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私はこう考える【中国について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1998年9月号 中央公論
新政権は江沢民をどう迎えるのか
田中明彦(たなかあきひこ)(東京大学教授)
橋本外交の功績
 橋本政権の外交は決して悪いものではなかった。参議院選挙における日本国民の審判にもかかわらず、橋本首相の成し遂げた外交成果は決して低くない。過去一〇年間ということで振り返ってみた時、おそらく最高の外交パフォーマンスだったといってもよいだろう。
 一九九五年九月の沖縄における少女暴行事件以来の日米安全保障関係をめぐる不安定を解消し、ガイドライン見直しに見られるような新たな基盤を日米関係に与えるために果たした橋本首相の役割は決して過小評価すべきでない。台湾海峡危機以来の日中関係の緊張は、一部橋本首相の靖国神社参拝がもたらした面がなかったわけではないが、この緊張関係を緩和に向かわせたのは、一九九六年秋のAPEC非公式首脳会議に際して行われた橋本・江沢民会談だったし、昨年夏、加藤紘一自民党幹事長と梶山静六官房長官の「周辺事態」をめぐる発言が引き起こした混乱を収束させたのは、九月初めの橋本首相の中国訪問であった。さらにいえば、冷戦後、ほとんど関係らしい関係がなく事実上凍結していたといってもよい日露関係を再び動き始めさせた功績もまた、橋本首相に帰すことができる。アメリカ、中国、そしてロシアという主要国との関係に、日本をしっかりと食い込ませたという面で、それまでの漂流する日本外交に大きな基盤を与えたということができる。
 さらにまた、G7/8サミットやAPEC非公式首脳会議、そしてASEM(アジア・ヨーロッパ会合)など首脳が集う会議外交の席でも、橋本首相の活躍は、他国の指導者と比べて遜色のないものだった。会議での発言なども、要所要所で会議の流れに影響を与えたといわれる。
 しかし、このような外交面での成功にもかかわらず、参議院選挙で日本国民が下した判断は、おそらく間違ったものではなかった。事は、内政面での失敗が外交面での成功を帳消しにするほど悪かった、ということにとどまらない。より本質的にいえば、ここで記してきたような「外交」を成功させ続けるだけの基盤が橋本政権から失われていた、という所に最大の問題があったのである。このまま橋本政権を続けさせても、内政はおろか外交面でも成果は期待できないのかもしれない。そういう含意も、今回の参議院選挙の結果は示しているのかもしれない。
 新しい政権の今後の課題を考える時、橋本政権の成功と失敗は、大変貴重な教訓を与えていると思う。一体、新政権が汲み取るべき教訓とは何か。
クリントン訪中と日本人の不快感
 参議院選挙直前のクリントン大統領の訪中は、今から振り返ってみると、橋本外交の退場の意味を考える上でとりわけ興味深い出来事だったということができる。そして、新政権の対外政策の方針と態勢を考える面で貴重な示唆を与えているように思う。
 クリントンの訪中時に、日本人の多くが持った感情は「ジャパン・パッシング」であり「ジャパン・ナッシング」であったといわれた。九日間もわざわざ太平洋を越えて中国に来たのに、同盟国の日本には立ち寄らないクリントン大統領。これは、アメリカ外交が日本を通り越して(ジャパン・パッシング)、中国を重視するものへと変化していることを示していると思われた。もはや、アメリカにとって日本は意味ある存在ではない(ジャパン・ナッシング)というわけである。
 とりわけ、多くの日本人にとって衝撃的だったのは、クリントン大統領が、中国滞在中に江沢民主席との共同記者会見において、日本の経済政策に注文をつけたことであり、彼の訪問に前後して、中国の指導者もまた日本の経済政策について批判的に語ったことである。アメリカから経済政策について注文をつけられることに慣れている日本人にとっても、中国の指導者からも批判が来る、それも米中共同批判のような形で行われるのは、やや意外な展開であった。
