日本財団 図書館


『ギャンブルに関する学際研究』
日本リゾートクラブ協会スポーツ産業寄附講座
平成6年度研究報告シリーズ
松田義幸
4.ギャンブルに託す人間の心理
 
(1)ギャンブルの心理学
 ギャンブル心理学の一般的説明については、論文集「ギャンブルの心理学」におけるピーター・フラーの序論が特に優れている。以下、フラーの序論を中心にまとめてみた。
 
 一口にギャンブラーと言っても、ギャンブルとのかかわり方によって、ギャンブラーはいくつかのタイプに分けられる。ラルフ・R・グリーンスンは、ギャンブラーを次の三つのタイプに分類している。
 (1)気分転換ないし気晴らしのためにギャンブルを行うタイプ、従って、自分の意志でいつでもやめられるギャンブラー。
 (2)生活費を稼ぐための手段としてギャンブルを選んだプロのギャンブラー。
 (3)無意識の欲求に駆られてギャンブルに走り、自分の意志ではやめられない神経症ギャンブラー。
 
 (1)のタイプはごく普通の人間で、適当に競馬やパチンコを楽しむタイプである。(2)のタイプは、ギャンブルで生計を立てているわけで、技巧を要するギャンブル―たとえばポーカーなど―を専門に行う。問題は(3)のタイプで、このタイプにおいてはギャンブル心理学で言う神経症的特徴が特に顕著である。言葉を換えて言えば、ギャンブル心理学はこの神経症的ギャンブラーの観察、神経症的ギャンブラーの精神治療を土台にして発達してきた。
 ドストエフスキーのギャンブルに対する異常な執着に注目して特異なギャンブル論を展開したフロイド、神経症的ギャンブラーの精神治療の体験から有名な「ギャンブルの心理学」を著したエドマンド・バーグラーなどの例を見てもこれは明らかである。
 ここでは、上記の3つのタイプはそれぞれ異なる理由や動機によってギャンブルを行うが、三者の心理には共通するものがあり、その特質を最も顕著に示すのが神経症的ギャンブラーであるというグリーンスンの論に従い、神経症的ギャンブラーの心理を探ることにする。
 3.「ギャンブルの人間的側面」でも簡単にギャンブルの心理学について触れたが、そこでも神経症的ギャンブラーの心理を中心に述べたわけである。(ただし、フロイド派以前のクレメンス・J・フランスの論を中心に述べた)以下、フランスのギャンブル心理学の延長線上にあるフロイド派の理論、エドマンド・バーグラーの理論を中心にこれを補足しながら論を進めることになる。
 ハンス・フォン・ハッティングベルクはギャンブラーがリスクをおかす時に感じる恐怖心は性愛と関係があると指摘した。ハッティングベルクによれば、この恐怖心は幼児期における尿道と肛門の感覚と深いかかわりがあるという。幼児は排尿と排便に伴う苦痛と快感を秘かに楽しむ時期があるが、これを親から禁止される。幼児期に抑制されたこの苦痛と快感は成人においてマゾヒズムとなってあらわれるという。ハッティングベルクが肛門快感に着目したことはギャンブル心理学上きわめて重要なできごとであった。グリーンスンが指摘しているように、ギャンブラーがよく用いる言葉には糞便と関係のある言葉が多い。たとえば、賭け金は「糞つぼ」(Pot)であり、大きく賭ける人は「大きな糞つぼをつくる」(making a big pot)とか「ふき取る」(cleaning up)と言われる。運のついている人は「糞だるに落ちた」(fallen into a barrel of shit)人と呼ばれるし、サイコロは「糞」(crapa)と呼ばれている。
 エルンスト・ジンメルはハッティングベルクの肛門快感説を継承しながらも、これにギャンブルにおける「エディプス的葛藤」を指摘した。ジンメルによれば、ギャンブラーは自己陶酔症的、両性愛的衝動を満足させ、また、自己色情的満足を得るという。すなわち、勝てばオルガスムスを感じ、負ければ射精、排便、去勢の後のような虚脱感を味わうという。ジンメルはまた、フロイドの論に従い、ギャンブラーが強く意識する感覚として、口唇感覚、肛門感覚、陰茎感覚をあげている。これらはすべて幼児が味わう快感と関連している。ジンメルは抑圧された状態にある肛門感覚的サドイズムであるとも述べている。
 フロイドはドストエフスキーの死後発見された「カラマゾフの兄弟」の下書きを研究しているうちに「ドストエフスキーと親殺し」の構想をまとめたといわれるが、この「ドストエフスキーと親殺し」の中でフロイドは「エディプス的葛藤」を拡大して見せてくれる。通常、男の子は父親に対して愛情と憎しみという相反した感情を同時に抱くという。つまり、父親に対するやさしい感情の中に父親を殺したいという欲求が含まれている。男の子は父親を敬愛する反面、父親を競争相手とみなしてこれを排除したいと思う。男の子が成長するにつれてこの感情は抑圧されるが、抑圧されたこの感情は男の無意識の中に沈潜し、罪の意識の基盤となる。
 フロイドは神経症の発生におけるエディプス・コンプレックスの定着を強調している。フロイド派や新フロイド派の精神分析学者は現在でも、このフロイドの言うエディプス・コンプレックスを重視しているが、今日の心理学者でフロイドが述べたようなエディプス・コンプレックスが普遍性を持つとは考えていない。たとえば、ピーター・フラーはその反証として日本における事例を指摘している。日本においても西欧におけると同様に父親殺しの衝動は認められるが、男性のマスターベーションは公認の事実とされ、マスターベーションについての罪の意識はほとんど認められない。父親が息子にマスターベーションを教えることもあるし、マスターベーションに関する話は家庭の内外で比較的オープンに行われている。日本は西欧のような一神教的背景がなく、また、日本においてはエディプス・コンプレックス―親殺し―マスターベーションについての罪の意識―神教―神という連想はほとんど意味をなさないと言ってよい。しかし、この日本においてもギャンブル熱はさかんで、これを規制しようという政府の動きも活発であった。たとえば1936年には、ギャンブルが窃盗に次いで第二一位の犯罪とされている。1972年にまとめられた報告によると、ギャンブルは日本の文化に完全に定着したようで、ギャンブルに投じられる金額が日本国民の年間娯楽費の18%を占めているという。
 フロイドはその後エディプス的葛藤からさらに一歩進んで、幼児期の両性愛を重視するようになる。男児は母親に代わって父親の愛の対象になりたいと願う。しかし、この願望を遂げるためには、男児は男性たる自分を犠牲にしなければならない。この自己犠牲は男児にとって耐え難いものであり、従って男児はこの願望を放棄するか、自分の意識の中でこれを抑圧しなければならない。フロイドはこう言っている―「かくして、強烈な両性愛的傾向は神経症の必須条件となり、また神経症を助長することになる。」
 フロイドはまた、このような事実があるにもかかわらず、依然として男性の自我意識の中には父親が存在すると述べている。フロイドはこれを上位自我(スーパーエゴ)と呼んだ。彼は「ドストエフスキーと親殺し」の中で、父親が厳格かつ残酷であると、男児の上位自我はこの父親の性格をあらわにし、男児の自我意識はこの上位自我に対して受動的になる、と述べている。すなわち、上位自我はサディスティックになり、自我意識はマゾキスティックになる。
 フロイドはその後「文明とその不満」を著し、その中で、父親が厳格かつ残酷でなくても、男児の自我意識と上位自我の間にサド・マゾの関係が生まれると述べている。このような場合、上位自我は、男児に対する父親の態度とは裏腹に、男児が父親に権威に対抗して示したい攻撃的態度を吸収してしまうという。フロイドによれば、この二様の上位自我形成は矛盾するものではない。この二様の上位自我形成はある一点で合致する。すなわち、男児の反逆的攻撃性は、その男児が父親から期待する懲罰的攻撃性の量によって決まる。
 
