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私はこう考える【国連について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


1995/11/07 産経新聞朝刊
【戦後史開封】(449)国連加盟(1)
 
 ことし創設五十周年を迎えた国際連合に日本が加盟したのは昭和三十一年十二月のことだった。国際連盟脱退から数えて二十三年。戦後十一年にして日本は名実ともに国際社会に復帰した。だが、当時の国際情勢は厳しい東西対立のさなかにあり、米ソ両大国の思惑が絡んで加盟への道のりは困難を極めた。
 昭和六年九月十九日朝、国際連盟日本政府代表部の若手外交官だった加瀬俊一(九一)はジュネーブのホテル・メトロポールで、ひとり新聞に目を通しながら遅い朝食をとっていた。当時代表部はパリにあり、同ホテルを定宿にして国際連盟での活動をするというのが常だった。
 土曜日とあって、首席代表・芳沢謙吉(故人)=後に外相=らは、早朝からゴルフへ出掛けていた。
 加瀬は東京商大(現一橋大)在学中に外交官試験にパスし、大学を中退して外交官の道を歩み始めて八年。後に、自分が日本の国際連合加盟に奔走することになるなど、知る由もなかった。
 口元へコーヒーを運ぶ加瀬の手が止まった。「ジュルナール・ド・ジュネーブ」紙の片隅に小さな記事があり、「奉天郊外で日支両軍が衝突」とある。満州事変の勃発である。
 九月十八日午後十時過ぎ、旧満州(中国東北地方)の奉天(瀋陽)郊外にある柳条湖付近で、関東軍は南満州鉄道の線路を爆破し、翌日には奉天や安東など満鉄沿線の主要都市を制圧する。外相、幣原喜重郎でさえ、事の発生を知ったのは十九日朝の新聞を見てだった。
 ジュネーブにも、東京からまだ何の知らせもない。新聞を手に、日本政府代表のひとり佐藤尚武(故人)=後に外相、参院議長=を見つけ出した加瀬は、「こういう記事が出ています」と差し出した。佐藤は「まあ、うわさにすぎないだろうね。でも念のために本省に電報を打とう」と言う。
 「電報を打ったら、入れ違いに東京から満州事変が起こったという電報が洪水のように次から次へと送られてきた」
 二十一日、蒋介石政府は直ちに国際連盟に事件の解決を提訴する。一方、日本政府は事件の不拡大方針を決定、幣原はジュネーブの芳沢に、国際連盟理事会でこの方針を説明するよう訓令していた。しかし、軍部は独走を続ける。このため理事会で、芳沢らは徐々に苦しい立場へと追い込まれていく。
 日本政府代表部の事務局長だった澤田節蔵(故人)=後にブラジル大使=は、「澤田節蔵回想録」の中で当時の様子を書き残している。
 「わが代表部も一致健闘をつづけたが、遺憾ながらわが国の態度は一貫性を欠き、われわれ出先の者は窮地に陥れられ勝ちであった。(中略)連盟理事会ではあらゆる機会をとらえて事態不拡大の政府方針を強調したが、わが軍の行動は止まるところがなく、これが釈明に苦しめられた」(原文のまま)
 翌七年の上海事変、満州国建国宣言を経て、結局、日本は国際的孤立の道を選ぶ。八年二月二十四日の総会で、日本軍の満州撤退を求める勧告案が可決されると、首席代表となっていた松岡洋右(故人)は、脱退の宣言書を読みあげた。最後に日本語で「さようなら」と言い残して退場。三月二十七日、国際連盟に脱退を正式に通告する。
 しかし、脱退に至るまで日本政府もジュネーブの政府代表部も揺れていた。代表代理となっていた澤田は、脱退に反対であった。
 ある日、松岡が東京に「脱退すべし」との意向を打電しようとした。澤田は松岡に強固に抵抗し、佐藤、長岡春一(故人)両代表も交えての激論となった。だが、食い下がる澤田に松岡も譲らず、公電が打たれることになる。澤田の五男、寿夫(六二)=上智大教授=はこう語る。
 「晩年に父から聞いたことですが、『日本が世界の孤児となり、将来を危うくする道を進むことは、何としても避けなければならないという信念だった』と。父には世界平和の思想が一貫してあり、強硬だったようで、後に佐藤さんからも『お父さんは相当頑張った』と聞きました」
 だが、ジュネーブから打たれたこの電報が、脱退をめぐる政府の最終方針決定に大きく影響する。連盟脱退を受け帰国した澤田は、アジア局長の谷正之(故人)=後に外相=から、政府が脱退を最終決断した際の内情をそっと打ち明けられる。
 政府部内の意見がまとまらず、元老の西園寺公望の裁断を仰ぎ、最終決定を下そうということになった。西園寺も考え込み、「ジュネーブからは何と言ってきているか」と尋ねる。脱退を決意すべきとの現地代表部の意向を聞かされると、「そうか、それならやはり脱退とするか」と答え、これが最後の決断になった−というのである。
 寿夫は「父は、谷さん一人だけではなく、ほかにも事実関係を確認しました。電報の一件を非常に残念がっていた」。
 満州事変の勃発を報じる「奉天特電」を目にした日から十四年後の二十年九月、米戦艦ミズーリ号の甲板に立ち、降伏文書に調印する外相・重光葵(故人)を見守る情報局報道部長、加瀬の姿があった。
 その翌月には国際連盟に代わる国際連合が発足。日本は、二十七年四月、「日本国としては、国際連合への加盟を申請し、かつあらゆる場合に国際連合憲章の原則を順守し・・・」と前文に明記されたサンフランシスコ講和条約が発効、独立を回復すると、その二カ月後には国会の承認を得て国連に加盟を申請した。
 だが、日本の国連加盟が実現するまでには、それから四年半の歳月を要する。そして、加盟実現の使命をおび、最初に国連日本政府代表としてニューヨークへ派遣されたのは、奇しくも澤田節蔵の弟、澤田廉三(故人)であった。(文中敬称略)
【メモ】
◆加盟申請書要旨
 昭和27年6月23日、島津久大・ニューヨーク総領事は、岡崎勝男外相名の国連加盟申請書をリー国連事務総長に提出した。加盟申請書の要旨は次の通りだった。
 日本国民は国際連合の事業に参加し、かつ憲章の目的及び原則を、自らの行動の指針とすることを熱望しています。日本国民の間には諸国間における平和及び協力を助長しようとする国際連合の目的に対し、挙国的な共感がみなぎっています。よって日本国政府は国際連合への加盟を熱意をもって申請するものであり、また国際連合の加盟国としての義務を、その有するすべての手段をもって履行することを約束するものであります。
 
 
 
 
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