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男性ばかり? アラブのパーティー見聞録
 さてその先ですが、日本人はすぐ東京へ呼んで、次は京都観光をしてお寺を見せるが、そんなのはつき合ったことにならないのです。自宅へ呼ばないと駄目なのですが、日本人は自宅へ呼ばない。そこで、「日下会長、自宅へ呼びなさい。そうしてくれれば自分も行きたいという大臣がいっぱいいる」と言われたのですが、ではアラブ人を私の家に呼んで接待をするとは一体どういうことになるのかな、というとき辻さんに聞いた話を思い出しました。すみません、辻さん、もう一回話してください。そういうときは、男ばかりのパーティーなんですね?
 
【辻】 サウジアラビアの例となりますが、男性と女性は家庭においても居住空間が違います。バスは車中が壁でへだてられて、前は男性、後ろは女性。それから、サウジ政府がベトウィン(遊牧民)の人たちを定住させるために高層アパート群を建てたのですけれども、ゴーストタウン化してしまった。というのは、男性用と女性用のエレベーターが分かれていなかったのです。家族以外の人が乗ってくるといけないから、利用者がいなかったというわけです。そのような前提で想像してください。
 サウジにナショナル・コマーシャル銀行という銀行があるのですが、国内のサッカー選手権で優勝しまして、お祝いのパーティーのディナーに呼ばれました。当然、集まったのは男ばかりです(笑)。広大な銀行のオーナー一族の邸宅の中庭に二〇〇枚ぐらいじゅうたんが敷かれ、その上に座り、歌や音楽を聞きながらチャイ(お茶)やコーヒーを飲み、おしゃべりし、午後七時過ぎから十一時頃まで過ごしました。
【日下】 酒は出ないわけですね?
【辻】 ええ、一切飲みません。アルコールは禁止ですから。ちなみにレストランに行くとサウジシャンパンという、リンゴの発泡ジュースがあります。それからノンアルコールビールは何十種類か飲みました。
 結婚式でも、男性と女性は場所が違っています。私は残念ながら結婚式に出席したことがないのですが、同僚のご夫婦が招かれたときの話を紹介しますと、花嫁のほうの女性だけの会場には、花婿が一応顔を見せに来るらしいのですけれども、男性の集まっているほうの部屋には、花嫁は一切顔は出さないということになっています。ですから、アラブ人を家に呼ぶといっても、男性の部屋と女性の部屋をはっきり分けなければいけませんので、日本の普通の家ではスペース区分がなかなか難しい。
 先ほどの祝勝パーティーの話に戻りますが、午後十一時過ぎになると、じゅうたんの上に幅一メートルほどの白い紙がテーブル代わりに敷かれます。出席者は皆、そのテーブルをはさんで向かい合って座ります。テーブルの上に大皿に乗った羊の丸焼きと、リンゴやバナナの果物、ピクルスが配られます。すると、皆、物も言わずに食べ始め、二十分ほどですべて食べ終わります。ナイフやフォークは一切ありません。左手が不浄ということになっていますから、焼きたての丸焼きが出てきても右手だけでちぎりとる。ところが、我々はなれていないから、指先の握力がなくて肉がなかなかとれないのですが、彼らはまだ熱い内臓でも何でも手際よくとって、それをぽいっと私の目の前に放ってくれます。普段あまり手を洗わない彼らを知っているので、衛生面を考えるとそれを口にするのはなかなかきついのですが、食べないと相手に悪いので頑張って食べていた次第です。
【日下】 それで、宴たけなわになると立ち上がって、男同士ダンスをするのでしたね?やっぱりチークダンスをやるんですか(笑)。
【辻】 いや、お互いの片手を取り合いながら手を掲げるダンスで、フォークダンスぽく踊るんですが(笑)、何かこうラクダのステップを踏んでいるようなスキップ風の踊りです。一緒にダンスを踊ろうと何人もの男性が、目で誘ってくるので、仕方がないから一人に応じると、次から次へと誘われまして。大変もてた夜だったことは間違いないと思います。
【日下】 私の家でのパーティーがもし実現したら、ぜひ来て指導してください。そのとき、女性のお給仕は一切なし?
【辻】 ありません、一切。
【日下】 そんなパーティーを、はたして実現できるかどうか(笑)。興味があるかたはぜひ手伝ってください。
 