 しかし、フロイドは同じ「文明とその不満」の中で次のような補足を行わなければならなかった。
 
 しかし、経験によれば、男児における上位自我は必ずしも男児が実際に父親から受けた仕打ちの苛酷さとは一致しない。前者の苛酷さは後者の苛酷さとは無関係のように思える。寛大に育てられた児童が非常に厳しい良心を身につけることもある。しかし、両者が無関係であることを誇張するのも間違いであろう。育児期の苛酷さが児童の上位自我形成に強い影響をおよぼすと考えられなくもないのである。結局はこういうことになる―上位自我の形成と良心の出現においては、児童の生来の性格に含まれる要因と現実の環境がおよぼす影響が共に働く。
 
 フロイドはまた、ドストエフスキー研究の結果として、自我意識と上位自我の関係について次のように述べている。すなわち、どのような経過であれ、自我意識と上位自我の間にサド・マゾの関係が確立されると、自我意識の中に懲罰を求める欲求が必然的に生じる。この欲求は運命の犠牲になりたいという欲求、あるいは上位自我に虐待されることに満足する心境といった形をとる。つまり、罰せられることすべてが幼児期の父親に対する受動的態度の再現となる。「行きつくところ、運命さえも父親像が投影されたものである。」
 フロイドはこのエディプス的状況を拡大解釈して、ギャンブルとマスタベーションの関係を説明する。フロイドはギャンブラーの行動におけるマスタベーションの意義の大きさを説明するためにエディプス的葛藤を述べたと言うこともできる。
 フロイドは、ギャンブラーに関するツヴァイクの短編小説に言及している。フロイドによれば、この短編小説は、マスタベーションの恐ろしい影響から救われたいために、母親に性生活を教えてもらいたいという少年の欲求を描写したものだという。この小説ではマスタベーションという「悪」がギャンブル狂によって置き換えられている。この小説にはギャンブラーの手の動きがしばしば描写されているが、フロイドはこの手の動きを重視している。フロイドによれば、プレイという言葉は幼児が生殖器をいじる動きとギャンブラーの行動の関連性を明示するものだという。実際、英語の“プレイ”(Play)は様々なギャンブルの形態について用いられている。
 フロイドは、マスタベーションをしたいというやむにやまれぬ欲求、二度とマスタベーションをしまいという決意がかみ合って、マスタベーションは破滅的行為であるという信念が生まれるという。これと同じことがギャンブルについても言える。
 フロイドもまた、肛門快感に注目し、ギャンブルにおける金の意味を糞便になぞらえている。ギャンブルにおける金の意味と糞便の関係はその後のフロイド派の心理学者が詳しく究明することになる。
 フロイドは偉大な精神分析学者であり、精神分析学者としてギャンブルの衝動の謎に挑んだわけであるが、結果的には、ギャンブルの心理学を徹底的に追求するところまでは行かなかった。
 セオドラ・ライクは、フロイドのギャンブル心理学を補足する意味で、ドストエフスキーのギャンブル狂を宗教(ギリシャ正教)との関係でとらえている。ライクは次のように述べている。
 この偉大な芸術家は、その生涯を通じて、1900年前に人類を聖者と罪人に分けてしまったあの不幸な誤りの影におびえて暮らした。彼の心の中にこの影が大きかったことが彼の良心の異常な発達と彼の心の中における罪と後悔の激しい交錯を説明している。彼の時代と異なる時代に生きるわれわれ―われわれの時代は一見進歩したように見える―はもはや当時のロシア人の心理を完全に理解することはできない。キリスト教の深大な影響を受けたことのない人間は当時のロシア人の心の中に自らを投影することはできない。宗教的色彩の濃い環境で育てられた人間は、衝動を充足させる洗練された方法を学ぶ。たとえば、自己喪失の快感、地獄に落ちることを知る快感。このような宗教的態度の心理的余波である情熱と苦しみがもたらす快感を、われわれが理解することは非常に難しい。(セオドア・ライク、“ドストエフスキー研究”)
 
