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4.3 消えた塩田
 ―製塩業がつくった白砂青松(はくしゃせいしょう)―
 岡山県牛窓の師楽(しらく)遺跡で見つかった師楽式土器と呼ばれる製塩土器は、古墳時代すでに瀬戸内海沿岸で海水を煮沸して塩の結晶を得るという製塩法が行われていたことを示しています。さらに万葉集(まんようしゅう)には
 
「朝凪(あさなぎ)に玉藻(たまも)刈りつつ 夕凪(ゆうなぎ)に藻塩(もしお)焼きつつ 海少女(おとめ)」
 
という歌が見られることから、海水を煮沸する方法のみならず、奈良時代には海塩の付着した海藻を焼いて塩を得るという製塩法も行われていたことがわかります。
 平安時代になると、降水量の少ない瀬戸内海では塩田を利用した新たな製塩法が始まり、揚浜(あげはま)式塩田が普及しました。揚浜式塩田は、海面より高い場所に桶でくみ上げた海水をまいて、海水が乾いた後、塩が付着した砂粒を集めて、さらに海水を注ぎ得られた濃厚な塩水を煮詰めて塩を得ていました。
 江戸時代には土木技術が進んだので、遠浅の海をせき止めて、外海と区切った入浜(いりはま)に海水を引き入れ、中の海水を干しあげて濃い海水を得る入浜(いりはま)式塩田が造成されました。
 塩田で得られた濃厚な塩水を塩屋の釜で煮詰めて結晶塩を得ますが、この時の燃料として瀬戸内海の島々や沿岸の山々の照葉樹が切り倒され、使われました。照葉樹(しょうようじゅ)林は瀬戸内海の元々の植生で、原生植生(一次林)と呼ばれています。一次林が塩田用に切り倒されたために、瀬戸内海沿岸の山々は、平安時代から江戸時代にかけてはげ山となりました。はげ山に露出した花崗岩(かこうがん)は風や雨で風化して「マサ土」と呼ばれる砂質土壌に変化し、マサ土は海岸に流出して、瀬戸内海沿岸に白い砂浜を形成したのです。
 またはげ山や海岸の砂浜には、貧栄養の土地でも成育可能で、種子が風で飛ばされ強い繁殖力を持つアカマツ、クロマツが優占して育ち、二次林を形成していきました。
 瀬戸内海の代表的な自然景観で、昔から存在したと思われている、白砂青松(はくしゃせいしょう)という美しい景色(下の写真)は、実は、中世から近世にかけて瀬戸内海沿岸で暮らしていた人々の生産活動の結果として創られた景観だったのです。
 江戸時代の瀬戸内海における塩の生産量は全国の90%を占めるほどになり、18世紀後半には、燃料が木材より安価な石炭に切り替えられました。
 さらに昭和に入って、入浜式塩田から流下(りゅうか)式塩田への変化が起こりました。流下式は塩田の表面を粘土で固め、その上に小石をちりばめ、海水をゆっくり流すことで、塩水の濃縮効率を高め、さらに枝条架(しじょうか)と呼ばれる笹をつるした立体的な濃縮装置を用いて、濃い塩水を作りました。流下式塩田は入浜式塩田の2倍以上の生産を上げ、労働力も1/10程度ですむので、瀬戸内海沿岸に急速に普及しました。
 しかし、このような瀬戸内海の塩田もイオン交換樹脂製塩法(陽イオンと陰イオンを内包した樹脂に海水を通過させ、海水中のNa+イオンとCl-イオンを樹脂のイオンと交換する)の登場により、1971(昭和46)年にすべて姿を消し、現在、広い塩田の跡地は養殖場、工場用地、ゴルフ場などに利用されています。
 
江戸時代の「民家検労図」に描かれた揚げ浜式塩田
(赤穂市立博物館「描かれた塩づくり」より)
 
流下式塩田の向こうに枝条架が見える愛媛県桜井塩田
(今治郷土史編纂委員会「写真が語る今治」より)
 
