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1997/02/21 産経新聞朝刊
【主張】「トウ小平の中国」は何を教えたか 苛烈な政治風土に透徹した認識を
 
 トウ小平氏が逝った。激動の二十世紀を同時代史として生きた彼の死は、隣人としても感慨深い。だが、それを超えて思うは、彼の曲折に満ちた生涯が、日本に残した教訓である。日中関係では「一衣帯水」「同文同種」の語が、ある種の情感をもって使われる。しかし、日中の異質性を身をもって教えたのが、トウ氏の一生であった。
◆日本を翻弄した梟雄
 トウ氏の生涯を彩ったのは、政治的失脚と復活のドラマであった。トウ氏は、最後まで党内公式序列第一位になることなく、超法規的権威をほしいままにした。“勝利者”として生涯を終えたが、そのために豹変、面従腹背、裏切り、敵の分断、部下の切り捨て、政敵打倒と、あらゆる策略を駆使した。中国の苛烈な政治風土を強烈に体現した一人だった。三国志時代の梟雄(きょうゆう)になぞらえて的外れではあるまい。
 そのトウ氏の君臨した時代の日中関係を振り返るにつけ、日本が近現代史の歴史認識、靖国神社参拝、尖閣諸島問題などで、中国によって揺さぶられ、翻弄される様は尋常ではなかった。
 「歴史の負債」や「対中位負け」心理を活用して外交面で日本を守勢に追い込みつつ、経済協力や借款を交渉していく中国の戦略と手腕は、到底、平和ニッポンの敵するところではなかった。これは単に民族性だけではなく、中国の指導者が国内の絶えざる闘争で鍛え抜かれている状況と無縁ではあるまい。トウ氏はこうした中国の権力構造の頂点にいた人物である。
 中国の対外戦略も変転を続けた。当初一辺倒政策をとったソ連とは、中ソ論争に入り、七〇年代には反ソ・反覇権統一戦線を画策した。ベトナム戦争中は「兄弟国」だったベトナムに、「教訓を与える」と称して戦争を仕掛けた。建国以来長く最大の敵であった米国とは対ソ戦略のため和解し、安全保障や近代化のために奉仕させた。そしていまは、トウ氏の大号令で進む経済の改革・開放の成果を「富国強兵」へ転化し、「中国脅威論」を否定しながら海洋進出を本格化させている。
 戦略の転換に当たり、中国共産党は常に臆面がなかった。そこを貫く原則は、「社会主義」でも「プロレタリア国際主義」でもなく、冷徹な国益優先であった。行動様式はまさに大国主義的だった。トウ氏はその中枢にいた。
 外部世界、とくに西側諸国はトウ氏に「中国の未来」を見いだそうとした。トウ氏が現実主義者に見えたから、経済繁栄のためには中国を「開かれた民主的な国家」に変えていくと期待をかけた。「黒猫だろうが白猫だろうが、ネズミを捕る猫が良い猫だ」という氏一流の名言がこの分析を補強した。毛沢東死後、中国が革命継続から建設へ国策の基本を移し、トウ氏が西側の資本・技術を取り込んだ近代化路線の総指揮を執るようになると、西側のトウ氏への片思いは病的になった。「中国はもはや社会主義ではない」といった評論が西側にあふれたものだ。
◆幻想脱し建設的関係を
 トウ氏自身はこうした幻想を折に触れて粉砕してきた。「北京の春」運動でトウ小平批判をした青年には、懲役十五年の重刑で報いた。胡耀邦氏(元党総書記)はトウ氏と浮沈を共にした股肱の臣だったが、ひとたび胡氏が学生の民主化要求に理解を示すや冷酷に処断した。晩年のトウ氏は、西側の妙な思い入れにとどめを刺すように天安門事件で流血の大弾圧を実行した。この時は胡氏の後任に据えた趙紫陽総書記を粛清している。そこにはかつて毛沢東神話を打ち砕きながら、自ら小毛沢東化していくトウ氏があった。過去の皇帝支配と共産党独裁が二重映しになるのも、中国の歴史的風土の業であろう。
 トウ氏は柔軟な指導者だった。が、鉄の意志を秘めた徹底した共産党員なればこそ、目的達成のためには、いかようにも柔軟になれたのではないか。「黒猫・白猫」論も共産党一党独裁を維持したままの「社会主義市場経済」も、この革命的機能主義の表れと言える。日本を含め西側にはトウ氏のこの凄さが見えず、仮の姿を実像と取り違えた人が少なくなかった。見えても見たがらない人も何と多かったことか。
 日中の建設的な関係の樹立のためには、幻想抜きの透徹した中国認識が求められる。トウ小平氏の一生は、中国共産党政権が内にも外にも、いかに厳しい権力であるかを教えた。とりわけ日本に対しては、日中関係を展開していく上で十分すぎる教訓を与えてきた。日本が「友好」を旨として付き合っていくこれからの中国の指導者も、紛れもない“トウ小平の弟子”たちである。日本が、トウ氏から学ぶべき教訓を学ばず、中国への思い入れにとらわれて事なかれ至上路線を踏襲するなら、その代償もまた自らが支払うしかない。
 トウ=登におおざと
 
 
 
 
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