 しかしながら、よくよく考えてみれば、クリントン訪中について、このような疎外感をベースにした反応を持つことは健全ではない。クリントン訪中が、特に日本を対象にした米中連携を目的としたわけでないことは明白だからである。一九九六年三月の台湾海峡危機と人権問題をめぐってギクシャクしてきた米中関係を改善することが目的なのであって、昨年十月末から十一月にかけての江沢民訪米に対応しているにすぎないからである。そして、日米関係も日中関係もともに重視せざるをえない日本にとって、米中関係が改善することは、利益になるに決まっている。天安門事件直後のように米中関係が悪かった時、日本がいかに苦労せざるをえなかったかを考えれば、米中関係の改善は望ましい展開以外のものではありえない。
 また、アメリカのアジア外交の主軸が、今後は中国に移っていってしまい、日本は周辺的な存在として取り残されてしまうとの懸念も間違っている。いかに経済が停滞していようとも、日本の国民総生産は、一九九五年時点で中国の七倍以上であり、東アジア全体の経済の中で六割を占めている。そして、このような比率が大きく変わる兆候は見えないのである。アメリカの安全保障政策の流れからしても、日本における米軍基地がそのアジア戦略の根幹であることに変化はない。
 さらにまた、日本の経済政策について、アメリカからのみならず中国からも批判が来るということ自体も、これまでそういう例がなかったという点を除けば、特に異とするに足りない。急速にグローバル化が進み、経済相互依存の深まったアジア経済において、日本経済の動向は、すべての国の関心事項であって、批判すべき点を批判するのはいわば当然であろう。
 しかしながら、それにもかかわらず、クリントン訪中によって日本人の多くが不快感を持ったという事実はなくならないし、そして、それが今後の国際政治に全く意味を持たないわけでもないことも事実なのである。クリントン政権自身が、日本軽視ということで判断を固めたわけではないにしても、アメリカ人の一部には、ジャパン・パッシングでよい、これからは中国重視だという声があった。また、クリントン大統領が訪中の途中に日本に立ち寄ることは困ると中国がアメリカに主張したことも事実である。さらにいえば、ここ一年を通して強まってきていた、「無力な日本」というイメージをさらに広げたことも事実なのである。
 一方において、米中関係の進展は、米中にとってのみならず、日本にとっても利益であるにもかかわらず、他方において、米中進展はさまざまな心理ゲームを生み出す。日本国民が参議院選挙で橋本政権にノーといった理由に、クリントン訪中があったとはいえないが、実質的には、橋本政権を退陣させることで、日本国民は、このような国際政治ゲームにおける、プレーヤーとしての橋本首相をリコールしたことになる。新政権は、国際政治に関していえば、微妙な段階にさしかかった心理ゲームの途中で、交替したプレーヤーなのである。
巨大な社交場と化した東アジア
 それでは、クリントン訪中が象徴するような現在の東アジアにおける国際政治ゲームの特徴は何なのか。しばしば言及される見解でいえば、「三国志」的国際政治という見方がある。別のいい方をすれば、今や日米中関係は、冷戦時代の米中ソ関係に近い関係になっているという見解である。しかし、この見解はおそらく間違っている。現在の日米中関係には、「三国志」や冷戦時代を特徴づけるような決定的な対立点というものがないからである。米中が和解して、一体誰に対抗しようとしているのか。日本がますます強くなっているから米中が協調するというのなら、それなりに理解できるが、現在の日本にそれほどの脅威を感じるアメリカ人も中国人もいないであろう。クリントン訪中を、バランス・オブ・パワーで説明することには無理がある。
