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北前船の時代、瀬戸内の航路と交易
広島大学総合科学部教授 佐竹 昭
 
 北前船の名は、いつの頃からか人々に親しまれ昔の帆船の代名詞といってもよいほど有名になった。もっとも、その概念について研究者の間に議論があり、それによって海運史のなかでの評価も変わってくるようである。
 北前とは、もともと瀬戸内の人々が日本海側をさして用いた言葉のようで、特に加賀や越前など北陸地方の船という印象が強かった。北前船は、夏に蝦夷地(北海道)の産物を積んで秋に瀬戸内に入り、船頭の裁量で積荷の米・鯡〆粕(にしんしめかす)・羽鯡(はにしん)・昆布などを各地で売却、大坂で一冬越したのち、翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地で塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を買い入れて北国に向かう。場合によっては晩秋の内に北国へ戻る船もあった。
 遠く北海道の産物を積んで群れをなすように来航し、それを買い入れようと各地の港が一気に賑わう姿は、季節の風物詩でもあり、それが帆船時代最後の賑わいであったことから、特に瀬戸内の人々の記憶に残ることになったのかもしれない。
 ここでは、北前船がやってくるまでの江戸時代の海運について、中部瀬戸内地域の航路と交易を中心におおよその姿を紹介してみたい。
中世の主要航路 中部瀬戸内を東西に結ぶ航路は、中世以前までは陸地沿いの地乗りが主流であった。室町時代の足利義満厳島参詣の事例(一三八九年)では、都を出て兵庫(摂津)、牛窓(備前)と進み、いったん讃岐に渡って宇多津に休み、北上して佐柳島(さなぎ)を経、北に糸崎(安芸)、南に大三島(伊予)を眺めつつ、高崎(安芸)に入港、沿岸沿いに音戸の瀬戸を通過して広島湾に入り厳島に至る。続いて屋代島(周防大島)の北、大畠の瀬戸を抜け、上関、室積を経て三田尻に至り、筑紫を目指すが悪天候で引き返すことになる。復路には上関から屋代島の南を通り、蒲刈島、高崎を経て今度は尾道に立ち寄り、阿伏兎(あぶと)から鞆の沖をやはり讃岐に向かっている。往復とも苦労して讃岐に渡っているのは当時讃岐にいた先の管領細川頼之の肝いりがあったからで、通常であれば鞆に立ち寄り山陽沿岸をたどったものと思われる。
 それから三〇年ほどのち、朝鮮王朝の使節宋希が瀬戸内を都に向かった航路は、ちょうど義満の復路に重なり、室積、上関から周防大島の南を通り、倉橋島沖を蒲刈島へ、高崎、尾道、鞆、日比(史料上では鞆より日比を先にするが誤りか)を経て室津に至った。尾道に寄港することを除けば、実はこの航路こそ、江戸時代に公定の航路とされ、公用交通を支える加子(かこ)浦の設定が行われたところであり、朝鮮通信使の大船団が通過した航路にほかならない。
 近世の主要航路 改めて付図をご参照いただきたい。江戸時代の航路は、東から牛窓(岡山藩)・鞆(福山藩)・蒲刈島三ノ瀬(広島藩)・上関(萩藩)の海駅を経由して往来するのが公定の航路で「芸州灘の地乗り」(「改正日本船路細見記」)と呼ばれた。陸地沿いに進む「地乗り」といいながらも、用がなければ音戸瀬戸―広島湾―大畠瀬戸の航路、あるいは尾道水道に入ることもなくなった。図中北側の航路である。
 これに対して、図中南側の航路が江戸時代になって用いられ始めた沖乗り航路で、鞆から弓削瀬戸、岩城、鼻栗の瀬戸、御手洗、津和地、上関へと往来するものである。「伊予路沖乗り」(「同上」)と呼ばれ、帆走能力が高まった結果、沖合を一気に駆け抜けることになった。
 もっともその場合も、現在のしまなみ海道の地域が難関である。しまなみ海道の架橋は、瀬戸大橋とは違って島々の間を結ぶかたちで実現されている。つまりそれだけ多くの島々がひしめきあっているわけで、船からみれば潮流の激しい複雑な地形の瀬戸を通り抜けなければならない。潮流の存在そのものは船を運んでくれる動力ともなるものであるが、伊予側の来島(くるしま)海峡(今治と大島の間)、船折(ふなおれ)の瀬戸(大島と伯方島の間)、鼻栗(はなぐり)の瀬戸(伯方島と大三島の間)はいずれも激しい潮流の渦巻く場所である。そのなかでやや緩やかでかつ東西を結ぶ最短距離の鼻栗の瀬戸が選ばれたのである。なおこれをも避ける場合は、鞆から「地乗り」航路をとり、忠海(ただのうみ)沖で御手洗(みたらい)へ南下して「沖乗り」航路に入る折衷コースをとった。
 
