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 こんな事があったあと吉川は伊敷島にきて三度目の夏を迎えた。お客さんの数も増え、連日タンク三本、多いときには四本も潜る日々が続いた。一年で一番忙しい季節だった。
 吉川は竜宮と名付けたあの珊瑚の群生をもう一度見に行きたいと思ったし、金城と夜の突き漁にも行きたいと思っていた。
 けれど吉川自身、覚悟していた事だがそんな暇はなく、トリトンの仕事が終わると疲れ切って夕食もそこそこに寝てしまうことも多かった。仁美とは毎日職場で顔を合わせてはいたが、夜のデートは途絶えがちだった。
 子供たちも夏休みになり、島に親子連れの観光客が目立ち始めた。
 島全体が活気づいている中、上原が突然死んだ。
 発見したのは吉川だった。
 その日は地元ではスルルと言われるキビナゴの大群が島に押し寄せて来た日だった。
「スルルだ、スルルだ」
と海人ばかりでなく、島の子供たちが海岸や防波堤に網を持って集まり、すくい取れるほど接近してきたのだった。
 二十年以上前には浜でもすくい取ろうと思えばすくい取れるくらいスルルが押し寄せることが年に二、三回はあったらしい。そうなると島中の人間が総出で水揚げに参加したらしいが、ここ四、五年はさっぱりだった。
 もちろん人間の食卓にも上がるが、沖縄では鰹漁の撒き餌としてよく利用されていた。まだ鰹漁のシーズンということもあって、海人もこぞって出漁し、島は一層の活気に包まれていた。
 その日トリトンは船頭中村、ガイド吉川という組み合わせで、大阪からやってきた五人のダイバーを連れて海に出ていた。
 午前一本、午後一本のダイビングを終え、帰港する途中だった。
 お客から「せっかくだからスルルの大群に囲まれて泳ぎたい」といういかにも観光客らしいリクエストが上がった。その為、操業している船に注意しながら船の針路を変えたとき、それまでは死角になっていた島影にたよりなげに漂っている一艘のサバニがあった。
 最初は漁をしているのだろうと気にもとめなかったのだが、どうも様子がおかしい。船上に人影が見えなかった。座っているか寝ているのだろうと思っていたが、遠目にも船がくるくると旋回して、舵がまったくきいていないようであった。アンカーリングしているわけでもない。
 不審に思って近づいて覗き込むと、上原が漁に使う網を膝に抱え、眠るような笑顔をたたえて横たわっていたのであった。
 
「おじいはとうとうおばあのところに行ったのね」
 港まで中村のトリトン号でサバニを曳航し、トリトンで留守番をしている仁美を呼びにやった。駆けつけてきた仁美は吉川が想像していたよりもずっと冷静であった。泣き崩れるのではないかと考えていた吉川は、内心ほっとする思いであった。
「スルルの大群がやってきて今朝から様子が変だったのさ」
 落ち着いた声色ではあったが、仁美の目には涙が浮かんでいるようだった。
「朝ご飯の途中だった。スルルが来たと知ると取るものもどりあえず家を出て、港に駆けつけようとしたのさ。嬉しそうな顔して。早く行かないと逃げちまうって」
 仁美の声が震えてきたようだった。
「びっくりしたさ。おじい、おじいは年だから行かなくてよくなったのさ。というと急に我に返ったようになって、ああそうかとまた大人しく朝ご飯を食べ始めたのさ。食べた後は海岸をうろついていたようだけれど、トリトンに仕事に出てしまったから。まさかこんな事になるなんて」
 仁美の話からするとどうやら上原はぼけて、スルルの出現により昔の記憶が蘇り、海に出たところで、心臓麻痺を起こして死んだということになるのだろう。
 上原が乗っていたサバニは島の別の海人のものだった。
 吉川は上原が死んで初めてどれだけ勇壮な海人であったかを知った。
「一メートルのフエフキだって一突きで絶命させることができるすごい海人だったらしいさね」
 死んだ親父から聞いたことがある。といって金城は話してくれた。
 金城もずいぶんと感銘を受けたようで、「自分もああやって死にたいものだ」とつぶやいていた。
 吉川も海に係わるものとして同じような気持ちにとらわれたのだった。
 パソコンの講習会の帰りに、上原と会ったのはつい最近のことだった。もっと話をしておけばよかった。吉川は仁美と付き合いながらも上原とはほとんど交流がなった事を少しばかり後悔したのであった。
 きっと昔の海人生活のおもしろい話が聞けたに違いなかった。
 