 また別の見解として、やや冗談のようであるが、日米中を恋人間の三角関係ゲームにたとえる人もいる。長年連れ添ってきた日米という夫婦の前に、中国という新しい魅力ある愛人が現れ、アメリカは、あまり魅力のなくなった妻である日本を捨てて、愛人のところに入り浸っている、というわけだ。国家間関係といっても、人間がやっているわけだから、このような心理作用が存在しないわけではない。しかし、国家間関係を恋愛関係にたとえるのは、良くいって一面的であり、悪くいえば、きわめて危険である。まっとうな恋愛関係においては、プレーヤーの目的は、愛なのであって、好きになってもらうこと自体が目的なのであるのに対し、国家にとって最も重要な目的は特定の国から好きになってもらうことではない(国家間関係は、たとえるとすれば、もっと不純な恋愛関係である)。
 それでは、現在の東アジアの国際政治は一体どのようなゲームだといったらよいのであろうか。あえて何かにたとえるとすれば、「三国志」や「三角関係」などよりもはるかに複雑な「社交ゲーム」とでもいったらよいようなゲームの方が適切だと思う。二つの家族の間で相互に招き合うだけでなく、三家族間でもパーティがある、さらに多数の人々を招いたパーティがある。そして、パーティのそれぞれは孤立したイベントではなく、一年を通じて、あちらで開かれるパーティこちらで開かれるパーティ、すべては関連している。そして、このパーティのネットワークを通じて有用な情報、有害な情報、ゴシップなどが飛び交う。そして、この社交ゲームの中で、誰が有力者かどうかは決まる。さらにその有力者を中心にさまざまなパーティが開かれ、新たな関係が現れては消え、新たな有力者が生まれる。こういうアナロジーの方が現実理解としては適切なように見えるのである。
 かつての東アジアの国際政治においては、圧倒的に二国間関係が中心であった。一九八〇年代にいたるまで、たとえば日米摩擦と日中関係にはほとんど直接的関係はなかった。一九八五年夏、日中間では中曽根首相の靖国神社参拝が大きな問題だったが、これと同じ時期に日米間で経済摩擦が頂点に達し、円安から円高への方向を決定づけたプラザ合意が成立する。もちろん、戦略的にある二国間関係が他の二国間関係に影響することはあったし、これを考慮しなければ外交が進まなかったことは事実である。たとえば、一九七〇年代後半、日本が中国と「反覇権条項」を入れて平和友好条約を結ぶ際には、ソ連がどう出るかということを考慮しなければならなかった。しかし、その場合でも、日本外務省は、日中は日中、日ソは日ソという形で交渉を進めようとしたし、現実には日ソの間はきわめて関係が希薄であった。
 より具体的なデータということでいえば、首脳同士の交流というところに注目してみると、この変化は一目瞭然である。一九八〇年代まで、日本に限ってみれば、首相の対外交流は基本的には二国間のそれであった。首相が多国間の会合に出席することは、G7サミットに出席する以外にはほとんどなかった。外務大臣や大蔵大臣というレベルになっても、一九八〇年代までは、G7の蔵相・中央銀行総裁会議やASEAN拡大外相会議など以外は、頻度の高い多角的会合はなかった。そして、多角的ネットワークといっても、一九八〇年代までの日本にとって存在したのは、それは先進諸国との間でのネットワークであった。ASEAN拡大外相会議が、アジア地域についていえば、ほとんど唯一の例外であった。
 これが一九九〇年代に入ってから、それも最近の数年で大きく様変わりしていることに注目しなければならない。一九八九年にAPECが誕生し、外相や通産相レベルでの多角的会合が毎年開催されるようになった。一九九三年からは、クリントン大統領のイニシアティブで非公式首脳会議が開催され、アジア太平洋諸国の首脳が歴史上初めて一堂に会することになった。以後、アジア太平洋諸国の首脳は、少なくとも一年一回必ず会合するようになった。さらに一九九〇年代に入り、ASEAN拡大外相会議に加え,一九九五年からASEAN地域フォーラムが出来た。一九九六年にはASEMが発足し、二年に一度は、中国、韓国、日本やASEAN主要国など一〇ヵ国の首脳がヨーロッパ諸国の首脳と会談を行うことになった。