地乗り・沖乗りの航路と港町
 
 地乗りと沖乗り ところで、中世までの船は帆走もするがどちらかといえば人力による櫓漕ぎが主力であった。潮流は潮の干満に伴って起こり、海峡のように狭まっているところ(瀬戸)では激しい流れにもなる。瀬戸内海では通常一日に二回の干満があり、ほぼ六時間ごとに潮流が逆転する。逆潮を避けるための潮待ちの停泊や、逆に潮に乗る必要もある。そのため、まずは陸地沿いや島々の間を通り、かつ比較的潮流の緩やかな山陽沿岸沿いが東西を結ぶ幹線航路に選ばれたのであろう。四国側でも地乗りは行われ、南九州や南予から北上する場合など部分的に古くから沖乗り航路も用いられたが、東西を結ぶ幹線航路には採用されなかったということである。
 こうしてみると、風雨を避けたり休息したりするためだけでなく、潮待ちのためにも一定の距離ごとに港ができたことが理解されるが、では鞆の場合はどうであろうか。鞆港沖合は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、明石・鳴門海峡からの潮と豊後水道からの潮が出会う場所である。したがって潮の干満差は大きいが、瀬戸内の東西いずれかに偏した海域と違って潮流そのものはきわめて弱く、むしろ潮流が弱くて一気に通過できないところに港ができたと考えるべきかもしれない。もちろん港ができる条件は複合的であり、鞆の位置が瀬戸内の東西南北を結ぶ交点にあることの重要性が背景にあるこというまでもない。
 さて、江戸時代も一七世紀後半になると、それまでの筵帆にかわって木綿帆が採用され、帆走能力が飛躍的に向上する。弁才(べざい)船と呼ばれる新しいタイプの廻船も生まれた。それによって潮流の穏やかな沖合を多少の逆潮でも風さえよければ航海することが可能になり、上記のように瀬戸内を直行する航路は「沖乗り」へと転換していく。それにともなって新しい港町も現れる。
 西回り航路の発達 沖乗りを行うようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。江戸時代の幕府や大名の財政は、その領地で取り立てた年貢米を売却することで成り立っている。寛文十二(一六七二)年、河村瑞軒によって酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西回り航路が整備され、これ以後、西国だけでなく東北・北陸地域からもより有利な市場をめざして続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内にやってくるようになった。ただ、江戸時代前半期に北国幕領の年貢米輸送を担当したのは、主として讃岐塩飽(しわく)、備前日比、摂津伝法などの廻船で、塩飽七島の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄え、正徳三(一七一三)年には四七二艘を数えている。江戸時代前半期は、このような幕府・諸藩の年貢米輸送に代表されるいわゆる領主的流通が中心とされる。
 やがて後半期になると、商品生産の展開を背景とした商品流通がその主役の座につき、瀬戸内を行き来する廻船はさらに増加する。一例をあげると、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では生産の伸張にともなって大量の魚肥を必要としていた。まずは九州・瀬戸内などの干鰯(ほしか)が運ばれたが、干鰯値段の上昇もあって北海道産の鯡〆粕や羽鯡(はにしん)が求められるようになる。西回り航路が開かれた後も、北海道その他の産物はなお敦賀から陸路を経て大津・京・大坂に運ばれていた。越前・加賀の廻船は、松前に進出した近江商人と結んで北海道・敦賀間の輸送に従事するにとどまっていたのである。これが文化・文政のころになると、北海道から西回り航路を用いて直接大坂に回漕するようになるのであり、その際、それまでの運賃積みから買い積みへの転換が行われたという。これがいわゆる北前船の時代の到来である。
 買い積みとは、荷物を運んで運賃を得る方式ではなく、船頭自らの裁量で積荷を仕入れまた売却することで、船頭自身が大きな利益を得て海運業者に成長することも可能である。このような方式は、何も北前船に限らず、また運賃積みであっても幾分かは船頭自身の積荷を上乗せして利益を得ることもあり、地域間で価格差が大きかった時代の商売であった。
