたハンセン病対策要員が、限られた予算の中で、将来への希望も、はっきりした目標もないままに、働いていた時代でした。ハンセン病の患者さんたち、またはその家族の人たちが一般社会から隔離されていただけでなく、ハンセン病対策、そしてそれに従事する人たちも、通常の医療保健対策から疎外視され、特殊扱いにされていた時代でもありました。
 みなさまご存知のように、ハンセン病と人類とのかかわりは長い歴史を持ち、世界中ほとんどの地域で、患者さんたちは一般市民の誤解を受け、それに基づく迫害の対象となっていたために、特に一部の宗教関係団体の中から、ハンセン病患者およびその家族への救援の手は差し伸べられてはいましたが、それは患者個人、またはその家族の救済のための手段で、公衆衛生対策として、いかにしてハンセン病を制圧、根絶するかという問題とは、まったく次元の違う活動でした。
 
 このような時に「らい病をやっつける」「天然痘撲滅に続いてらい病もなくそう」という笹川良一元日本船舶振興会会長の考えは、ハンセン病、または公衆衛生の専門家の目から見れば、現実をまったく知らない、素人の誇大妄想的な夢物語にすぎませんでした。笹川良一会長のハンセン病への関心は、彼の育った村にいた美しい娘さんに、年頃になっても、いっこうに結婚話が持ち上がらないのを不思議に思って、母親に尋ねたところ、それはあの娘さんの家族の中から、らい病患者が出たので娘さんもらい家系の一員と見なされていたからだ、と聞かされ、大きなショックと義憤にかられたことが原因だと聞いております。それ以来、彼の心にあったハンセン病をなくさなければならないという考えは、それを実現する機会のないままずっと続いていましたが、彼が社会的・経済的な地位を確立すると、日本国内・国外での患者慰問のためのハンセン病療養所訪問という形でまず現れました。彼が海外旅行中に必ず実行したことは、それぞれの国での無名戦士の碑に参詣することとともに、その国にあるハンセン病療養所を時にはその国の大統領、大統領夫人、または日本の大使を同伴して訪問し、患者さん一人一人を励ました後、何がしかの寄付をすることでした。
 
 その彼は75歳になった1974年(昭和49年)に、より組織的、また具体的に彼の永年の夢を実現させるために、大きな決断をすることになります。それは世界保健機関(WHO)のハンセン病対策のために毎年資金を提供することと、新しい財団を日本に創立して世界のハンセン病対策に直接協力することでした。私は当時、英国救らいミッションから派遣された医療宣教師としてネパールにおりましたから、財団設立には直接関わっておりませんが、その創始者グループの何人かは、私と以前から親しかった人たちでしたので、かなり詳細に何があったのかを聞き及んでおります。
 
 1973年(昭和48年)5月、日野原重明先生の主宰される(財)ライフ・プランニング・センターのための昼食会が、笹川良一会長、日野原重明先生、石館守三先生、笹川陽平氏、紀伊國献三氏によって開かれましたが、この席上ハンセン病が話題にのぼり、そこで笹川良一会長と石館守三先生とが、お互いに永年持ち続けてきたハンセン病への深い関心と、ぜひ何かしなければいけないという強い熱情とを、確認し合うことになったのです。
 
 青森の薬問屋の長男として育った石館守三先生は、近くにあった現在の国立療養所松丘保養園に、当時ハンセン病に効果があると考えられていた大楓子油、その他の薬を届ける際に、そこにいる患者さんたちの悲惨な姿を目の当たりにし、何とかしたいという思いが生じたのでした。戦時中の東京大学医学部の石館教室では、抗結核剤開発のためのいろいろな研究が行われていましたが、ある時、日独間の情報交換に使われていたドイツの潜水艦が持ってきたドイツ語の薬学雑誌上に、結核のためのスルフォン剤の一つが、ハンセン病にも効果がある、という発表がアメリカであったという、ごく短いニュースが載っているのをご覧になり、石館先生は、それが1908年にドイツで開発され、その強い毒性のためにずっと棚ざらしにされていたDDSを含むプロミンであると判断され、早速ご自身の研究室でその作製を開始されたのです。貴重な石油を使うため仕事が進まず、実際に少量のプロミンが出来上がったのは、終戦の翌年1946年(昭和21年)4月とされています。
 