 このような多国間の首脳レベルの会合を利用し、また、多国間会合の合間を縫って二国間会合が頻繁に行われるようになったことが、さらにネットワークの密度を濃くしている。APECの非公式首脳会議に際して、日中首脳会談や日米首脳会談が開かれるのは、ほぼ恒例になったし、ASEMに際しても、日中首脳会談や日韓首脳会談が開催される。
 さらにこの二年を振り返ってみれば、二国間首脳会議のラッシュとでもいってよいような現象が起こっている。たとえば昨年十月末から十一月初めを振り返ってみるとよい。十月二十六日から十一月三日まで江沢民主席がアメリカを訪問した。これと重なるように橋本首相は、十一月一日から二日にかけてクラスノヤルスクを訪れエリツィン大統領と会見し、二〇〇〇年までに平和条約を締結するよう努力することで合意した。その直後の十一月九日から十一日には、そのエリツィン大統領が中国を訪問する。さらに十一日から十六日にかけては李鵬首相が日本を訪問しているのである。もちろん、これらの二国間の首脳会談は、二国間のそれであるとみなすことも可能であるが、その実態は、単なる二国間の会合ではないのである。すべては他の二国間の動向と密接に関係している。
 目を首脳レベル以下までさげてみれば、そこには、大臣レベル、次官レベル、局長レベルの二国間ならびに多国間の会合があり、さらに無数の民間・政府取り混ぜたいわゆるトラック2の会議がある。これらすべてが複合して、今日の東アジアの国際政治を形成しているのである。
 つまり、東アジアは、史上初めて首脳レベルをふくむ巨大な社交場と化した。そこで行われる二国間交流は、それだけを取り上げても意味がない。クリントン訪中は、その意味でいって、一九七二年のニクソン訪中とは決定的に異なった出来事なのである。ニクソン大統領は、毛沢東や周恩来と生まれて初めて会見した。それに対し、クリントン大統領は、江沢民主席とは、APECの非公式首脳会談で毎年会っている仲なのである。さらにいえば、ニクソン訪中のあった一九七二年においては、アクションとリアクションのタイミングは、まだまだかなりゆっくりしていた。ニクソンの訪中が二月で、これへの最初の反応である田中首相の国交正常化のための訪中は九月であった。これに対し、クリントン訪中の後を考えてみると、結局キャンセルされたが七月には小渕外相の訪中と橋本首相の訪米が予定されていたし、九月には江沢民主席の訪日も予定されていたのであった。社交のスケジュールはますます密になっている。
「言力政治」に勝つ秘訣
 それでは、この巨大な社交場で、一体どのような政治が繰り広げられているのか。社交場には権力政治も恋愛関係もあるから、その意味で、部分的に「三国志」や「三角関係」的な動きが見られるのは当然であろう。しかし、それらはあくまでも部分的現象であるように思う。筆者の仮説的見解では、現在の東アジア国際政治の最大の特徴は、目標としてのグローバリゼーションへの適応であり、手段としての、シンボル操作による政治である。奇妙な言葉をあえて作れば、権力政治ならぬ「言力政治」(ワード・ポリティクス)とでもいえるだろうか。
 昨年以来のアジア金融危機は、グローバリゼーションは決してスムーズなプロセスでないことを明白にした。グローバリゼーションは、経済的にも政治的にも大きなうねりを伴う動きに他ならないことが明らかになった。この中で、このうねりから抜け出ることは、いかにアメリカといえども不可能であるとの認識が強くなっている。そして、政策担当者のなすべきことは、波のたとえを使えば、グローバリゼーションの波の上でいかに遠くまで波乗りを続けていくかということになる。波に逆らえば、飲み込まれてしまうし、また波乗りが下手であれば、すぐひっくり返ってしまう。
