2004年9月号 Voice
女性天皇容認論を排す 男系継承を守るため旧宮家から養子を迎えればよい
八木秀次(やぎ ひでつぐ)(高崎経済大学助教授)
皇位継承に関する基礎知識
皇太子妃殿下のご病気とそれにともなう皇太子殿下の「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」とのご発言以来、再び女性天皇容認論が台頭している。
皇太子妃殿下へお世継ぎ出産のプレッシャーが掛かったことがご病気になられた最大の原因だとして、プレッシャーを取り除くべく、愛子内親王殿下が天皇の位に就かれるよう皇室典範を改正しようというものである。
政党でも民主党が参議院選挙の「マニフェスト政策各論」に「『日本国の象徴』にふさわしい開かれた皇室の実現へ、皇室典範を改正し、女性の皇位継承を可能にします」と掲げている。
新しい憲法を構想するに当たって「地球市民的価値」を強調したり、靖国神社に代わる新しい国家追悼施設の建設・整備を進めると述べるなど(民主党憲法調査会『創憲に向けて、憲法提言 中間報告』六月二十二日)、わが国の歴史を軽視するこの政党が主張しそうなことではある。
しかし、このような「雅子様おかわいそう」「愛子ちゃん天皇歓迎」といった感情論や、歴史軽視の選挙向けパフォーマンスによってわが国の国柄の中心問題である皇位継承が左右されていいはずはない。後述するように皇太子妃殿下のお世継ぎ出産のプレッシャーを取り除く方法は女性天皇の容認以外にもあるのであり、民主党の提言に至っては十分な論議を経たうえでの結論ならまだしも、皇位継承に関する基本的な知識もない段階でのものであり、拙速も甚だしい。
ここで、いまさらとは思うが、皇位継承に関する基本的な事項をまとめておこう。
(1)「万世一系」とされる皇統は一貫して男系継承である。
(2)過去八人十代の女性天皇は「男系の女子」である。
(3)女性天皇は本命である「男系の男子」が成長するまでの中継ぎ役であった。
(4)女性天皇がお産みになったお子様が天皇になられた例はない。
(5)女性天皇がお産みになったお子様が天皇になられれば皇統が女系に移ることになる。
(6)過去の皇統断絶危機の際には男系の傍系から天皇となられている。
(7)皇位は直系による継承ではなく、あくまで男系による継承である。
女性天皇容認の理由として、過去にも八人十代の女性天皇がいらっしゃったということが語られる。政治家の容認論のほとんどはこれだが、過去の女性天皇はいずれも「男系の女子」であり、それは本命である「男系の男子」が成長するまでの「中継ぎ役」であった。
皇后であった方が「中継ぎ役」として天皇になられた例、生涯独身であった例の二つのパターンがあるが、女性天皇が結婚されてお産みになったお子様が天皇になられた例は一例としてなく、そのことは厳しく排除されている。それは、その場合には血筋が女系に移るからである。
今上天皇に至るまでの過去百二十五代の天皇は、このように一筋に男系で継承されており、この原則に外れたことは一例もない。このことは強調してもしすぎることはない。
皇統の歴史を振り返ってみれば、過去にも今日と同様、天皇の近親者に「男系の男子」が恵まれず、皇位継承の危機を迎えたことがある。その際、今日の女性天皇容認論者が主張するように、女性が皇位を継承することも可能だった。そのうえで、女性天皇が結婚され、そのお子様が次に皇位を継承するということでもよかった。
しかし、先人はそうはしなかった。皇統が女系に移ることを厳しく排斥し、男系で継承できる方法をとった。それが傍系による継承である。たとえ先代の天皇との血縁関係が希薄であっても、男系の傍系から皇位継承者を得たのである。これは皇統をその時々の天皇の直系の血筋だと理解している現代人には理解しづらいことだが、これが皇統というものなのである。
二重の安全装置
じつはこのようなことが過去に三例あった。
(1)第二十六代・継体天皇、(2)第百二代・後花園天皇(一四一九〜七〇年〔在位一四二八〜六四年〕)、(3)第百十九代・光格天皇(一七七一〜一八四〇年〔在位一七七九〜一八一七年〕)のケースがそうである。この三方の天皇は、それぞれ先代の天皇から見れば、八親等から九親等の隔たりがある遠縁に当たる方である。