 ドストエフスキーは、自ら体得した宗教心における自己浄化を、当時すでに世俗的悪とみなされていたギャンブルにおいて見出したために苦しんだわけである。彼はギャンブルから離れると、自己喪失の快感を求める衝動に駆られ、都会に戻り宗教における苦痛と快感にひたりきったという。
 ライクは、ドストエフスキーのこの行為を、彼が世俗的、宗教的権威の前にひれふすことで内心の葛藤を解消したと見る。ライクは、ドストエフスキーのギャンブル行動に関するフロイドの記述を補足して次のように述べている。
 
 ・・・金銭や利得を目的としないギャンブルは運命にかかわる問題となる。それは、神託の一形態である。現代人にも神託の意味は理解できるが、その底にある深い意味はなかなか理解できない。運命が究極的には父親像の投影であるというフロイドの論に従えば、この問題における無意識の重要性が理解できる。本来、ギャンブルは悪を期待することが正当化できるか否かを追求するものであった。言い換えれば、父親の聖域をおかしたことで懲罰が行われるか、それとも怒った父親が息子の不服従を許すかを問うものであった。運が良いか悪いかがその答を象徴する。ゲームのルールに従うということは衝動強迫的神経症の症状に従うことに等しい。不確実性は、ギャンブルにおいて衝動強迫コンプレックスにおけると同じ役割を果たす。たとえば、トランプの一人遊び(占い)というゲームがよい例である。このゲームにおいては神託の意味が明瞭である。他のゲームでは後から新たに加わることがあり、ゲームの主たる目的は利得だと考えられる。(セオドア・ライク、“ドストエフスキー研究”)
 ライクがここで言わんとしていることは、ギャンブルは典型的な神経症的メカニズムであり、その意味で妄想的神経症における症状とよく似ているということである。ギャンブラーの行為―運命にたずねる行為―は支配権は別のところ―運命、運、偶然、その他もろもろのもの一にある状況において自ら支配権を行使しようとする試みである。
 ギャンブルは、あまりに強烈な“悪しき”内なる衝動―たとえば、近親相姦衝動あるいは親殺し衝動―と、かつて懲罰を加えた父親あるいはその象徴―これは後に上位自我となる―として経験されたものに対処する自己防衛的メカニズムを構築する試みであると言うことができる。
 ライクは、フロイドのギャンブル論を補足する意味で彼自身のギャンブル論を展開したが、ギャンブルと宗教の関係に言及し、また、ギャンブルが「運命に問う」行為であることを指摘したことが彼の大きな功績である。
 その後、イギリスのフロイド派心理学者アーネスト・ジョーンズがゲームとエディプス・コンプレックス、親殺し衝動の関係を究明している。ジョーンズは1950年に「ポール・モーフィの問題―チェスの精神分析に関する一考察」を著したが、この本は19世紀におけるチェスの名人、ポール・モーフィの精神構造を丹念に分析したものである。モーフィは、チェス・ゲームで「キングをとる」ことで父親殺しの衝動を浄化したといわれる。チェスはもともとギャンブル・ゲームとして発生した。古くは、サイコロの目によってコマを動かしたといわれ、父親殺しの衝動と深いかかわりのあるゲームとされている。
 ジョーンズによれば、モーフィはまた、当時彼と並んでチェス界の双璧と言われたハワード・スタントンを父親殺し衝動の対象としたという。スタントンは「金が動機だ」という理由でモーフィとの対戦を拒否し続けた。そのため、スタントンに対するモーフィの憎悪はますますつのったという。モーフィは短命であったが、死の直前になると父親の財産に執着するようになり、父親の財産が他人によって奪われるのではないかと大いに恐れたという。
 ジョーンズの「ポール・モーフィの問題」はエディプス的葛藤とギャンブラーの金銭に対する執着を活写したという意味で、ギャンブル心理学上重要な意味を持つ。
 フロイド・ライクのギャンブル心理学を総合したより本格的なギャンブル心理学がエドマンド・バーグラーによって完成されたと言ってもよかろう。バーグラーはフロイドのエディプス的葛藤、ライクの言う「ギャンブルにおける無意識の重要性」をさらに究明した。彼のギャンブル心理学は神経症的ギャンブラーの精神治療の経験に基づいているため説得力がある。以下、バーグラーの論文「ギャンブルの心理学」の概要を紹介しよう。
 意識の心理学では、ギャンブラーの複雑な性格を充分に理解することはできない。意識のレベルでギャンブラーの心理を探究して行けば、早晩、理論は行き詰まり、非論理的推理を行わざるをえなくなる。ギャンブラーが自分自身でギャンブルの動機を説明するのを用いても、ギャンブルの本質に迫ることはできない。
 ギャンブラーの無意識の心理に迫ることが必要であるが、そのためにはまず、「自分が必ず勝つ」というギャンブラーの非常識かつ非論理的な確信に検討を加えることから始めるべきである。ドストエフスキーの妻の日記に次のような一節がある。
 