 現在、アメリカはこのグローバリゼーションの波に最もうまく乗っている国である。したがってアメリカ外交の目的は、絶好調ともいうべき現在の景気をなんとか維持していくことに収斂している。また、現在の中国は、「改革開放」の旗印のもとグローバリゼーションに適合する経済体制へと転換をはたし、「中国の脅威」までが言及されるようになった存在である。しかし、その中国も昨年来のアジア金融危機を前に、ことによると自らもグローバリゼーションの大波をまえに沈没してしまうのではないかとの懸念を強めている。東アジアのそれ以外の国の中には、すでに沈没しかかっている国も多い。タイ、インドネシア、韓国など、みなその前途には不安が多い。しかし、いずれの国も、グローバリゼーションから離脱する形で事態を解決させようとしている国はない。一九七〇年代までは、南の諸国の中には、「従属論」の教えにしたがって、世界経済から自らを切断することが望ましいとの認識があった。「自力更生」が一つの解答であった。今や誰も「自力更生」はいわない。
 このような中での政治は、一体いかなるゲームとなるのであろうか。それは、大筋でいって「ゼロサムゲーム」ではない。ある国の経済が良くなることが、他国の経済を悪くすることは考えにくい。あるいは二つの国が協力したことが、他国にとって害になるということも、考えにくい。逆に、ある国の経済が悪くなることは、他国の経済をも悪くする可能性がある。そして、ある二国間の協力ができないことが、他国の状況をも悪くする可能性がある。つまり、現在の東アジアを覆っているのは、グローバリゼーションへの適応を試みている者たちからなる運命共同体の政治なのである。誰かが沈めば、他の者たちも引きずられて沈み、誰かが浮かべば、他の者もこれに引きずられて浮かぶというような、そういう特徴を持っているといってよいだろう。
 ここから生まれる政治の姿は、それほど悲観的なものではない。なぜなら、このような構造から最も自然に生まれる形は協力だからである。皆で沈んでしまうよりは、協力したほうがいいに決まっているし、協力しないで単独でいい目を見るという選択がほとんどないからである。現実に過去数年を振り返ってみて、首脳会談のラッシュが起こる背景には、このような協力をいわば強制するグローバリゼーションの動きがあるといってよいのではないかと思う。
 しかし、このような構造は、必ずしもハーモニーをもたらすわけではない。第一に、誰かの行動の結果、あるいは無作為の結果、全員がこれに引きずられて沈んでしまう可能性が排除できないからであり、第二に、全員の協力が望ましいといっても、やはりそこに協力の分担率を決めるという政治が起こりうるからである。第一の可能性から生まれる政治現象は、他の者たちを引きずり込んで沈みそうなプレーヤーに対し、これがまだ力があると思えば、「何をしているのだ」といって批判するであろうし、これが弱ってくれば、何とか助けようとするであろう。そして、協力の分担率を決める場合、もちろん一番調子のいいプレーヤーの分担率が高くなるのは当然だとしても、能力があるにもかかわらず他の者を巻き添えにして沈みそうな者(全体状況の悪化に最も責任のある者)に、さらに高い負担を負わせようとするのも当然であろう。
 昨年来のアメリカの財務省を中心とする人々の対日批判とは、突き詰めていえば、アジアとともにアメリカをも奈落の底に引きずり込みかねない日本に対して、「何とかしろ」といっていることに他ならない。これに中国が同調するのも、いわば当然である。日本には能力があるとみなされているから、とりわけ罪が重いと見なされるわけである。
 しかし複雑な点は、運命共同体という点での認識はほぼ共有されているにもかかわらず、客観的に誰が何をすればどうなるかがわかっているわけではない、ということである。日本経済が立ち直らなければ、本当に世界恐慌が起こるのかどうか、一〇〇パーセントの確率でいうことはできない。本当に日本が何もしなければ、他を巻き添えにして奈落まで行くのかどうかは、実はわからない。それにもかかわらず、このような見方はほとんど「通説」となっている。なぜそうなのか。
 ここで登場してくるのが、「言力政治」である。言葉やシンボルの操作能力、つまり「言力」が、客観的にはわからないものを「通説」にしてしまう。「通説」になってしまえば、よほど客観的証拠を大量に並べ立てなければ、それはなかなか覆されない。また、将来悪い事態が起こった時に、自らではなく他の誰かに責任があるのだという「通説」を作っておけば、責任をとらなくてすむ。世界恐慌なり、アメリカの経済の悪化が起こった時、「日本が何もしなかったからこうなったのだ」ということができれば、アメリカの政府にとっては都合がいいだろう。また、人民元の切り下げをせざるをえなくなった時に、すべてこうなったのは日本経済の無策のせいだ、といえれば、中国にとってはやはり都合がいい。
