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全施協創立50周年記念インタビュー
全国モーターボート競走会連合会名誉会長
日本財団 笹川 陽平理事長に聞く
今こそ新しい発展のチャンス
 
インタビューアー:中地 洌(全国モーターボート競走施行者協議会理事長)
平成16年9月1日 於:日本財団7階会議室
 
「“いつでも どこでも おもしろい”競艇」の提唱へ
 
 中地 笹川理事長は昭和56年に連合会の副会長に就任されたわけですが、その頃は、上昇を続けていた売上が55年度をピークに初めて減少に転じました。そこで、57年3月にファン拡大推進委員会を設置し、「“いつでも どこでも おもしろい”競艇」ということを提唱され、いろいろな施策を実行されていくわけですね。当時の厳しい状況下にあって、どのように取り組もうと思われたのでしょうか。
 笹川 私は正直言って驚いたのです。何に驚いたかというと、平日の昼日中に多くの人たちが賭け事をする場所に来て遊んでいるということにです。それで私は、今競艇場に来ている人は本来のお客様なのだろうか、本来のお客様が来られるようにするにはどうしたらいいのか、そのための施設というのはどうあるべきかという問いかけをしました。その疑問は今も全く同じです。ところが、「競艇というのはこういうものなのだ、朝の10時半か11時に始めて3時半か4時に終わるものなのだ、選手はこうあるべきなのだ、連合会というのはこういうことをすべきなのだ」というふうに皆さん思い込まれていて、私は非常に奇異な感じを受けました。それを皆さんにお話しして、ご協力をいただくにはちょっと時間がかかりましたね。競艇をつぶすのかというおしかりも随分受けました。
 
笹川理事長
 
 中地 そのお考えが早朝前売発売だとか、ナイターレースの実施へと進んでいくのですね。
 笹川 だって、お客様のいるところに店を開かないで、お客様の集まらないところで店を開いて、「お客が来ない、お客が来ない」と言って嘆いていたわけですよ。そして、「うちの店は何時から何時だ、欲しいやつは来い」というような商売をやっていた。
 だから、お客様のいる場所に店をつくっていかなければいけないし、お客様が買いたいというときに店を開かなければいけない。そこで、開催時間をずらすとか、回数を増やすとか、さまざまなことが皆さんのご協力でできたのではないでしょうか。
 中地 早朝前売発売というのは57年に実現するわけですが、仕事に出る前に買えるという策をまず打ち出すわけですね。当時の業界は、入場料を払った方だけに発売をするという意識でした。それが早朝に、外向きに、入場料は払わなくても舟券を買っていただけるという、そういう施策を推進されました。
 笹川 とにかく場外発売をやらなければだめだ、と私はそういう意識でした。ところが、当時の関係者は、「競艇の開催日数が競輪より多いのは、場外をやらないということになっているからで、だからできません」と。確かに54年ぐらいまでは、開催日数の多さというのが他の競技に比べて有利に機能したことは間違いありませんが、その後は時代が変わってきたわけですから、やはり売り場を増やしていかなければいけない。そういう方向に持っていくための一つのステップとして、早朝発売というような取り組みやすいところから始めたということです。思いつきではないのですよ、きちっとした戦略を立てて、スタートを切ったということです。
 中地 なるほど。そうすると、58年に薄暮レースが実施され、その後、サマータイムレースと呼ばれるようになるわけですけれども、これの実行もやはりその戦略の延長線上にある・・・。
 
中地理事長
 
 笹川 目標はナイターの実施ですね。59年4月には、浜名湖で公営競技界初のナイターレースの実験を行っています。
 中地 60年9月に競走法施行規則が改正され、場外発売場の設置が認められました。61年3月には平和島の鳳凰賞で初の場間場外発売が桐生・蒲郡・住之江・福岡で実施され、8月には業界初の場外発売場「ボートピアまるがめ」がオープンします。それまでには当時の運輸省と相当の議論があったと思うのですが・・・。
 笹川 私は行政というのは民のためにあると頭から思っています。ところが、業界の人はみんな法律に従って仕事をする、規則に従って仕事をする、規則にこう書いてあるからできない、と。それは確かにそうだけれども、それが時代にそぐわないのならば規則そのものを変えるというところまではなかなか行けなかったのですね。でも、当時、本当に施行者の皆さんも燃えに燃えてくれて、場外発売実現のための決起大会を三田でやったのですよ。そういう皆さんの支援、情熱がやはり役所を動かしたわけです。
 中地 それが電話投票やインターネット投票につながっていくわけですね。
 ところで、その後、61年には賞金王決定戦、「競艇グランプリ」と称していたのですが、これが新設されます。優勝賞金も何と3000万円。当時、競輪グランプリは1000万ですから、まあ、破格の賞金だったと思うのです。その後、平成9年には1億円になるのですけれども、61年当時に賞金王決定戦競走というものを新設したときのお考えは・・・。
 笹川 1億円取ってくれる選手が出れば、それだけで大変な宣伝効果が出ますからね。だって当時、プロ野球にだって1億円プレイヤーはいなかったのですから。ところが、年間獲得賞金の上位クラスの選手は、7000万円ぐらいでウロウロしていた。だから、1億円プレイヤーをつくるのにはどうしても3000万円乗せる必要があったのです。そしてその年、現に1億円レーサーが誕生します。その後、優勝賞金が8000万円までなったときに、競艇の話題性とステータスを高めていくため、やはりここはもう1億円にしようではないかということで、施行者と日本財団が増額して、優勝賞金を1億にしたわけです。
 3000万円のレースができるまでは、GI競走等でA級選手が急に欠場して穴をあけてしまっていた。ところが、獲得賞金の上位12番目までが賞金王決定戦に乗れるということになってからは、もう休んではいられないということで、A級選手のレースの欠場率が激減するわけです。
 中地 それはいいお話です。そういう効果もあったのですね。
 笹川 だから、政策というのは無理に出ろとかこうしろとかではなくて、本人たちがやらなければ損だという、そういう方法を講じないといけないのです。
 プロペラの自由化(プロペラの選手持ち制度の導入)のときも本当に大騒動でした。私は、昭和62年から63年にかけての一部選手による悪質な整備違反事件の折、A級選手に何人もやめてもらった。そうしたら、「あの若造は競艇をつぶす気か」と言って、業界で大問題になりました。でも、公正な競走を提供することによってお客様の期待に応えるのが私たちの役目であって、いかに名選手であってもルールに違反する人は業界にいてもらっては困るというのが私の考え方でした。
 中地 私はファンの一人でしたが、本当に驚きました。競艇業界というところは公正の確保のためには思い切ったことをするという印象を持ちました。
 笹川 整備違反をなくすにはどうしたらよいか、悩みに悩んで、結局、選手が自由にできるのはプロペラしかないのですから、これを自由化しようと言ったら、まず施設所有者から「わけのわからないプロペラをつくられて、エンジン本体が傷ついたら弁償してくれるのか」という反発がありました。また、選手間の評判も悪く、プロペラの自由化には、本当に大変な努力が必要でした。けれども、よく選手も言うことを聞いてくれて、それから整備違反というのは激減するのです。今また選手持ちプロペラをやめにして、割り当てのものにしようなどという動きも出ているようですが、結局、プロペラの自由化と飯田加一選手の考え出したモンキーターンが新しいレースを生み出したわけですからね。







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