 フエジヤは80グルデン持って行き、賭けてみんなすってしまった。彼はもう一度同じ金額を持って行ったが、またすってしまった・・・最後の40グルデンまで持って行ってしまったが、そのとき彼は自分が170フランで質に入れたイヤリングと指輪を必ず取り返してくる、と自信満々に約束した。彼は、まるで勝負は自分次第で決まるかのように、絶大な自信をもって、そう言った。もちろん、そんな自信は何の役にも立たなかった。彼は最後の40グルデンもすってしまった。(1867年8月22日)
 
 このような尊大な自信を、普通の生活をしている常人の尊大な自信と比較することは事実上不可能である。この種の尊大な自信は、病的な狂信者のみが持っているものである。狂信とは誇大妄想の状態を言い、ギャンブラーはその楽観性において狂信的なのである。この誇大妄想がどのようなものであるかを理解するには、幼児の心理によくあらわれる現象、「自己万能」の確信を分析してみるのがよい。
 フロイドやサンドル・フェレンチが指摘しているように、幼児は長期間にわたって、ある種の誇大妄想の時期を経験する。幼児はただ一つの尺度によって物を見るというが、それは幼児自身の誇大化された自我である。幼児は、外界を自分が完全に支配できるものと考えている。この現実に対する誤解は、幼児の両親によって助長される。両親はいつも幼児の空腹、睡眠、愛情にかかわる欲求を充たそうとする。幼児は、自分の肉体的、感情的欲求が充たされるのは、母親の愛情によるのではなく、自分の万能性によるものだと考える。この虚構は、徐々にではあるが、現実の経験を通して崩壊して行くが、この経験は幼児期における最大の失望であろう。
 この幼児期の誇大妄想はロマン・ローランの小説「ジャン・クリストフ」に見事に描かれている。
 
 彼は魔術師でもある・・・彼は雲に命令する。彼は右へ行かせたいのだが、雲は相変わらず左へ動いている。彼は雲を叱りつけ、自分の命令を執拗に繰り返す。小さな雲一つ位は命令に従うのではないのではないかと見守る彼の心臓の鼓動はますます速くなる。彼は地団駄を踏み、小さな棒で雲を脅し、やがて命令を変更する。今度は左へ行けと命令する。そして、今度は雲は命令に従う。彼は幸福感にひたり、自分の力を誇りに思う。
 