白砂青松の景観(今治市唐子浜)
 
4.4 変わる景観 ―コンクリート護岸の増加―
 瀬戸内海の景観(けいかん)の特徴として、多くの島々と白い砂浜などの自然の美しさ、人々の生活や歴史を感じさせる漁港、段々畑や歴史的な町並みなどがあります。しかし海と一体となって優れた景色を作ってきた自然海岸(しぜんかいがん)(海岸線が人の手により改変されないで、自然の状態を保持している海岸)は、これまでの開発に伴い少しずつなくなってきていますし、わずかに残った自然海岸も人が近づけないような場所にあります。
 1978(昭和53)年から1993(平成5)年の15年間に、自然海岸約160km、半自然海岸(はんしぜんかいがん)(道路、護岸、コンクリートブロックなどの人工構造物で海岸線の一部に人の手が加えられているが、潮間帯は自然の状態を保持している海岸)約45kmがそれぞれ失われ、人工海岸(じんこうかいがん)(道路、護岸などの人工構造物により改変され、構造物が直接海水に接している海岸)に改変されました。
 瀬戸内海のすべての海岸線が白いコンクリートで固められた人工海岸で覆われることを想像してみてください。そのような瀬戸内海を私たちは美しいと感じるでしょうか?
 また、歴史的町並みも、高度成長期の工業化や、画一的な町並みづくりなどによって減少しています。特にこうした景色を支える多くの島々では、急速な過疎化・高齢化が進み、これまで長い時間をかけて作りあげられてきた文化の継承が危ぶまれています。また、一部の島では、ゴミの不法投棄などが大きな問題となっています。
 景観は、その地に暮らす人々の生活のあり方と密接に関係しているので、歴史的な景観を保存することは容易ではありません。時代の変遷と共に、その地の産業も人々の暮らし方も変わっていくので、景観も当然変わっていきます。その中でその地に住む人々も住まない人々も大切に思う景観を、どのようにすれば保存可能かを考えていく必要があります。
 
瀬戸内海の海岸線(せとうちネットより)
 
 この節の参考文献として以下の2冊をお薦めします。
西田 正憲(1999)『瀬戸内海の発見』中央公論新社 820円
柳 哲雄(1994)『風景の変遷 ―瀬戸内海―』創風社出版 1456円
 
4.5 外国人の眼差し(まなざし)
 ―瀬戸内海という言葉を生んだ視点―
 明治時代以前の日本の文献に「瀬戸内海」という名称を見つけることは出来ません。昔の日本人は須磨や明石など瀬戸内海の特定の場所を「歌枕(うたまくら)」として愛(め)でたり、播磨灘・燧灘・伊予灘など、地先(ちさき)の海をひとつの囲まれた海域として認識してはいましたが、瀬戸内海全体をひとつの海として認識してはいませんでした。
 明治時代になって、瀬戸内海を旅する外国人が増加するにつれて、地中海のエーゲ海などと瀬戸内海を比較して、瀬戸内海の美しさを褒め称える外国人の文章が増えてきました。彼らは瀬戸内海を「The Inland Sea」と呼びました。それをそれまであった「せとうち」という言葉と一緒にして「瀬戸内海」と訳して、明治4〜5年頃初めて瀬戸内海という地名が我が国に定着したのです。
 このことは、時には、日常の生活の視点から一端離れてものごとを見直すことの大切さを、私たちに教えてくれます。
 1934(昭和9)年、瀬戸内海は雲仙や霧島とともに、日本で最初の国立公園に指定されました。海岸線の延長で約25%が瀬戸内海国立公園に指定されていて、自然の景勝地を保護するとともに、自然に親しむための施設が整備され、瀬戸内海沿岸地域住民のみならず日本の全国民や世界の人々に親しまれています。
 下図に示した日豊海岸、足摺・宇和海、室戸・阿南海岸も広い定義によれば瀬戸内海の国立・国定公園に含まれます。
 
瀬戸内海の国立・国定公園(せとうちネットより)
(拡大画面:56KB)


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