 仁美から「話がある」と言われたのは葬式の前日の事であった。
 親族の少ない上原の家だったが、それでも上原の姪や甥といった人たちが、本島から訪れていて仁美の家は死人を抱えながらにぎやかそうであった。仁美はそんな客人の世話や葬式の準備をすることで、上原が突然死んだのをまぎらわしているようであった。落ち着いた様子に見えた。
「おじいのことなんだけれど」
「葬式のことか。沖縄の葬式はこれが初めてだからよくわからないけれど、できるだけのことはするよ」
 この島には火葬にする設備がない。土葬である。墓からは海がよく見えるから、おじいも気分がいいだろう。吉川は波と風の音を聞きながら徐々に朽ちていくおじいを想像すると、なぜか安らかな気分になった。
「いろいろ準備大変だろう」
「葬式は大丈夫さ。来るのは伊敷島の人がほとんどだから。問題は埋葬のことなの」
 墓に安置するのを手伝えってことなのだろうか。
「いいえ、おじいはお墓には入らないのよ」
「お墓に入らない」
 ではどこに入るのだろうか。
 中央アジアあたりのどこかの国には、鳥に死体を食べさせる鳥葬というのがあったはずだが、そんな風習は沖縄にはないはずだぞ。
 話があると呼び出しておきながら、躊躇している仁美を前に吉川は首をひねった。
「人に話せない話なのか」
 あまりの仁美のためらいぶりに、それほど敏感でない吉川も不審なものを覚えた。
「もう死んでしまった人の話じゃないか」
 吉川が促すとようやく仁美も決心したようであった。
「おじいはね、海に帰るのよ。この伊敷島の海に。水葬にするのよ」
 なるほど、さすがおじいだ。吉川は思った。
 海人として生きたおじいは、島の土に還るよりも海に還るのを選んだというわけか。
「わかった。水葬を手伝えばいいのか」
 仁美がためらうほどの話じゃない。そんなことならお安いご用だ。
「おじいはね。昔、罪を犯したの。人を殺したのよ。でもこの島の事情で警察にもつかまらず、いままで生きてきた。でもあの上原家のお墓には人殺しは入れない」
 仁美の話には驚くような続きがあった。
「終戦直後の混乱期のことよ。何とか生き残ってパラオから復員してくると、祖母には別の男性がいたの。戦争中から島に駐在していた軍人だったらしいさ。祖父も若かったから、やっとの思いで帰ってみたら、別の男と忍んでいる母を見て逆上したのさ。母と軍人を殺してしまったの。本当だったら警察に突き出されて死刑になるはずの人だった。でも若い男性はみんな戦争に取られて、帰って来た人は少なかった。祖父は島に帰ってきた貴重な働き手だったの。そんな島の事情と祖父への同情もあって、見て見ぬふりをされたのよ」
 吉川は言葉がなかった。
「まだ小さかった父を抱えた祖父は、島の人の温情によってこの島で海人として生き抜くことができた。でもさすがにお墓には入れない。島の土には還れないのよ」
 そこまで話すと初めて仁美は泣いた。
 吉川は自分の生まれるはるか以前、この島を襲った戦後の混乱期というものを想像してみた。
 透みきった海に囲まれて、明るくのどかで何もない、漁業だけで暮らしているようなこの小さな島にも戦後の混乱期なんてあったのだろうか。
「このK諸島はね、太平洋戦争で米軍が沖縄侵攻のときに最初に上陸した土地よ」
吉川のとまどいを見てとった仁美が付け加えるように言った。
 そう言われてみるとそうだった。どこかで聞いたことがある。海の美しさにばかり気をとられて忘れていた。
 米軍の上陸に伴って住民の一部は集団自決を決行した島なのだ。
 ダイビングのメッカとして亜熱帯の南国の美しい島というイメージしかないこの島にも、そんな暗い歴史があったのだった。
 一瞬だが照りつける太陽の陰に隠された、島の闇の部分を覗き見たような気がして、吉川はめまいを覚えた。
「誰もなんにも言わないけれど、島の老人たちはみんな知っている話よ。もうあれから五十年以上たっているから、代替わりして、いま島の中心になっている人にどれだけ伝わっているかわからないけれど、祖母は行方不明ということになってたし、私も三年前に父がおじいを残して先に死ぬときに聞いた話で、それまで知らなかったさ」
 吉川はため息をつくだけだった。
 長い沈黙のあと仁美がおずおずと口を開いた。
「明日の葬式のあとサバニを出して欲しいのさ、早くおじいを海に戻してやらないと」
 吉川はもちろん手伝うつもりで聞いた。
「どこに葬る」
「あなたも知っているところさ」
そう言うと仁美はようやく涙が乾いた顔に、謎めいた笑みを浮かべた。
 しばらく考え込んでいた吉川はようやく思い当たると、口を開いた。
「竜宮か」
 吉川は目が覚めるようだった。あの珊瑚の群生地は墓だったのか。
「そんな名前をつけているの。あそこは島では鬼火の淵って言われていてこんな事でもないと近づかない。だからきっと珊瑚も無傷で残っているのね。はるか昔から、流人や犯罪者、表だって葬式を上げられない人間を水葬にするのがあの場所なのよ。陸を伝ってはいけないから。今はもちろんそんなことはないけれど、たぶん殺された祖母も軍人もこっそりと祖父があそこに運んだと思う」
 吉川は仁美の話でようやく合点がいく思いだった。そんなわけありの場所ならば、確かに遊びで潜るダイバーなど近づけたくなかったはずだ。事情だって話せる訳がない。
 
 翌日、吉川と仁美はささやかな葬式が終わると、人目につかぬよう真っ白な布に包んで、トリトンで使っているトラックに乗せると港に運び、サバニに乗せた。
 サバニは金城から借りた。吉川が頼むとだいたいの事情は察しているのか、「これで吉川さんも島の人間だな」とつぶやいた以外は何も聞かずに貸してくれた。
 その日も海はベタ凪だった。
 鏡のような水面を切って、サバニはやすやすと鬼火の淵の中に入っていった。
 吉川と仁美は水面から見て格段に大きくて立派な珊瑚が生えている場所に、上原を降ろそうと決めた。重しをつけた上原の体から手を離すとき、話しかけるようにこっそりと吉川はつぶやいた。
「おじい、仁美と結婚するよ」
この島で生きていこうと吉川は決めた。十年、二十年のうちには東京へ帰りたいと思うこともあるかもしれないが、まずはこのちっぽけな伊敷島で頑張ることにしたのだった。
 上原の体はあっという間に沈んで、六、七メートル下の重なりあった珊瑚の間に落ち着いたようだった。
 しばらくたたずんでいると、海面下には上原の体を吟味しようと早くも魚たちが集まって来た。熱帯魚たちの華やかな葬送が始まったようだ。吉川はその光景を心に刻み込むと、放心しているような仁美を促し、帰港に向けて、サバニを反転させた。







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