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私はこう考える【国連について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1995/11/08 産経新聞朝刊
【戦後史開封】(450)国連加盟(2)
 
 昭和二十八年のある日、独身の国連事務総長、ダーグ・ハマーショルドのもとへ、「国連独身クラブ」なるものから招待状が送られてきた。初代の国連日本政府代表(大使)の澤田廉三(故人)が、国連首脳や各国代表と親交を深めるために作ったクラブだった。貸しアパートの“日本大使公邸”でのディナーには各国代表の独身者も顔を出し、日本料理に舌鼓を打った。
 混血児施設「エリザベス・サンダース・ホーム」の創設者、美喜を妻にもつ澤田にハマーショルドが冗談を飛ばす。「あなたに『独身クラブ』を招集する資格があるのか」。澤田がすかさず「私は独身クラブの正式メンバーとはいえないが、オブザーバーとして諸君を招いた」と答えると、どっと笑いが起きた。理由がある。
 二十八年五月、ニューヨークに着任、国連本部を訪れた澤田はコーディエ事務次長からこう告げられる。
 「あなたは国連のいかなる会議、委員会にも出入りしてよろしい。しかし、会議の構成員となることはできない。会議の妨げとならない席で、見聞きすることは自由だ」。オブザーバーだった。
 前年の二十七年、日本の国連加盟申請を受け米国が提案した加盟勧告案は、九月十八日の安全保障理事会で、ソ連の拒否権に遭い否決されていた。「対日平和条約は真の平和条約ではない。日本がソ連、中国と平和条約を結ぶまで国連加盟は時期尚早」という理由からだった。
 澤田はその悲哀を、手記「随感随筆」の中でこう書いている。
 「会議に於て日本を誹謗する他国の代表があっても、これを反論するため『ミスター チェアマン』と呼びかけて発言を求めることが出来ず、徒らに手に汗してじりじりとしながらこれを見且つ聴いていなければならんこともあった」
 日本だけではない。加盟を申請していた日本を含む二十一カ国は足踏みを余儀なくされていた。東西両陣営が鋭く対立する冷戦の真っただ中にあって、米国はソ連の衛星国加盟に反対票を投じ、ソ連も西側諸国の加盟に拒否権を連発したためだ。
 日本の国連代表部は十人の小所帯。とはいえ、エンパイア・ステート・ビルの四十二階に構えた事務所は、手狭もいいところだった。「大使公邸」といったしゃれたものもなかった。
 秘書官として同行していた長男、信一(七二)は「父はひたすら日本の加盟へ向けた環境づくりに、地道な努力を重ねた」と語る。そのひとつが独身クラブだったのだ。
 だが、台所事情は厳しい。日本舞踊家の吾妻徳穂(八六)=吾妻流宗家=がブロード・ウェイで公演し、澤田が幕開けに各国代表を特等席に招いたときのことだ。請求書を回された経理担当の代表部員、内野忠之(八二)は「そんなカネはありはしません」と澤田に渋い顔をする。「いいよ、自分のお金で出す」と言う澤田のことばに、内野も内心「助かった」と思った。
 「澤田さんは、国連本部で廊下トンビをして各国代表を捕まえちゃ、日本料理どうですか、てなことでいろんな話をする。その努力は大変なものだった。ところが外務省はしみったれで、交際費をあまりくれない。だから澤田さんは相当自分のお金を使ったと思う」
 澤田と代表部にとり、問題はやはりソ連だった。代表部員の一人だった影井梅夫(七五)=元駐イタリア大使=は、当時の代表部内の空気をこう説明する。
 「とにかく大きなつっかえ棒になっていたソ連を何とかしない限り、加盟は実現できない。やるだけやろうという機運だった」
 澤田は、ソ連代表のヴィシンスキーとの接触に苦慮していた。国交がない相手だけに、国連本部のロビーですれ違っても、しばらくは互いに見て見ぬふりをし通り過ぎる日々が続く。
 着任してから四カ月後のことだ。昇りのエスカレーターに足をかけた澤田が、ふと顔を上げると、下りのエスカレーターからヴィシンスキーが降りてくる。中央付近ですれ違った二人は、初めて黙礼を交わした。些細な出来事ではあるが、国連内の一部に「澤田がヴィシンスキーにウィンクしたら、ヴィシンスキーがウインクバックしたそうだ」とのうわさが広がった。
 十月二十七日、日本の国際司法裁判所への加入が審議され、表決が行われた。澤田はヴィシンスキーの動静を見守っていた。ソ連は棄権し、日本の加入は可決される。散会後、澤田はヴィシンスキーに近寄り、「今後、日本が国連への加盟を申請する場合、あなたが今日と同様の態度を取ってくれることを望みます」と促した。ヴィシンスキーは「イン・ニア・フューチャー(近い将来に)」とつぶやいた。
 二人の関係はその後、ヴィシンスキーが澤田を映画観賞会に招待するまでになる。ヴィシンスキーは二十九年十一月に急死、澤田を失望させるが、ヴィシンスキーが紹介した代表代理のソボレフとの出会いは、澤田にとり重要なものとなる。
 三十年六月に開始される日ソ国交回復交渉は、一月に東京のソ連代表部主席代理のドムニツキーが、鳩山一郎首相(故人)にひそかに持参した書簡が端緒となるが、この書簡がソ連政府の公式文書かどうかを確認し、交渉地などに関する事前折衝を行ったのが澤田であり、相手はソボレフであった。
 代表部に勤務していた西堀正弘(七六)=元国連大使=は、「澤田さんの部屋から演説する声が聞こえてきたのを覚えている。加盟の日に備え、国連で演説する練習をしていたようだ」と打ち明ける。だが、澤田は加盟の夢を見たまま国連を去る。
 (文中敬称略)
【あのころ】昭和28年
◆第5次吉田内閣
 澤田廉三国連大使が着任した昭和28年5月、国内では第5次吉田内閣が発足していた。バカヤロー解散による総選挙が4月19日に行われ、吉田茂首相の自由党は過半数を大幅に下回ったが、5月19日の首班指名では、左右社会党が棄権したため吉田首相が重光葵改進党総裁を破った。
 5月21日発足した吉田内閣は、岡崎勝男外相、犬養健法相らが再任したほか、緒方竹虎副総理、大野伴睦国務相、大達茂雄文相−といった布陣。
 吉田首相は少数与党内閣を乗り切るために、自由党を出て分派(鳩山)自由党を結成していた鳩山一郎氏らを切り崩し復党させるなどの工作を行ったが、翌29年の造船疑獄などにより吉田首相の退陣を求める声が強まり、結局同年12月、退陣を余儀なくされることになる。
 
 
 
 
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