 いうまでもなく、「言力政治」は特に新しい現象ではない。これまでにも、たとえばアメリカは、理念やシンボルをうまく操作することで冷戦を戦ったといってよいだろう。しかし、冷戦後、社交場としての特徴を強く持ってきた東アジア国際政治においてはますます、この「言力政治」が重要になってきているように見えるのである。
 「言力政治」に勝つ秘訣はあるのか。おそらく、それはゲームの行われる社交場の性格に依存しているから一概にはいえないのであろう。しかし、いくつかの観察をすることはできるかもしれない。
 第一は有効なプレゼンスである。つまり、社交場の中では、できるだけ多くのパーティに出ていなければいけない。自らがいない場で、通説が作られてしまうかもしれない。この六月初旬、マレーシアでアジア太平洋地域の安全保障専門家が一堂に会する国際会議があった。筆者は、これには出席しなかったが、この会議の案内を春に受け取った時一驚した。なぜなら、日本を取り扱うセッションのタイトルが「なぜ日本はかくも無力なのか?」と題されていたからである。タイのバーツ危機にしても、韓国の年末の危機にしても、日本の協力によって最悪の事態を防ぐことはできたとの主張は十分可能であった。それにもかかわらず、「なぜ無力なのか?」という問題設定がされてしまう。事情はつまびらかではないが、このような課題設定の場に「欠席」していれば、あるいはこのような場で十分な「発言」をしなければ、「通説」は作られてしまうであろう。
 第二に適切な行動である。「言力政治」に行動だなどというのは矛盾しているといわれるかもしれない。そうではない。適切な行動に裏打ちされない「言葉」が信頼されないのは、社交場においてでもそうである。しかし、社交場において必要とされる行動は、社交場の人々が理解できる行動でなければならない。「ひそかに、ゆっくり、そして着実に」というような行動パターンでは、かえって何もしていないとしか思われない。橋本首相の国際会議での発言は、多くの場合、大変立派な発言が多かった。しかし、その後の国内の調整過程での行動が、かえって不信感を呼ぶという傾向があった。冒頭述べた、日本国民が橋本政権にノーといった外交的意味は、橋本政権の内政運営では、現在の「ワード・ポリティクス」が戦えないというところにあるのである。
 第三に、自信を持った態度である。クリントン大統領が訪中しているさなか、日本人と中国人の参加したある国際会議でのことである。日本人の専門家が米中関係のみが進展して、どうも日本は「ジャパン・バッシング」に遭っているようだと述べた。すると、このような懸念をたしなめるかのように、中国側の参加者が「国際関係は必ずしもゼロサムゲームではありません」と答えたという。もちろん、この中国人の参加者の発言が正しい。これは実際の外交の場ではないから、それほど大きな影響はないかもしれないが、自らが孤立しそうだという懸念を、あえて持ち出し、相手から、そうではありません、という「正しい」解答を引き出すというのは、「言力政治」においては、かえって「孤立させてください」といっているようなものである。正確な自己認識からして、自信がない時に自信がないというのは、おそらく正しいであろうが、不必要に「自信がない」態度を示すのは、「ワード・ポリティクス」においては、周りに付け込まれるだけであろう。
 しかし、第四に、「言力政治」も権力政治と同様に、単なる戦術にはとどまらない長期的な背景がなければ有効に行うことはできないであろう。マキャベリズムの背景に実質的な国力が必要であるのと同様、短期のシンボル操作の背景には、おそらくジョセフ・ナイなどのいう「ソフト・パワー」が必要なのであろう。その意味で、日本はとりわけ不利な立場にすでに立っているといわざるをえない。世界のメディアのみならず東アジアのメディアにしても英語が共通語である。知的なヘゲモニー構造がアメリカに有利になっていることはいうまでもない。アメリカに対してだけでない。たとえば東南アジアや韓国などと比べても、世界中どこへでもいって経済政策なら経済政策を説得的に語る人材が不足している。