継体天皇は先代の第二十五代・武烈天皇とは九親等の隔たりがある。親同士が「はとこ」の関係であり、今日の感覚でいえば、他人と呼んでも差し支えないほどの遠縁である。武烈天皇には皇子がなく、男の兄弟もいらっしゃらなかったので崩御後、後継問題が深刻化した。しばらく空位が続いたが、第十五代・応神天皇の五世の孫に当たる男大迹尊(おおどのみこと)が即位されて継体天皇となられた。
後花園天皇も先代の第百一代・称光天皇から見て九親等の隔たりのある遠縁である。称光天皇には皇子がなく、天皇の父である第百代・後小松天皇は伏見宮貞成親王の第一皇子彦仁親王を御所に迎え入れて猶子としたうえで、称光天皇崩御とともに践祚させた。この方が後花園天皇である。
江戸時代後期に即位された光格天皇も先代の第百十八代・後桃園天皇とは八親等の隔たりがある。後桃園天皇は安永八年(一七七九)、その年に生まれた幼い皇女一人を残して二十一歳の若さで崩御された。皇太子が決まっていなかったうえに、天皇の近親者に男子がなかったので、空位を避けるために崩御についてはしばらく黙されることになり、その間に閑院宮典仁親王の第六皇子でまだ満八歳の祐宮(さちのみや)殿下を天皇の養子としたうえで世継ぎとする旨が決められた。天皇崩御が発表されたあと祐宮殿下が践祚した。光格天皇であるが、第百十三代・東山天皇の曾孫に当たる方である。
なおこの光格天皇以来、そのお子様が仁孝天皇、またそのお子様が孝明天皇という具合に、以下、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、今上天皇と直系でつながっている。しかし、今上天皇の直系の祖先に当たる光格天皇が傍系のご出身であることは重要なポイントであろう。
このように過去には傍系から皇位に就かれた例がある。ただし、たとえば先代の天皇の皇女と結婚なさるという方法などを介して先代との血の隔たりを近づけようとしている。その間にお生まれになった男子が次に皇位に就かれることになれば、先代からの血統もそこに流れ込むというわけである。
前述の光格天皇の皇后は先代・後桃園天皇の遺児、欣子(よしこ)内親王である。わが国の歴史上最後の女性天皇である第百十七代・後桜町天皇は自分の弟(第百十六代・桃園天皇)の孫であるこの欣子内親王を光格天皇の皇后にするよう大いに尽力なさっている。ただし、次の第百二十代・仁孝天皇は欣子内親王とのあいだに生まれたお子様ではなく、側室とのあいだに生まれた方であったが。
現在、女性天皇容認論のなかに、これまでの男系継承は庶系によって支えられており、もっといえば、男系継承と側室制度とはワンセットであって側室制度のない今日では男系継承は不可能である、だから女性天皇も女系も不可避であるとの意見がある。しかし、それは直系による継承が困難な場合は傍系によって継承されてきたという皇位継承の厳然たる事実を見ていない発想だといわざるをえない。
これまで述べたように、側室制度のあった時代にも直系の男子は絶えることがあった。その際に傍系による継承が認められたのであれば、男系継承は側室制度と傍系継承の二段階の「安全装置」によって支えられていたというべきであろう。
今日、国民感情からして側室制度の復活が望めないのは事実であり、私とて現実的だとは思わない。その道が塞がれている以上、過去に倣って傍系継承という第二の安全装置を作動させる必要があるのではないか。私の主張はこれに尽きるが、その道を検討せずに一気に「皇統」の変質を意味する女性天皇や女系天皇へと移行させるというのは早計ではないかと思う。
以上をまとめていえば、皇后とのあいだにお生まれになったお子様が皇位に就かれるという嫡系優先の原理のうえに、それが不可能な場合には(1)側室とのあいだにお生まれになった庶系のお子様が皇位に就かれるが、それも不可能な場合には(2)男系の傍系から皇位に就かれるという、二重の安全装置を備えて一貫して男系で継承してきたのが皇統なのである。
遺伝学の見地から考える
ここで考えなければならないのは、先人たちはなぜここまでして男系継承に拘って(こだわって)きたのかということである。すでにいくつかのテレビ番組でもその一端を述べたが、最近、ある方面から示唆を受けて皇位継承の問題を遺伝学の見地から考えてみた。
よく知られているように、男性の性染色体はXY、女性の性染色体はXXである。これが次の代に継承されていくことになるが、初代の男性の染色体をX1Y1とし、女性のそれをXaXbとした場合に、二人のあいだに生まれた二代目の染色体の組み合わせは、X1Xa、X1Xb、XaY1、XbY1の四通りのパターンである。二代目がまた外部の男女と結婚して、その間に生まれる子供ということで、ずっと系統図を描いていくと、初代の男性の血筋は男系でなければ継承できないことがわかる。