 先生は早速これを持って、国立療養所多磨全生園に向かい、当時の林芳信園長にこの薬の治験を依頼されましたが、戦争中いろいろな薬の実験台とされた苦い経験を持つ患者さんたちは、最新のこの薬にも全然関心を示しませんでした。それでも、やっとのことで多磨全生園と長島愛生園とで6人のボランティアが見つかり、1日おきに60日間の静脈注射が行われましたが、その結果は、石館先生をはじめ、患者さんも含めたすべての人が驚くような見事なものでした。
 重症の患者さんの結節がとれ、潰瘍が治り、失明に近かった視力もほとんど回復するというミラクルに、今度は事態が一転して、全国の患者さんたちがプロミン獲得運動を起こし、厚生省前でデモ運動を行い、また一部の患者さんからは、血書での嘆願書が提出されるような事態になりました。
 
 厚生省からの依頼で石館先生の指導の下に吉冨製薬がプロミンの大量生産に乗り出したのは1948年(昭和23年)のことですが、多磨全生園だけでも600名の希望者があり、くじ引きをする騒ぎで、こんな状態が解決されるようになったのはそれから丸一年、石館教室が最初に試作に成功してから丸三年経ってのことでした。これにより石館先生は、日本での「ハンセン病治療薬の父」と呼ばれることになりました。また、石館先生は、日本の近代ハンセン病対策を始めたのは主としてキリスト教宣教師たちであったことから、国内でのハンセン病対策に一応のけりがついた今の日本人が発展途上国のハンセン病対策に対してなんらかの貢献をするのは、日本人の「光栄な義務」だとの強い確信をお持ちでした。
 その石館先生に対し、笹川良一会長が先の昼食会の席上、もしあなたが直接運営してくださるなら、必要な資金は私が生涯の責任として保証すると申し出られ、それをその場で石館先生が受け入れられたことから、同席の笹川陽平、日野原重明、紀伊國献三のお三方の協力の約束もあって、世界からハンセン病をなくすための新しい財団が日本に生まれることになりました。一部のマスコミからは政界財界の黒幕とも呼ばれ、百戦錬磨の士で、時として気性の激しい笹川良一会長と、真摯な学究者で温厚なクリスチャンであった石館守三先生とは、一見、水と油の関係で、そんなお二人の共同作業など普通には想像を絶した組み合わせではなかったかと思われますが、ハンセン病への関心、その救済への願望の強さと純粋さにおいて、人後に落ちないこのお二人の共同事業は、やがて全世界のハンセン病の状況を一変することに大きな貢献をすることになります。
 
 財団設立のための準備は、当時の厚生省国立療養所課長大谷藤郎先生のご協力もあって、異例の速さで進展し、1974年(昭和49年)5月4日付で、笹川良一会長満75歳の誕生日に、財団法人笹川記念保健協力財団が誕生することになりました。
 
 会長には笹川良一氏、財団運営の最高責任者理事長には石館守三先生、そして財団の寄付行為で定められた理事には、前記日野原重明、笹川陽平、紀伊國献三の三氏のほか、当時日本でのハンセン病対策の要人であった高島重孝、志賀一親、犀川一夫、義江義雄、西占貢先生等も含まれておりました。当財団職員の先駆けは、国立療養所長島愛生園で高島園長のもとで働き、厚生省病院管理研究所で1年間紀伊國主席研究員のもとで研修した鶴崎澄則さんで、私とは、私が長島愛生園で高校生の英語補習をしていた1957年(昭和32年)来の既知の仲でした。


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