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「突堤間隔、三百六十、中点を航過せよ!」
「了解!」
 赤灯台は西側防波堤の突端に立つ。
 反流は西向きだが、時化時の風力は逆風の吹起(すいき)にも注意が肝心だ。
 赤灯台をうまくかわした宗谷丸は愈々、怒涛逆巻く海原に出た。
 函館港は、飛沫に遮られて既に見えない。
 左方の函館山も、その存在さえ判らない。
 右手に目を走らせる。むろん、渡島(おしま)連山の山並みも掻き消えて、飛沫だけが狂ったように舞い散っている。
「これは尋常でない、視界はゼロ!」
 冷静な船長だが緊張で体が硬直した。
 ずぶ濡れの一等運転士が転げ込んで来た。
「台風の奴、温低に緩む所じゃない。四十メートルは優に越す超大型じゃないか、横波を避けねば危険だ!」
 予想を遥かに上回った大波が、不規則な間隔で宗谷丸の行くてを阻んだ(はばんだ)。と、とり分けでかい山のような大波が左船腹を襲った。
「面舵イッパーイ!」
 左舷が宙に浮いて船は三十度は確実に傾いだ(かしいだ)。
 宗谷丸は逸早く風下に折る船首回頭を行った。船は、横転寸前の弧を描いて傾斜を立て直し、早くも航路をはずし、風浪を後方から受ける航行に転じた。
 船底を転がるバランスを崩した荷の余韻が床に伝わった。
 後方からの波濤は強烈で、宗谷丸はうねりの山に押されて加速した。
「取り舵、十度!」
 指令が飛ぶ。息を弾ませ(はずませ)操舵手は復唱する。
 推測航行で、陸岸から数キロの距離に出た。
 反流のほぼ中央だ。外海から伝播してくるうねりも相乗して、西向きの波は三角形で高い。機関調整と舵効を、臨機応変に生かして、針路を保持、掌握。進めて行かねばならない。
 船長は、顔面に汗を光らせている。
 船は揉み(もみ)立て、しだかれ乍らも、首尾よくうねりに乗った。
「宗谷丸は大したものだ」
 船長は、ほっとした。
「全くの不意打ちだった。驚きましたな」
 一等運転士は呼吸を整えた。
「もっと褌を締めて掛からねば」
「わたしは堅すぎるほど締めている」
 船長は常から晒し木綿を下腹に巻いていた。
「無駄口は止そう」
 宗谷丸は激浪と船速の競航を展開していた。
 風浪は容赦なく、船に覆っ被さっては四散する。
「これは並の台風じゃないぞ、東西外海からのうねりがぶつかっている」
「うねりが酷い(ひどい)のはその為ですな」
「そうだ。三角波の波高が象徴している」
 宗谷丸はうねりの波長に乗って進んでいる。
 暗雲の裂け目もない。荒れ狂う風浪と飛沫の暗渠(あんきょ)に突入した観だ。
 宗谷丸には船尾開口部はない。貨客本船はその点、強みを発揮する。反流の激流、風圧をふんだんに利用できると言うものだ。
「縦波にはちょっと強いぞ!」
 機関調整を図り(はかり)つつ臨機応変に舵効を生かし、潮境との距離を保持、知内まで環流を圧服、波浪にのる。可能な限り渡島に接近、一直線の航行で良いだろう。船長の決断は早い。
 一等運転士とは阿吽の呼吸で一致する。
「だが、矢越岬より進んでは危険だ!」
 船長は航法を決めたようだ。
「白神までだと渡航が容易になるのでは?」
 一等運転士が口を挟んだ。
「それも一計だが、開口部に近づく程うねりの収斂(しゅうれん)が激しいぞ、矢越が限界だと思うが」
 船長は曖昧な妥協はしない。
「矢越岬を目標にする。状況を見て、一気に三厩(みんまや)目指すのが最善だろう。危険な三角航法が必然だが、難航を覚悟で出たからには前進するだけだ。帰港は海難事故を招くだけだ」
 司厨(しちゅう)長(現=船客長)が報告に来た。
「船客全員は苦情を訴えています」
