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 船首で波を切り裂くのは寧ろ壮観だ。だが、船首が“ガクン”と窪みに落ち込む恐怖は譬え(たとえ)ようもない。そのまま海底に突っ込んでゆく妄想に捕らわれ戦慄が走って気が動顛する。今が今手を取り合って、生き抜く決意を固めたばかりなのにこれでは元の木阿弥(もくあみ)だ。朝日も同じ心境だ。
 大波が二つに割れて甲板を川になって走って来た。また大波を被る。観念しなければならない時がきたようだ。空を見る。空は無い。牙を剥いた(むいた)怒涛にまた突っ込んで行く。目を閉じる。仰向いた体が落ちて行く。水平に戻る。目を開けようとするが海水の豪雨に開けられない。兄弟は大事な食糧を挟んで抱き合ったままだ。続いて体が宙に浮く。仰臥(ぎょうが)した格好だ。上りつめた所で水平になる。目を開けるとずぶ濡れの二人はウインチの下がる速度でまた落ちて行く。横殴りの飛沫が容赦なく噴き付ける。一頻り(ひとしきり)叩かれたあと激浪で海が割れた。海底の岩盤が、チラッ、と見えた気がした。インデアンレッドの赤茶けた色だった。
 逆巻く波濤の色はオーレオリンと真っ白と暗黒だ。暴風の号泣は耳を劈き(つんざき)、轟音は天地を揺るがせ猛り狂う激浪に最早や沈没は免れようもないと死を覚悟する。すると不思議に心が空白になってしまう。何もかも、欠片(かけら)も浮かばない。妙なものだ。情緒の一切が喪失したのだから苦は失せ楽になる。つまり悉皆(しっかい)成仏したのだろう。
 ただ、相互い兄弟だけの存在が意識の中に活きている。死の観念が定まると脳はさかんに死に際を詮索している。またまた、横揺れが激しくなった。
 メインマストが軋んで傾いてゆく。
 逞しい(たくましい)宗谷丸のマストが波頭の糸を引いて走るのだから狂気の沙汰だ。こんどこそ横転するぞと身を固め転覆の姿勢をとる。怖いものは何も無い。照日は泳げない兄を見るのだけが酷く辛い。朝日は弟だけは生きてくれと願う。目前の海が窪んで船は呑まれてゆく。
 兄弟も共に傾いていく『もう駄目だ』今度こそ本当に海底に呑まれる。男子らしく死ぬことができるようにと兄弟は必死に頭で死に際の(もがき)を減らす方法を巡らせる。
 だが、残酷なことに宗谷丸は横転しなかった。助かったことの方がよほど辛い。宗谷丸の復元力が勝ったのだ。気が薄らぐ中で次の断末魔を待つ。
 朝日が照日をじっと見ている。生きていることが信じられない顔だ。見つめ合っていると兄弟は互いに思い遣る心が強く伝わる。朝日はいい兄だったと照日は誇りに思ってきた。
 照日は自慢の弟だと朝日は常に思っていた。
 どんな死に方になろうとも構わないが離れずに一緒に死にたい。だけど、宗谷丸はまだ沈んではいないのだ。
 こんどは照日の案で、二人はバンドを引き抜いて、麻紐も結び併せて長くした。
「しっかり結べたか?」
 兄弟は三尺の余裕をもたせて体を括った(くくった)。
「三分ぐらいは苦しいぞ、だけど一緒だ! 堪えよう」
 その瞬間。二人は甲板もろとも半メートルは跳ね飛ばされた。風濤が木箱まで叩きつけたのだ。木箱の波はひいて船体もグラッと揺れて水平に戻った。
「こんなバカな!」
 二人は呻いた。恐怖ではない。生殺しを憎んでいるのだ。こんどこそ駄目かと観念したのに生きている。船底をたたく波の音。船舷の軋む音。船腹に亀裂が生じたかも知れない。
「大変な船に乗っちまったなあ、きっと沈む」
「本当に祈ろう神様に」
 慄然とさせた地獄の音は止んだ。奇跡だ。
 復元した宗谷丸は航行を始めていた。
「いまのは竜巻と風濤の合体かも知れんな」
「船長も肝を潰しただろうね、きっと」
 船体は気のせいか左に傾いている。
「船倉の荷が片寄ったんだ。しかし恐ろしい」
 朝日は、もう沢山だと初めて弱音を吐いた。
 甲板だから激揺れや方向転換の都度、船体が軋んで捩れる(よじれる)のがはっきり見える。細長い甲板の舳先の尖ったデッキの黄色が僅かに見える。転換が終わると真っ直ぐに捩れは戻る。
 宗谷丸が直進していると甲板の捩れはない。
 なんと海の底知れぬ力の偉大さよ、と怖さも忘れて言葉もでない。人間の力なんて大海に落としたコップ一杯の泡のようなものだ。
 宗谷丸はジグザグ航行を始めたようだ。妙な遅速を始めた。縦揺れにしては変だ。突き飛ばされたり、糞詰まりのような状態を繰り返している。
「スクリューが空転してるのかも知れないな」
 朝日は沈まなかった喜びを噛みしめている。
「横波も地獄だけど、海底に突き刺さる方がもっと怖い」
 照日も、声がでるようになった。死ぬ程の恐怖が神経を麻痺させたのかも知れなかった。
 所が台風は執拗だった。つい今し方のも糠喜びだった。船首に衝撃した大波が炸裂して豪雨を降らせ甲板を激流が走ってきた。