 現実はいや応なしに自分が万能の魔術師でないことを幼児に教える。本当の意味での大人になることは、「快感原則」(フロイド)に代わって「現実原則」が身につくことである。愛情、説得、感情を通して幼児は教育され、自分自身の個人的な欲求の世界のほかに、客観的な現実があることを知る。しかし、内面的な抵抗なしに、この苛酷な真実を素直に受入れられる人はいない。臨床実験の結果からもわかるように、この万能の幻想を締めるとき、幼児は大変な反発と苦痛を示すものである。しかも、実際、われわれがどれほど立派な大人になろうとも、われわれは無意識のうちにこの虚構の残滓を心の奥底に留めているのである。
 実生活での経験を重ねるうちに、子供はある種の事実は変えられないと悟るようになる。何回か試してみてから、石の壁に頭をぶつけても何にもならないことを知る。いくら「どけ」と命令してみたところで壁はびくともしない。そして、自己防衛本能が働くようになって、負けるとはじめからわかっている戦いを避けるようになる。「利口になる」わけだが、感激はともなわない。かつての万能の虚構は心の奥深くに埋もれてしまっているが、これがある状況の下で目を覚ますことがある。
 「現実原則」はまず幼児期に受け入れられ、大人になると、これが何の抵抗もなく受け入れられる。人は勝ち目のない戦いに手を出さなくなる。しかし、この「現実原則」が「快感原則」に勝てない例外がただ一つある。すなわち、ギャンブルである。ギャンブルにおいては、論理や知性の影響を受けない全くの偶然が支配する。
 こんな逸話がある。ある大学の学生が競争でダークホースに賭けて10,000ドル勝った。彼の勉学の教授はこの事件に興味を持ち、その学生に、どうやって勝ち馬を予想したのか、とたずねた。学生の答えはこうだった。「簡単です。私は数字の2と3の夢を見たので、2×3は12であると考えたわけです。」「だが2×3は12ではないぞ」と教授は反論した。この学生は憮然とした表情で「2×3がいくつかを私に教えて下さろうというのですか?私はとにかく勝ったのですよ!」と言いはったという。
 この学生はなんのためらいもなく事実を無視し、彼独特の飛躍した数学論理を優先させている。ただ一回の幸運に酔いしれて、現実を無視し続ければ、行き着く先は間違いなく破局であろう。
 このように、ギャンブルは無意識のうちにかつての子供じみた唯我独尊の幻想と誇大妄想を呼び覚ます。しかも、そればかりでなく、ギャンブルは論理や知性、節度、道徳、そして克己心に対する眠れる反抗心を呼び覚ましてしまう。「快感原則」は決して消滅することはないのである。「快感原則」の残滓が程度の差こそあれ、常に無意識の中にとどまっているのである。そして、時により、この眠れる欲求が強まり、教育や人生経験において学んだ生活の規範をすべて冷笑するようになる。しかし、両親や目上の者(教師、牧師、先輩等)から教えられた生活の規範が身についているので、無意識ながらも深い罪悪感がこの反抗の結果生まれる。
 臨床用語で言えば、ギャンブラーは次のような精神状態にあると言える。まず第一に、無意識の攻撃性、そして次に、その攻撃性の帰結として生じる無意識の自己懲罰、自己懲罰は常にギャンブラーの無意識の中にあるものだが、精神分析の治療を受けない限り、ギャンブラーはこれを意識することはない。ギャンブルの仕組みに対するこのような子供じみた、無意識の、そして神経症的な誤解が無限の悪循環を生みだす。その結果、ギャンブラーは内心負けることが必要と感じるようになる。
 ギャンブルという行為そのものが「現実原則」の否定である。この否定を行うことによって、ギャンブラーは自分に「現実原則」を教えた人びと―たいていの場合両親―に対して神経症的攻撃性をむき出しにする。そして、ギャンブルで負けることで、彼はこの攻撃性に対する償いをするわけである。ギャンブラーに限らず、すべての神経症患者は自己懲罰という形で自らの攻撃性に対する償いをするものである。神経症患者は無意識に、はじめ両親との関係において経験した心理的葛藤を、かかわり合いのない他人に転嫁し、また、両親と他人を同一視する、というのが神経症の概念である。父親と母親に対する攻撃性が禁じられているわけだから、両親にかかわるものに対する攻撃性もまた、内心では許されないと知っている。従って、実際にこの攻撃性が形をとって表れると、その償いとして厳しい自己懲罰が行われる。ここで重要なのは、正常な攻撃性においては、敵意は、想像上の敵(すなわち両親)ではなく、現実の敵に対して直接向けられる。正常な攻撃性は内面的罪悪感をともなわない。というのは、この攻撃性は自己防衛のためだからである。
 これらの精神分析結果から、ギャンブラーは、結果的には決して勝つはずがないと断言してよいと思う。ギャンブラーにとって、負けることが精神状態の均衡を保つためになくてはならない要素なのである。それは、神経症的攻撃性の代償であり、同時に負け続ける言い訳でもある。
 合理的や知性に対するこの無意識の攻撃(実際は現実に対する攻撃)はギャンブルにおいて無意識のうちに行われるが、これは不道徳であり、無害と言いきれない。むしろ有害である。ギャンブラーは自分の考えを意識的に表現しないが実際はこう言おうとしているのである―「お父さん、お母さん、あなた方は善行は必ず報われ、悪事は必ず報いを受ける、と私に教えて下さった。しかし、現実はどうですか、正直者は汗水流して働いても大した稼ぎにならないじゃないですか。上手にたち回れる人は富も名声も得ている。物事には道徳的な秩序があり、道を誤れば厳しい罰を受けると私に話して下さった。しかし、現実はどうですか、悪い奴がふんぞり返り、真面目な人はいつまでたってもうだつがあがらないじゃないじゃないですか。真面目に働かなくとも大金が手に入るのです。この世には筋道というものがあり、正義と理性とが最後には勝つと私に信じて欲しかったのでしょうが、これは真っ赤な嘘です。ギャンブルでは、あなた方の言う筋道や理性、それに正義なんて何の役にも立ちません。世間の規則では、ルーレットの玉がどう回るか、サイコロの目がどう出るか、株価がどう上がる、それにトランプのさばき方すらわかりません。努力さえすれば何でもかなわないことのないこの素晴らしい世の中には、運や偶然の働く余地はないとおっしゃる。しかし、賭博場ではどうですか。各証券取引所、競馬場ではどうですか。反対する方はまるで馬鹿か偽善者としか見られていませんよ。いろいろなところで、全くの偶然が働いているのです。だから、私はそれをうまく利用しようとしているだけなのです。」
 この独白が語られるのは、あくまでギャンブラーの無意識の中でのことである。無意識の動機づけは臨床実験で証明済みの事実なのであるが、心理学の知識のない人はいまだにこの事実に懐疑的である。もっとも、この同じ事実を、形を変えてたとえば小説のような形で示すと、なんの抵抗もなく受け入れられるようである。
 ギャンブラーは、まさに反逆児である。ギャンブラーは茶びんの中に一人で秘かに嵐をおこす。一貫した個人主義者である。政党の内部ではなく、光輝ある孤立の中で反逆している。この「秘かなる」反逆児は銃弾や投票用紙で戦うのではない。トランプ、株券、サイコロ、チップがギャンブラーの武器であり、目に見えない軍旗なのである。だからこそ、内心の必要にせまられて、小市民的価値観をあざ笑う専門家になるのである。小市民的価値観に支配されている人はみな彼にとっては良心の呵責の原因になるからである。
 ところで、両親に対するギャンブラーの反抗は神経症の表面的な(むろん無意識の)症状にすぎない。彼の心の奥深くには、拒絶段階における安定―すなわち臨床実験で精神的マゾヒズムとしてよく知られている状態―が見られる。
 精神的マゾヒズムとは、敗北、屈辱、拒絶、苦痛を渇望する無意識の欲求を意味する。論理的には、精神的マゾヒズムは存在しえない。なぜならば、常識から考えて、人間は快感を求め、苦痛を避けるものだからである。しかし、不合理な要因に支配されている神経症患者には、この論理は通用しない。その不合理な要因の最たるものが精神的マゾヒズムなのである。
 この自己破壊的な心理過程はどのようにして始まるのか?子供がある拒絶に遭った場合を考えてみよう。その拒絶が正当なものか否かに関係なく、子供は拒絶によって怒りを感じる。拒絶は子供の万能感を害するからである。子供の怒りは、まず外的な力によって、そして、成人するにつれて内的な力によって押さえつけられる。子供が成人するにつれて、両親や教師に象徴される外部の権威は内在化される。この転換が内なる良心の形成の始まりである。「外から来る」叱責の声や折檻の手に代わって、「内なる」声、「内なる」懲罰を感じるようになる。内なる良心の機能の一つが、当初外部から懲罰された父母の権威に対する攻撃性を内面から懲罰することである。
 誇大妄想は乳幼児期にはごく正常なことである。また「正常な」幼児は、彼の人生経験がこの万能の幻想に与える不可避的攻撃に対して上手に対処することができる。欲求を断念したり、抑制したり、あるいは転化して、環境に自分を巧みに順応させて行く。しかし「神経症的」幼児にはこれができない。従って、絶えず「禁止された」欲求には、常に懲罪、叱責、罪悪感がともなうことになる。
 正常な解決法によらない限り、残された道は一つしかない。「快感原則」に従うことである。すなわち、「不快なことから快感を生み出すこと」てある。これはさきに精神的マゾヒストの解決法である。
 精神的マゾヒストは、生涯を通じて、絶えず拒絶され、不当に扱われ、恥をかかされる状況をつくりだして行く。自分では何をしているのか気づかないが、彼らの行為は結局、不快を真の目標としているのである。しかしこの不快は単純明快な不快ではなく、ある種の規則に従わねばならない。禁じられた、危険な「快感」から得られる喜びは報いを受けなければならない。そして、その懲罪は罪悪感である。「不快の中に見出される快感」が二次的な快感である以上、内なる権威の声、すなわち、良心の声はその快感に対しても結局反対する。いっぽう、精神的マゾヒズムは実に妙を得た懲罰無効化策である。懲罰が快感になるとき、懲罰それ自体が不条理と化しているのである。
 良心とは、自ら壁に頭を打ちつけるようになるまで囚人を絶望の淵へ追い込むサディスティックな監守のようなものである。はじめ、監守は満足げに眺めているが、囚人が自己虐待から快感を得ているのではと気がつくや否や、これを阻止しようとする。
 このように、良心は、自分のいけにえが苦痛から得ようとする快感を与えまいとする。そこで、このいけにえには口実が必要となる。そこでこう言う―「私には自虐趣味なんかない。私は攻撃的なのだ。」ギャンブラーの反逆の中に見られるのは、まさにこの自己防衛のための口実となる攻撃性(擬似攻撃性)なのである。だが、この攻撃性さえも趣味の代替物にすぎない。つまり、精神的マゾヒストはその攻撃性を二次的に利用して、敗北や挫折を誘発し、自発的に楽しむのである。
 マゾヒズム神経症が定着すると、無意識の心理過程は、終わることなく単調に繰り返されるドラマの舞台となる。それは次のような三幕物ドラマである。
 1. 精神的マゾヒストは無意識に自分が敗北し、拒絶され、否定される状況を自ら生み出す。
 2. この敗北や拒絶に自ら責任があるとは気づかず、世間の残酷さや不公正に義憤を感じ、明らかに自己防衛をするようになる。
 3. そこで、次に来るのは、深い自己憐憫である。すなわち、運命のいたずらで自分は「ひどい仕打ち」を受けているのだと感じる。
 