「それで怪我人でもでたか?」
「出港早々、型破りのローリングに続いてのピッチングでしたから、これには船客全員が床を転げ回って悲鳴をあげていました」
「無理もないが心配するなと言っておけ!船客の平静がなにより大切だ!」
「しかし、これ程、好き放題に暴れられたんじゃ何とも、はや!」
 一等運転士は拳を固めた。
 船長はまた神に祈った。真摯に。戦争終結の際、耳にしたあの玉音を蘇らせた。
 ―朕の一身は如何にあろうとも―
 船長は、あのお言葉こそ船乗りには最上の教訓として常に心に留めているのだ。
 風浪が一段と激しくなった。
 牙を剥き猛り狂う激浪を真面(まとも)に船首で切り裂きながら宗谷丸は突進して行く。このまま海底に突っ込んで行きそうだ。また巨浪があらぬ方から襲った。
「危ないかも知れん」
 船長の脳裏を海難の危惧がよぎった。だが健気にも宗谷丸は“グイ”“グイッ”と船首を擡げて(もたげて)波を突っ切る。と、又々、大波を引っ被った船体は、つんのめるように船首を窪んだ海面に叩きつけ、海底目掛けて突進する。
 船室の荷物はもちろん、船客は嘔吐に苦しみ、吐瀉(としゃ)の受け皿も足りないだろう。船底の機関備品は転げ回り、操機手、火手も必死の奮闘だろう。灼熱地獄でなければいいが。
 飛沫は、船橋前面のガラスを叩き、白泡で覆い尽くしてしまう。白泡の外は、何も見えない。海底のケービングさながらだ。
 轟音は船体を叩き毀そう(こわそう)とする悪魔の脅しだ! 熾烈な暴風はマストをへし折ろうとする妖怪の叫びだ!そんな強風の連呼と激浪の中、難航既に二時間余を経過―狂乱怒涛の真っ只中を宗谷丸は、めげず、臆せず、たじろがず、ひたすら大波に立ち向かって行く。
 だが、宗谷丸とて不沈艨艟艦(ふちんもうどうかん)ではない。
 船長は切歯扼腕(せっしやくわん)して言い放った。
「操船に格差は要らん! 度胸と団結が一番だ! 諸君は全員船頭だ! 俺も船頭だ! 解ったか!」
 船長の声が船橋に響いた。
「了解!」
 全員の返す言葉が弾けた(はじけた)。
「宗谷丸には不屈の闘魂がある! 我々も一心同体で一蓮托生を貫きたい。火急に敬語は不要だ。俺にも敬語はいらん。いいだろう!」
 嵐の中の悟りの言葉に全員は、
「うおー!」
 と返した。船長はガラスの白泡を睨め(ねめ)つけた。
「俺の信念で必ず打ち勝って見せるぞ!」
 同胞(はらから)は戦(いくさ)で散った。俺の出番だ。船客を死守する! 激浪がまた襲った。雲が乱れ始めた。
 潮境が近くなったようだ。
 うねりが著しく狂暴化し、雲を掻き落す荒々しさで跳躍を繰り返し分裂してゆく。強風が吹き荒び(すさび)、暗澹の果てに、微かなオレンジを鏤彩(ろうさい)した雲が現れ、空に妙なる(たえなる)輪郭を齎し(もたらし)た。
 襲い掛かる激浪はハイドレンジャブルーに白の透明色を散らした飛び散る飛沫の色だ。
「これより先へは進めない。寸時の踟(ちちゅう)だ」
 船長の選択に宗谷丸は船速を緩め、うねりのでかい波長の合間を狙って機会を窺った。
 愈々、本命の三大潮流の渡航だ。
 際限が無い怒涛が、炸裂にも似た飛沫を噴き上げ次々と走り過ぎて行く。風浪を船首右斜め前方をかすめる位置に微動し乍ら宗谷丸は踟を続けた。矢越岬から程遠くない筈だ。飛沫が遮って見えないが、騒ぐ波状で推断できる。陸岸は近い。
「みんな聞け! 中央潮流に向かう。万一に備えて救命艇の準備をせよ。救命胴衣は待て、騒ぎになるだけだ。俺が指示するまで待て」
 船長は己の決断に後顧の憂いはないと檄を飛ばした。
「龍飛潮流までが山だ。あとは本州側の反流に乗ればこっちのものだ」
 船長は続けた。