 パーティーひとつ取っても、相互理解というのはそう簡単ではないことを実感してもらえたと思います。さて、ここで言いたいのは、当財団の内部文書でも「宗教的指導者を二名呼ぶ」とか、「部族長を三名呼ぶ」、したがって予算は幾らと書いています。これは官邸でも、防衛庁の中でも、そういう日本語になっている。しかし、「宗教的指導者」「宗教的リーダー」という表現は、ほんとうはおかしいのではないか? 正しくはどういう意味なのか。
 こういう表現を言い出したのはアメリカ人だろうと思います。アメリカ人の常識では必ずリーダーというのがいるから、それでリーダーという言葉を持ってきて、宗教的影響力の持ち主を「指導者」と呼んでしまう。日本人も、またすぐそれを無批判に使ってしまうが、私の聞いた話では、ほんとうのモハメットの世界では、アラーの神がいて、その下の人間はみんな一緒で、この中に上下はない。日本の感覚で言うと、坊さんは仏に近いとか、カソリックの神父さんは神様に近いとか、要するに一段上にいるわけですが、彼らにはそういう感覚がなくて、わかりやすく言えば単なるコーランの解説者である。
 だから、「勉強家」という言葉のほうが意味は近い。あるいは「学者」「コーランに詳しい人」ですね。だから、みんながそこへ行ってお伺いをたてるけれども、彼が神に近いわけではないというようなことがあるのではないかと思って、佐々木さんに先日聞いたら大変明快な答えがありました。佐々木さん、もう一回お願いします。
 
【佐々木】 イスラム教を語る資格はないのですが、まず前提としてスンニ派とシーア派があります。スンニ派の場合は、学問を積んだ人たちのことをシェイクと言います。シェイクというのは、それが後には尊称に変わってくる場合もありますけれども、「勉強しました、非常に詳しい」というのが本来の意味です。したがって、民事であるとか、あるいは社会的な問題の解決に彼らのアドバイスを求めるという傾向は多分にあります。
 シーア派の場合ですと、彼らのこれはちょっと違っていまして、その学問のレベルについてはランクを設けています。ムッラーというのが一番下です。一番上にいるのがイマームと言われるのですが、イマームというのは一二イマームとか、七イマームとか、いろいろなイマームがあるのですが、これは予言者の末裔が、地上に問題が起こってどうしようもない状態になったときに再臨してくる、そしてその問題を解決してくれるという存在です。七番目のイマームで消えてしまったのを七イマーム派、一二番目までイマームがつづいたのが一二イマーム派と、言い方の違いはありますが、いずれにせよ、いわゆる宗教的リーダーを日本人が実感として捉えるのは非常に難しいです。
 例えばムフティーというのがあります。ムフティーというのは、これは、いわゆる最も知識のレベルの高い人で、それぞれの国がムフティーを設けていますが、例えば、世俗的な政府が決定したものをイスラム的に違反をしていませんかという相談を受けます。これはスンニの場合ですね。シーアの場合ですと、アーヤトッラー・アル=ウズマーとか、マルジャアイ・ル=タクリードという立場の人がそれに準ずるということになります。以上です。
【日下】 つまり、行政がコーランに違反していないかどうかを相談に行ったとき答えてくれる人ですね。
【佐々木】 はい。
【日下】 というのが実態らしくて、勝手に、アメリカ風、日本風に「あなたはリーダーでしょう」と思い込んで行くと食い違うのでしょうね。
【佐々木】 リーダーというよりは、いわゆる宗教的な学問を大変に積まれた宗教学者という言い方が近いかもしれません。
【日下】 そういうふうに見てあげればいいわけですね。あなたは宗教学者です、そして位が高い人です、というふうに言えばいい。それが本来の中身なのですね。社会的影響力というのはどうでしょう?
【佐々木】 宗教が社会の基盤ですから、当然、社会的に尊敬を受けます。ただし、それが決定的な指導権を持っているか、指導力を持っているかというと、現在のイラクの混乱を見れば、皆さん、ご理解いただけると思います。
【日下】 なるほど。社会的影響力というのは副産物であって、本質的なものではない。そこだけを日本やアメリカが利用しようと思っても、それはお門違いだということですね。
【佐々木】 はい。
【日下】 というわけで、言葉遣い一つでもなかなか難しいのです。宗教的指導者とかリーダーという呼称は、これから流行するでしょう。しかしそこで、また混乱がいっぱい起こるのでしょうね。
 私の周りでは、しょっちゅう、いざこざが起こるんです(笑)。というのは、お役所の人に対してでも、「こんな通俗語を気安く使うな」と指摘しますからね。「どういう意味で使っているのか」と。
 すると「新聞に出ています」とか、「テレビで」と言うのですが、それではただの事務員レベルです。国民の税金を使い、国民の生活を規制する官僚が、そんな俗語で判断を下しているとは困ったことです。その先をもう一歩考えて欲しくて、こういう話をしております。







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