 この三幕物のドラマは「口愛心理過程」と呼ぶことができる。なぜなら、このような行動は乳幼児の現実との接触手段である時期に発現するからである。成人してもまだこの心理過程を示す神経症患者は「口愛面で」退行している。「口愛」という語は、幼児の心理発達の初期を言う。この時期において、口は現実との主な接触手段である。
 この自己懲罪の公式をギャンブラーに適用して考えてみると、「敵」(ポーカーの仲間、ルーレット台、証券取引所など)は拒絶する母親―後には父親―のイメージと無意識に同一視されている。この「怪物」から求められるものはただ拒絶、否定、および敗北感だけである。ギャンブラーの「負けた」という無意識の願望は、この敗北感と必然的に結びつく。
 ギャンブラーは、自分が必ず勝つという絶大な自信を意識しているが、自分に敗北感を与える残忍な母親や父親が拒絶する者として姿をあらわすことを無意識に確信している。このマゾヒスト的願望は無意識の中に隠されているため、深層心理においては、それが変形され、自分は必ず勝つという確信だけが意識されるのである。
 ギャンブルの得体の知れないスリルがどのように生じるかは、精神分析学的にはどのように証明できるだろうか?
 ギャンブルと呼ばれる現象をひきおこす無意識の衝動は、これもまた無意識のうちに生じる。神経症の症状をともなう幼児期の誇大妄想の復活に起因する。簡単に言えば、ギャンブラーは、いわば、禁じられた行為を行い、わざと叱られるのを待っている「悪い子」のようなものである。ギャンブルの最中に感じられる快感は、攻撃的に用いられる子供じみた誇大妄想の「快感」から派生する。そして、同じ緊張から来る「苦痛」は罪に対する懲罰の予感から派生する。また、ギャンブルの最中に性的興奮を感じるギャンブラーがいるといわれるが、ギャンブルの最中に感じる緊張はごく短時間しか続かない。しかもその性的興奮は、それ自体が抑圧されていて、肉体的に意識される性格のものではない。
ギャンブラーの分類
タイプ1 「古典的」ギャンブラー
 古典的ギャンブラーの神経症は、子供じみた万能の幻想とそのマゾヒスト的解釈が中心になっている。前述の三段階の口愛心理過程を明確に示す。
 この種の患者は皮肉っぽくこう言う―「私にとって、ギャンブルは運命の女神にたずねる質問なのです。質問は簡単で、私はあなたのお気に入りですか、というものです。私の競争相手は、地球上にいる他の20億人の人間です。勝っているときは、自分が運命の女神の一番のお気に入りなのだと感じるのですが、負けだすと、愛を求める私の祈りはいつかきっと聞き入れられる、と思うのです。」
 