「何はともあれ俺の気象観測が甘かった。許せ! 然し、こうなったからには死力を尽くすだけだ! 船客の大方は買出し客だ。金持ちもいるだろう、貧困者も、老人も、様々だ。だが船客に区別はない。敗戦で死にたい人もいるはずだ。宗谷丸の使命はそれら全船客に安全を約し、勇気と希望を抱いて貰うことだ。だが、この嵐じゃ逆の結果になり兼ねない。みんなは船客を守るため全力を挙げて貰いたい」
 すかさず司厨長は質問を投げた。
「なぜ救命胴衣を着用させないんですか?」
「貨物を輸送する事も任務だ。だがこの時節、命より荷物を大事にする連中もいるだろう」
「最悪の事態を避けるためですね」
「そうだ、救命胴衣は員数しかないんだ」
 一気に決意を述べた船長は波長を見る。騒ぎ立つ波は険しいが転覆の気遣いはない。
 嵐に翻弄されながら船長は続けた。
「敗戦の煽り(あおり)で自殺したい人には格好の嵐だ。ドア、海水流入口は完全に閉じておけ、スリや万引きも動くだろう。しかし、連絡船の任務は基本的に人間性の尊重だ!」
「それで、どうせよと?」
 船客室元締めの司厨長が大声で問うた。
「最後まで聞け! 各、運転士たちもだ!」
 宗谷丸はその間も激浪と死闘を続けている。
「本船は縦波には絶対強い、だから危険を避けて、極力縦波に共鳴妥協の航法をとる」
 船長は続けた。
「いまは遵法精神より人道主義を重視せねばならん。諸君は職制を問わず全員召集して船客の安全に最善を尽くしてもらいたい。操船は俺がやる。任せろ! 機関全開で一気に本州を目指す。決死の渡航だが必ず宗谷丸に軍配を挙げて見せる。中央潮流は二十キロは覚悟せねばならん。万一の場合、救命艇は役に立つ。早急に降艇準備はしておけ!」
 波長の長いうねりが連続して通過して行く。
 宗谷丸は機関全開に踏み切った。『巨浪を船首に諸に受け一気に左転回頭を決行、真っ只中に突入、風浪と共に東南に進み、合間をぬっては陸奥湾に近づいて行く』船長の勇断だった。
 宗谷丸はタービン、フル回転、激浪に突っ込んだ。潜水艇の仕業だと、船長は昂奮と発奮で身をふるわせた。舳先(へさき)は一瞬、跳ね飛ばされたがそれより早く、波を蹴散らし巨浪に潜り込んだ。転覆しなかったのが奇跡だった。
 船は激浪と共に疾走して行く。胸臆(きょうおく)を行う船長の思惑通り、宗谷丸は津軽海峡航行始まって以来二番目と記録された、枕崎台風の余波を諸に受け壮絶な苦闘難航を続けて行く。
 緊急召集された船員は簡潔な訓辞を聴くや、各所に散って行った。
 船長の脳裏に食って掛かっていた荒くれ男の罵声が蘇った。遣られていたのは国鉄職員だった。
 出港の遅れに苛立った男は喚いて(わめいて)いた。
「こんな、でっかい船やろが、転覆なんかする訳があるかい! 出したれ! 出したれ!」
 買出しの荒くれ、ブローカー連中が捲し(まくし)立てていた。
「しかし、この時化で出港した例(ためし)がありません。欠航か待機かのどちらかです」
「そうか、そんなら船出すのん一体誰が決めるんじゃ! 言うてみい!」
「船長です」
 国鉄職員は答えた。
「そうか、分かった。そんなら、そいつに会おうやないか」
 函館駅長も罵声を浴びていた。船長は悠然と出て行った。そして荒くれたちを黙らせた。
「ようし、死んだ気になって俺は闘う!」
 船長は大声を上げた。
「宗谷丸は沈みやせん! 神の加護がある!」
 操舵手は玉の汗を滴らせ(したたらせ)絶叫した。
「宜う候!、宜う候!」
 船橋の空気も勇気凛々。海濤に潜む大悪党に鉄槌でも叩きつけて決着をつけたかった。







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