 港町の中継的商業とその衰退 さて、このように全国各地から多くの廻船が瀬戸内に入り、沖乗り航路も頻繁に利用されるようになると、そこに新しい港町も成立する。例えば、安芸の御手洗はその代表的な港町である。
 安芸国大崎下島の大長(おおちょう)村の一角に新たに港町を開いたのは寛文六(一六六六)年のことで、ケンペルの『江戸参府紀行』にも見えるように元禄四(一六九一)年にはすでに有名な港町となっていた。当初は潮待ち・風待ちに集まり始めた諸廻船に薪・水・食料などを供給する商売が中心であったと思われるが、やがて廻船と廻船の間の積荷の売買を仲介し、場合によっては積荷を買い受けて倉庫に収め、高値を待って売却するという中継的商業が展開する。ここでも北国の米穀類を買い付けているが、周辺の消費地へ送るのはごく一部で、その多くは再び他国の廻船に売却して利ざやを得るという商売であった。
 港町の商業には、その後背(生産)地から集められた物資の積み出し商業、また到着した積荷を後背(消費)地へ送る買い入れ商業が、まずは思い浮かべられるが、中継的商業の場合は直接の後背地がなくても成り立つ。多種類の物資を積んだより多くの廻船が各地から集まることで、特別な生産基盤のない離島にも立派な港町が形成されたのである。鞆を始め江戸時代の港町はいずれも多かれ少なかれこのような商業を含みこんでいた。
 しかしこのような商業も、より一層の商品流通展開の中で淘汰されていくことになる。中継的商業を中心としていた御手洗港では、文化・文政のころ「中国第一之湊」を自負しているが、明治十四(一八八一)年の北海道開拓使の調査「西南諸港報告書」では、港は立派だけれども陸地に接続していないため「地産少ク又輸入物品ノ需要僅少ニシテ」と商況の衰えを報告している。一方、尾道港については「北海道物産輸入ハ月々増加シ近郡・近浦へ買入ルルコト甚盛ナリ」とその隆盛を伝える。鞆港の場合も、周辺五郡の繰綿、沼隈郡の畳表などを大坂へ、鞆で製作する錨・鉄釘・荒苧網などを北国・九州へ移出し、九州からの穀物や干鰯、北海道からの羽鯡・鯡〆粕などを移入して周辺五郡へ転売するとしている。後背地との関係を維持・発展できるかが重要になってきている。
 小型廻船の活躍 商品生産の展開は、綿作と魚肥の関係にとどまらずあらゆる物産に及ぶ。しかも幕末期になると、大型の廻船で大量の商品を大きな港に運び、それが後背地に販売されていくという姿だけでなく、従来は購買力が小さくて直接廻船を呼べなかった港にもさまざまな商品が直接運ばれてくるようになる。喩えていえば、鉄道輸送から宅配便への転換とでもいえるような変化で、より生産地と消費地を直結するような動きであり、安価な日常生活物資にまで及ぶ。これを支えたのはのちの機帆船につながるような小規模な経営の廻船の活躍である。尾道や鞆といえども後背地を確保して流通を支配することは容易ではない。やがて鉄道の時代を迎えた時、尾道・糸崎港は鉄道と結ぶことで逆にこれらの動きをとらえていくことになるが、鞆港では苦難のなか新たな道を模索することになるのである。
 以上、北前船がやってくるまでの江戸時代の海運について、中部瀬戸内地域の航路と交易を中心に紹介を試みたが、それにしても鞆港の富の蓄積、文化の豊かさは目を見張るものがあり、現在に大きな遺産を残している。鞆の人々の努力はもちろんながら、列島全体の流通構造がもたらした遺産でもあり、これを守り伝えるとともに広く門戸を開いて人々の期待に応えられることを祈念し、拙文を閉じることにしたい。
 
参考文献
柚木 学 『近世海運史の研究』法政大学出版局、一九七九年。
同氏編 『日本水上交通史論集』全六巻、文献出版、一九八六〜一九九六年。
石井謙治 『図説和船史話』至誠堂、一九八三年。
牧野隆信 『北前船の研究』法政大学出版局、一九八九年。
角田直一 『北前船と下津井港』手帖社、一九九二年。
上村雅洋 『近世日本海運史の研究』吉川弘文館、一九九四年。
瀬戸内海地域史研究会 『瀬戸内海地域史研究』第五輯、文献出版、一九九四年。
日本福祉大学知多半島総合研究所編 『北前船と日本海の時代』校倉書房、一九九七年。
山口徹編 『街道の日本史 瀬戸内諸島と海の道』吉川弘文館、二〇〇一年。
(自治体史や個別論文などは略させて頂いた。)
 
現在の鞆の浦







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