タイプ2 受け身の女性的ギャンブラー
 このタイプのギャンブラーも古典的ギャンブラーの特徴を示すが、これに、無意識の女性同一化傾向が加わる。この傾向があるために、このタイプのギャンブラーは、敗北感の中で、精神的に圧倒されているという感情の興奮を楽しむことができる。この種の神経症患者は、ときに同性愛変質者と間違われることがあるが、同性愛変質者ではないし、またそうなるはずもない。同性愛変質者とは精神構造が全く異なるからである。
 受け身の女性的ギャンブラーは絶えず「強い」相手を捜している。このタイプのギャンブラーが結婚相手に選ぶ女性は、口やかましい女性である。友人になる相手は、彼を食い物にする「強い」、「支配的な」性格の持ち主である。彼は従属的で、常に誰か崇拝する相手を捜し求めている典型的な追従者である。主体的に欠け、正常な行動に欠けているにもかかわらず、このような自分を正当と考えているから、彼の行動もまた無意識の行動である。
 
タイプ3 防衛的擬似優越感を持ったギャンブラー
 精神発達過程の点から見て、このタイプのギャンブラーは受け身の女性的なタイプのギャンブラーによく似ているが、その精神構造の基底に追従性そのものではなく、精神的に圧倒されたいという願望に対する防衛意識がある。より強い個性を持った人は必ず勝つという考え方に左右されている。女性とギャンブルをしても退屈なだけだとわかっているので、常に男性相手のギャンブルをする。ギャンブル以外の領域でこれとよく似たタイプが見られる。いわゆる「ドンファン」タイプがそれで、このタイプの男性は多くの女性と交渉を持ち、はじけんばかりの男性的攻撃性によって自分の女性的な面を無意識に隠しているのである。この防衛的ギャンブラーが乳離れしていないタイプ(タイプ2)のギャンブラーと一緒にゲームをしている限り、彼の強がりや優越感はそのまま維持され、神経症は隠されたままである。その幻想がなんらかの理由で崩れる危険にさらされると、神経症の症状が外にあらわれる。
 
タイプ4 無意識の罪悪感に動機づけられるギャンブラー
 このタイプのギャンブラーにおいては、精神的マゾヒズムの中に生じる無意識の罪悪感が、後にエディプス的満足感を生む自慰的幻想に転移する。しかし、この段階に転移しても、再び、心のより奥深くに抑圧された罪悪感を隠すために、エディプス的幻想が利用される。「プレイ」(Play)という言葉には、他にもいろいろな意味があるが、中でも重要なのは、自慰行為やギャンブルの意味である。フロイドもドストエフスキーに関する論文の中でこのことを指摘している。
 しかし、このタイプのギャンブラーの罪悪感から来るエディプス的満足感は付随的なもので、罪悪感は主として口愛的である幼児期にその源を発している。
 無意識の罪悪感という要素は常に精神的マゾヒズムと万能性への願望と関係があるが、これによって初めてギャンブルをする人につきが回るという奇妙な現象の説明がつく、初めてギャンブルをする人が応々にして運が向いているとよく言われる。この説明としてはっきり言えることは、快感と苦痛は完全な周期を描き、ギャンブラーの自己懲罰がマゾヒスト的色彩を帯びた擬似攻撃性という形になるまでには、ある程度の時間経過が必要であるということである。
 また、これと関係してくる別の要素は、勝たなければならないギャンブラーは、それほど金に困っていないギャンブラーよりも負けることが多いという事実である。良心は、ギャンブルから得られる無意識の快感―特に、精神的マゾヒズムを隠そうとする擬似攻撃性―に対して激しく反対する。従って、金銭的に余裕のないギャンブラーほど、いちかばちか金を賭けてマゾヒスト的快感を得ようとする傾向が強いが、負ける余裕のあるギャンブラーよりもかえってひどく負けがこむのは皮肉にも思える。言い換えれば、精神的マゾヒズムに傾倒していればいるほど、良心が課する罰も重いのである。
 
タイプ5 「平然とした」ギャンブラー
 「平然とした」ギャンブラーというのは伝説的人物。このタイプのギャンブラーは、平然として見えたいと思う人の想像の中にのみ存在する。現実に超然としたギャンブラーなど存在しない。ギャンブルには、ギャンブラー特有の神経症的興奮を感じない人をひきつけるには余りに確実性がなさすぎる。いわゆる「優越感を持った」ギャンブラー(タイプ3)の中には、この表現があてはまる人もいることは確かである。ほんのときたま、荒っぽいギャンブルに大博打を打って、それで生活している人たちである。バルザックは小説の中でこのタイプのギャンブラーを次のように描写している―「胴元の向かい側に気のきいた身なりをした観客と、いわゆる賭博師たちが立っている。賭博師たちは、古代の犯罪人のようにカレー船をもう恐れていなかった。来ては三回賭けて、生活費を稼ぐとすぐに立ち去った。
 