 そうだ! 宗谷丸は、龍飛潮流から本州側反流にのるべく決死の転針回頭をしているのかも知れない。『なんて無茶なことを!』
「船長は何してんだ!」
 朝日は飛沫で濡れ駆けてゆく船員に叫んだ。
「任すんだ! 船長に! 船長に任せろ!」
 そう言う船員こそ転覆を恐れているようだ。
 がなる声が嗄れて(かれて)いる。
 甲板で頑張り通した兄弟の方が度胸がついていた。
 走り去った頭巾から覗く歯がガチガチ鳴ってるに違いない。体も震えて船縁を伝う手が危なっかしい。離れそうだ。風のせいではない。見ていられない。恐怖に震えているようだ。
 最期の足掻きのように横揺れ、縦揺れが熾烈を極めた。正三角形より鋭角の転針回頭だから難航の極限状態だ。今度は横転だと思うと間一髪の所で立ち直り、また揺られて突き進む。恐ろしさで気が狂いそうだ。
[アイワゾフスキー第九の怒涛]所ではない。
 こちらは筏(いかだ)とは違う。百メートルを超える宗谷丸が二つに跨がった大波の上に持ち上げられている――と思う間もなく谷底に落ちる。
 その衝撃と揺れは際限もなく続いた。遂に海水が船室に流れ始めたようだ。
 ドアが開き、たまらず手摺にすがって上がってくる人たちが現れた。
 所が雲に届いた十五メートルはあるだろうと思える大波が、コブラの鎌首を頭巾に広げた恐ろしさで、天から崩れ落ちてくる。子供が流れる。必死で追う父親、母親、老人を船員が走り寄り紐になる物で其処らに縛り付ける。船はいま大井戸の深い陥穽(かんせい)にはまり込み、ぐるりを暴れ立つ波に囲まれ、高波と渦しか見えぬ中を木片のように弄ばれて(あそばれて)いる諦めの感だ。救命艇を降ろそうと船員たちがロープを解こうとするが手の付けようもない。怒涛が船員たちを打ちのめす。彼らは身の危険も顧みず作業を続ける。
 それは朝日、照日のすぐ前で行われていた。
 頭上の救命艇を降ろそうとしているのだ。
「危険だ! そんなものに誰が乗るんですか!」
 朝日が叫んだ。
 彼らはカッパもその場に捨てて走り去った。
 そんな中で機関全開の宗谷丸は縦波、横波に一定リズムをつけて進み始めた。
 宗谷丸は明らかにジグザグ操舵のリズムを掴んだのだ。反流に乗った宗谷丸は進んで行く。
 その証拠には目に映る筈のない津軽半島が時には右に見え、左に見え、或いは正面に向いたのか隠れてしまう。
 陸の孤島と呼ばれる実に寂しい松林の海浜が間近に迫り、侘しげに黄色い窓灯りがポツンと見えた。何処にも隣接の家はない。
 しぶきの中に水墨画のように雲散霧消する飛沫と波と同色の浜の松林。一軒そして、また一軒と如何にも侘びしい。
 あの窓は固く閉ざされているだろうが、この間近を航行する宗谷丸を見たならどんなに凄まじいものであるかを大声を上げて問うてみたい。――だが、ひっそりと過ぎ、遠ざかる灯りは生涯もう見ることは無いだろう。
 ふと気付くと宗谷丸の周囲はイルカだ。
 数え切れない大群が波頭から波頭へ半身が躍り出て鋭い銛(もり)のように突進し、宗谷丸を守るかのように、揶揄しているかのように伴泳しているのだ。
「ぼくは鱶かと思った」
 照日が恐ろしげに言った。
「イルカだよ」
 そんな話が交わせるほどに落ち着いてきた。
 台風の峠は越したようだ。
 其処に船員の触れで分かった。
「もう大丈夫ですよ」
 ずぶ濡れの船員の声が弾んでいる。難航八時間。順調なら四時間程で御の字なのだろう。
「死ぬほど貴重な体験だった。船長さんは恩人です」
 船員は去って行った。
 余波はまだ騒いでいたが、宗谷丸は水深、ギリギリを海浜に沿って三厩から平舘、蟹田へと辿って行く。
「ぼくたちは助かったんだね」
 照日が朝日の掌に拳を重ねて言った。
「それより死ななかったと言う方が当りか」
 朝日は弟の手を握りかえした。
「鱶だったら、ぼくが先に食われる気だった、本当だよ・・・」
 照日はちょっと涙を見せた。
 前方を見ると、戦争生き残りの第七青函丸だろうか、角張ったブリッジ一杯に明々と照明を灯しサーチライトを泳がせながらこちらにやって来る。
 汽笛がボーッと優しく鳴った。
 波は台風の余韻で揺れてはいたが、次第に近づく青函丸と陸地に挟まれた宗谷丸は左に傾いた侭やがて青森港に着岸したのだった。
 宗谷丸は、僅かだが、左に傾いていた。
 仮眠して夜が明けたら、新聞を売っていた。
 不通だった北陸本線が開通した記事が載っていた。やはり東北地方いちえんは可成り激しい台風に襲われたようだった。
 濡れそぼったリュックサックを背負って、身欠鰊、馬鈴薯、烏賊の塩辛、などが詰まった麻袋を抱えた朝日と照日は、やがて、乗り継ぎなしで帰ることができる大阪行の汽車に乗ることができた。







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