初代の男性のY染色体(Y1)は、どんなに直系から血が遠くなっても男系の男子には必ず継承されている。逆に女系では同じ男性でも初代のX1染色体を継承している人と、そうでない人が出てくる。長男は継承し、次男は継承していない場合もあり、その逆のケースも考えられる。つまり、女系の男子が皇位を継承した場合には、この人は、もはや初代・神武天皇の染色体を継承していないということになる。
そもそも天皇の天皇たるゆえんは、神武天皇の血を今日に至るまで受け継いでいるということである。それ以外の要素は付随的なものにすぎない。
わが国の「万世一系」の天皇とは、何か特別に能力が優れているとか、人格が優れているといった能力原理で成り立っているのではない。もちろん歴代の天皇のなかには能力や人格の面において優れた方がいらっしゃったことも事実だが、それは天皇の本質的な属性ではない。天皇という存在は完全なる血統原理で成り立っているものであり、この血統原理の本質は初代・神武天皇の血筋を受け継いでいるということにほかならない。
むろん、昔の人たちはこのような科学的な根拠を知って男系継承をしていたわけではない。しかし、男系でなければ血を継承できないということを経験的に知っていたのではないかと思われるのである。はたしてこのような説明が科学的に正しいのか、あるいは皇統についての説明として適切なのかについては、私はわからない。専門家にご教示いただきたいと思う。
科学的な根拠はともかく、百二十五代の皇統は一筋に男系で継承されてきたという事実の重みは強調してもしすぎることはあるまい。百二十五代の長きにわたって一貫して男系継承されている皇統を、たかだか現在生きているにすぎない現代人がその浅はかな知恵で簡単に女系に移行させていいものかと思う。
私は保守主義者を自任しているが、保守主義の中心原理に「時効(プレスクリプション)」というものがある。時間の効力というほどの意味であるが、幾世代を経て継承されてきたものは、その時々の人々の慎重な判断と取捨選択の末に残ってきたものであり、それゆえに正しいものであるということである。
皇位継承の問題でいえば、百二十五代にわたって、ただの一度の例外もなく、苦労に苦労を重ねながら一貫して男系で継承されたということは、これはもう完全なる「時効」というべきものである。なにも保守主義の立場からの説明をする必要はないが、それだけ百二十五代の積み重ねは重いということである。
以上のように、これまで皇統は一貫して男系で継承されてきたということを考えるならば、男系継承という線は最後のギリギリまで譲ってはならない。
私とて、女性天皇に絶対反対ということではない。男系継承という道を探して、万策尽きた場合には女性天皇も女系天皇もやむをえないと思う。しかし、今日の女性天皇容認論は男系継承の道をとことん探った末の結論とは思えない。さらにいえば、男系継承の意義をわかったうえの見解とも思えない。
要は優先順位の問題であると思う。私の立場からは、男系継承は最後の最後にどうしてもということでなければ譲ってはならない原理である。男系継承の道を徹底的に探って、それで万策尽きれば女性天皇も女系天皇もやむをえない、これが私の立場である。
旧十一宮家の方々の皇籍復帰を
そうであれば、男系継承を続けていくためには具体的にどうすればいいかという話になる。その際、考えておくべきことは、現存の宮家は男のお子様がいらっしゃらないためにすべて絶えることになるということである。そのような環境のなかで側室制度のない一夫一妻制は、特定の妃殿下に絶対に男のお子様を産んでいただかねばならないというプレッシャーをお掛けすることになる。
皇太子妃殿下のご病気の原因も根本的にはそこにあると思われるが、それを回避するためには、やはり人為的に宮家の数を増やすことが必要になってくる。一夫一妻制の宮家の数を増やすことによって、男系の男子のご出産が可能である環境をつくっていくということである。そうすれば、特定の妃殿下にお世継ぎご出産のプレッシャーが掛かることはなくなるだろう。