新政権は何をなすべきか
 以上まとめていえば、新政権のかかえる日本外交の課題は、ますます社交場と化しつつある東アジアの国際政治において、「言力政治」を駆使しつつ、グローバリゼーションに適合した日本を作り上げていくのに有利な環境を整えるということになる。以下に、そのための具体策をいくつかならべることで本稿の結論としたい。
 第一は、国内経済体制の立て直しである。現在の日本の対外政策にとって、最大の重みとなっているのは、日本が世界そしてアジアを恐慌に引きずり込みかねない「諸悪の根源」であると見なされていることである。国内施策が真剣なものであり、効果があると思われない限り、「言力」(ワード・パワー)ほ全くついてこない。しかし、国内政策に専念していればいいかというとそうではない。
 第二に、首脳レベルから民間に至るまでの、さまざまなレベルにおける国際的プレゼンスの拡大である。参議院選挙敗退の結果、橋本首相はフランスとアメリカへの訪問をキャンセルし、小渕外相は中国訪問をキャンセルした。社交場において、欠席ばかり続けるのは、そもそも望ましくない。新政権は、態勢を整えたらただちに、このキャンセルを取り返すべくさまざまな外交日程を組みなおさなければならない。この場合、首相および大臣クラスの人物の交流が決定的である。代理はきかない。野党が、国会審議を理由に、首相やその他閣僚の必要な外遊を阻害するのは国益に反している。
 第三に、とりわけ日米首脳会談は早急に実現する必要がある。確固とした日米関係があって初めて、長期的に安定した日中関係を築いていくことができる。その際、成立直後の新政権にとって、何よりも心がけたいことは、「不必要な」発言を閣僚がしてはならない、ということである。「ワード・ポリティクス」においては、必要な発言はしなければならないが、「不必要な」発言は、国際関係における日本の立場を悪くすることに働く以外の効用はない。「歴史認識」について、および「周辺事態」についての閣僚の発言については、とりわけ注意を払わなければならない。
 第四に、ロシアとの関係改善は、橋本首相のイニシアティブで進んできたものであるが、これを新しい政権で元に戻してしまってはならない。すでに述べたように、現在東アジアに成立する社交場は、日米中の三ヵ国のみからなっているわけではない。二〇〇〇年までに平和条約が実現できれば最善であるが、かりにそこまでいかないにしても、日露関係が進展するということが、日本国内における不必要な「孤立感」をなくすことに貢献し、また自信を持って、中国との関係や朝鮮半島との関係を進めることに役立つからである。
 第五に、東アジアを超えた地平に向けての外交もまた積極的に進める必要がある。現在の「ワード・ポリティクス」において、自らの直接の利益にかかわることしかしない、という行動は、その国の「言力」を増大させない。遠く離れた地域の問題であっても、真剣に取り組むという姿勢が、その他の局面においても「言力」を増大させることにつながるのである。今年の秋に東京で予定されているアフリカ協力会議も重要だし、また印パの核実験以後の両国への説得工作も重視しなければならない。
 新政権にとって、最重要課題が国内の経済問題であることは間違いないが、グローバリゼーションの進む現在の東アジアで、対外政策も全開にして進めていかなければならない。さもないと、長期的な日本の国際的立場は決定的に悪化するであろう。
田中明彦(たなか あきひこ)
1954年生まれ。
東京大学教養学部卒業。米マサチューセッツ工科大学大学院修了。
東京大学助教授を経て、東京大学教授。東京大学東洋文化研究所所長。
 
 
 
 
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