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4. 瀬戸内海の歴史と景観
4.1 歴史 ―瀬戸内海は大陸と日本をつなぐメインルートだった―
 瀬戸内海地域は、昔から日本の政治・経済・社会・文化の様々な分野にわたって、常に先進的な地位を占めてきました。中国大陸や朝鮮の文化が、主として北九州から瀬戸内海を通って大和(今の奈良)や京都へと伝えられる時、瀬戸内海地域が絶えずこの橋渡しの役割を果たしてきたからです。つまり、瀬戸内海地域は情報、もの、文化が伝わるメインルートの役目をしてきました。
 
 古代には新羅、隋、唐などへの政府の使者(遣新羅使(けんしらぎし)、遣隋使(けんずいし)、遣唐使(けんとうし))が、中世には宋、明などとの交易船(朱印船(しゅいんせん))が、この海を行き来しました。江戸時代には北前船(きたまえぶね)と呼ばれる船が北海道と大坂の間を航行し、北海道や奥羽からニシン、数の子、昆布、干鰯(ほしか)などを運んできて瀬戸内海沿岸で売りさばき、大坂、瀬戸内海からは塩や米を積み込み、日本海沿岸や北海道で売りさばきました。さらに1607(慶長12)年から1811(文化8)年の間には12回も朝鮮(ちょうせん)通信使(つうしんし)が瀬戸内海を航行しました。
 
 1900(明治34)年に神戸−下関間を山陽本線が全線開通して以降、主要物流航路としての瀬戸内海の役割は低下していきますが、それでも大正時代から昭和初期にかけては、機帆船が北九州の炭田から京阪神工業地帯に石炭を積んで航行し、瀬戸内海は依然として重要な航路として機能していました。
 
739年の遣新羅使の航路(せとうちネットより)
 
瀬戸内海での主な出来事に関する年表
 
B.C.7000年頃 ほぼ現在の瀬戸内海の地形が形成される
B.C.6000年頃 現在より約3m高い海面の高さになる(縄文海進(かいしん))
B.C.5000年頃 ほぼ現在の海面の高さになる
571〜882年  遣新羅使が派遣される(計46回)
600〜614年  遣隋使が派遣される(計6回)
630〜894年  遣唐使が派遣される(計20回)
 661年  斉明天皇西航(熟田津(にぎたづ)の歌詠まれる)
 934年  瀬戸内海で海賊が横行したため、朝廷が追捕(ついほ)海賊使を
  任命する
 935年  紀貫之の「土佐日記」完成
 939年  藤原純友が伊予国日振島を拠点に反乱を起こす
1152年  平清盛が安芸国厳島(いつくしま)神社の社殿を修復
1167年  平清盛が太政大臣となる
1172年  平清盛大輪田(おおわだ)泊(神戸)の築港・音戸瀬戸の修理を
  行って、日宋貿易を振興
1185年  屋島の合戦、壇ノ浦の戦いにより平家滅亡
1555年  毛利元就が村上水軍の応援を受け、厳島の戦いで陶晴賢を討つ
1581年  ルイス・フロイスが瀬戸内海を航行
1588年  豊臣秀吉、海賊禁止令を出す
1607年  朝鮮通信使初めて来日
1672年  河村瑞賢が西廻り航路を開く
1700年代 北前船の往来が盛ん
1762年  この頃から瀬戸内海の塩田で石炭の使用が始まる
1900年  山陽本線全線開通
1934年  瀬戸内海国立公園指定
1962年  新産業都市建設促進法
1971年  環境庁発足
1973年  瀬戸内海環境保全臨時措置法制定
1977年  瀬戸内海で初めての伊方原子力発電所運転開始
1981年  瀬戸内海から塩田が消える
1988年  瀬戸大橋開通
1998年  明石海峡大橋開通
1999年  しまなみ海道開通
 
4.2 主な産業 ―工業地帯だった瀬戸内海沿岸―
 1962(昭和37)年の新産業都市建設促進法等の成立によって、瀬戸内海には4つの新産業都市と3つの工業整備特別地域が指定されました。それ以降、これらの指定都市・地域を中心にして、石油コンビナートや製鉄所などが建設され、臨海工業地帯がつくられました。このような重化学工業に関して、瀬戸内海の工業出荷額は全国の約40%以上を占めていました。
 1973(昭和48)年の瀬戸内海における重油精製量はイギリス1国のそれとほぼ同程度で、粗鋼の生産量は西ドイツとフランスのそれを合わせたものとほぼ同程度にまで達していました。
 以後、瀬戸内海の工業生産額の全国に占める割合は少しずつ減少していますが、現在も約30%を占めています。しかし、最近いくつかの工場が人件費の安価な中国や東南アジアに移転されています。その結果、瀬戸内海沿岸の工業地帯に空き地が見られるようになってきました。
 
瀬戸内海の主な工業地帯
 
瀬戸内海の工業出荷額(せとうちネットより)


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