タイプ6 女性のギャンブラー
 タイプ1〜5はすべて男性のギャンブラーについて述べたものである。19世紀初頭まではギャンブルはもっぱら男性の特権であった。その後、女性解放によってこれは変わったが、ギャンブルの性格、ギャンブラーの特徴そのものは変わっていない。ギャンブルに熱中する女性の心理を分析してみると、この種の女性は「古典的」ギャンブラー(タイプ1)の分類に入ることがわかる。あるいは、このタイプにいくつかのヒステリー症状が加わる。たとえば、勝つことは男らしいことであると考えているような節がある。しかし、これはあくまでも、表面的な現象にすぎない。詳しく分析してみると、この種の女性は男型的な精神的マゾヒストであり、「残忍な」母親を無意識の中につくりあげ、「不公正との戦い」を続けていることがはっきりしてくる。ドストエフスキーは「賭博師」の中で典型的女性ギャンブラーを次のように描写している。
 
 われわれの向かい側に、やや左寄りだが、若者の隣に若い女性が座っているのが見える。若者は彼女の親戚らしい。私はこれまでにもこの女性に注目したことがある。彼女は毎日、きっかり一時にテーブルに着き、ひとしきり賭けをして再び二時きっかりにテーブルを離れる。毎日、正確に一時間だけ賭けるのだ。彼女は、ここでは名が通っているので、一時になると彼女のために椅子が用意される。毎日、財布を取りだし、一定の金額を非常に注意深く賭け、いつも計算して、脇の紙切れに、一回ごとに玉の落ちる番号を書きとめていた。この女性は、きまって、毎日1,000フランか2,000フラン勝ってテーブルを離れた。
 祖母は長い間、じっと彼女を見ていたが、やがてこう言った。「ほうら、あの女は決してすりゃしないんだよ。あれをご覧、一体誰だと思う?」「フランス人でしょう」私はささやいた。「そう見えますよ。」
 「そうだともさ。あの女はきまって渡ってくる渡り鳥のように見えるさ。」
 
 受け身の立場に置かれたいという欲求は、ギャンブラーのだれもが持っている欲求だが、これは男性よりも女性の側によく見受けられる欲求と思われる。というのは、内心受動的な男性でも社会的強制により、積極的な面を見せようとしなければならないが、女性にはそれをする必要がないからである。
 外見的な症状がどのようなものであれ、女性ギャンブラーの精神構造は、男性ギャンブラーの精神構造となんら変わりはないのである。精神発達の初期段階(口愛期)にまで深く退行していない限り、神経症患者がギャンブラーになることはない。
 
 女性とギャンブルの関係については、グリーンスンがバーグラーとは少し異なる観察を行っている。グリーンスンは「ギャンブルについて」と題する論文の中で次のように述べている。
 
 もう一つの特徴は、ポーカーやダイスでは、同性の者だけが仲間に入るということである。女性が仲間に加わると、彼女たちは無性であるかのように振る舞い、男性的な態度をとり、言葉使いも男性的である。そしてお転婆娘が男の子に対して取る立場と同じ立場を、ギャンブラーに対しても取っているように見える。ブリッジは通常、技巧を必要として、ギャンブルの要素が少ないので、性の区別ははっきりしていて、女性は女性らしく振る舞う。これに対し、ルーレットは完全に運できまるゲームなので、女性が入っても、心理的には性をほとんど意識していない。つまり、女性は特別扱いを受けたり、注意をひいたりしないし、また、女性側もそれを期待しない。ギャンブルの場では、男女のいちゃつきはないのである。賭博場の反女性的な雰囲気は、異性を受け入れないという形で現れるばかりでなく、賭けている人たちの反女性的な言葉使いにも現れている。たとえば、クイーン(女王)は応々にして「売春婦」と呼ばれる。(女性は賭博場の反女性的雰囲気を感じているので、通常、自分の夫がギャンブルをすることに反対する。)
(2)日本の特異性
 以上のギャンブル心理学理論は、主として西欧文化圏における神経症的ギャンブラーの心理を解明したものである。
 ピーター・フラーが指摘しているように、たとえば、日本では、マスタベーションにまつわる罪の意識が希薄で、フロイドの言うようなエディプス・コンプレックス―親殺し―マスタベーションについての罪の意識―一神教―神―という連想は成立しない。このように、文化圏が異なると、ギャンブルの心理学も微妙な食い違いを見せる。
 ジョージ・デベルーは「モハービ族のギャンブルの精神力学」と題する論文を発表した。この論文は北米の土着人種であるモハービ族のギャンブルに行動を観察した結果をまとめたものであるが、特に注目されるのは、モハービ族は口唇性感、肛門性感をタブー視していないという事実である。このモハービ族も大のギャンブル好きであるが、彼らの場合ギャンブルは、幼児期における万能の幻想、口唇快感、肛門快感をどちらかと言えば精神的に楽しもうという心理が濃厚である、西欧世界で言われる神経症とは全く無縁のものである。
 現代の日本人のように土着性が強く、しかも、生活意識的には西欧の文明と文化の影響が著しい民族の場合、そのギャンブル心理学がどのような特異性を示すかは、今後の課題と言わねばなるまい。
松田義幸(まつだ よしゆき)
1939年生まれ。
東京教育大学卒業。
余暇開発センター主任研究員を経て、筑波大学教授、実践女子大学教授を歴任。
 
 
 
 
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