では宮家の数を増やすにはどうすればよいか。論者のなかには女性宮家を創設してはどうかという意見もある。しかし、女性宮家は女性天皇と同様、女系であり、そこにお生まれになった男子が皇位を継承されることになれば、その方は女系の天皇になってしまう。このような例は過去になく、その意味では女性宮家の創設も男系継承という皇位継承の原理を壊してしまう。
そうなると結局、昭和二十二年(一九四七)十月にGHQの指導によって皇籍離脱を余儀なくされた旧十一宮家の系統の方々に、皇籍に戻っていただく以外に方法はない。
旧十一宮家は傍系ではあるが、男系であり、神武天皇以来の血筋を引いている家系である。しかもそこにはかなりの数の男子がいらっしゃる。具体的にはこの方々をどうするのかということになってくるが、一つの案は「皇室典範」第九条の「皇族は、養子をすることができない」という規定を改正して皇族が養子を迎えることができるようにする。
もちろん、養子の対象は旧十一宮家の皇統に属する男系男子である。たとえばこの方々が、高松宮家や常陸宮家など男子の継承者が存在せず、いずれ廃絶することが確実な宮家の養子となるかたちで皇籍に復帰される。こうすることで宮家が存続する。別の見方をすれば宮家が一部復活することになる。そしてこの方々が紀宮殿下をはじめ現在の内親王や女王と結婚され、そこに男のお子様がお生まれになれば、そのお子様が皇位継承資格者となる。
もう一つは『週刊現代』七月三日号で旧宮家に属する方が提案されているように、旧十一宮家に属する男系の男子が現在の内親王や女王と結婚された場合は皇籍に復帰できるようにする方法である。なおこれは女性宮家の創設ではない。男系の宮家が復活ないし創設され、そこに内親王や女王が嫁がれ、妃殿下となられるということである。
皇女の嫁ぎ先として宮家が新設されることは過去にも例がある。そして、このことによって男系の男子がお生まれになる環境づくりをしていく。そういう宮家が複数あればどこかで必ず男子はお生まれになるはずで、この方々が皇位を継がれるのであれば、過去にも同じようなケースは幾度もあり問題もない。
このように旧十一宮家を活用したかたちで、男系宮家を存続ないし復活させる方法がある。要するに男系継承を維持していく方法はまだまだあるということであり、皇統が女系に移る女性天皇を容認するよりも、そちらのほうに多くの知恵を絞るべきだと思う。
論者のなかには、皇族が増えるのは国家財政上問題があると指摘する人もいる。しかし森暢平氏の『天皇家の財布』(新潮新書、二〇〇三年)によれば、宮家は昨年度の予算で当主の基本定額が三〇五〇万円、妃殿下は半額の一五二五万円、といった具合にわずかの予算で運営されている。大幅に宮家の数が増えるのではなく、現在の七宮家程度で宮家の数が保たれるのであれば、まったく問題ないのではないか。
もちろん以上の方法は、当事者である旧宮家の血筋の方に皇籍に復帰するご意向があることが前提であり、それが乗り越えなければならない第一のハードルである。私などは、これまでこの方法の実現可能性は度外視して、ただただ過去の皇位継承は一貫してそうだった、だから今回の皇統断絶回避もこの方法に則るべきだと、その理念だけを説いてきた。そのため、そんなことは針の穴にラクダを通すような非現実的な議論であるだとか、架空の話をしても仕方がないだとか、と厳しい批判を浴びせ掛けられてきた。
しかし、ここに来て事態は大きく変わってきた。じつは旧宮家に属し、場合によっては当事者になられる可能性がある方々が私の意見に賛同され、私に接触してこられるようになったのである。すでにお目に掛かった方もいる(いうまでもないが、偽者ではない)。差し障りがあるのでお名前を明かすことはできないが、その方々のお気持ちを私なりに代弁すれば、国民一般は皇位継承というものを理解していない、こういう皇統断絶の危機に至り、過去にも傍系が皇位を継承してきた歴史を踏まえるならば、もし自分たちにその役割が求められるなら、皇統存続のためにいわば「血のスペア」としてお役に立ちたいということである。
もちろん皇族になって自由が制約されることは望むことではない、そういう意味では積極的に引き受けたいとも思わない、個人としてやってきたこともこれからやりたいこともある、しかし、自分はたまたまこのような血筋に生まれてきたことの運命を思う、今回の危機は二百年に一度の皇統の危機である、二千年来の皇統が断絶しようとしているのである、このときに自分たちのような血筋の者が何もしないわけにはいかないのではないか、自分たちがここでその血筋を自覚しなければ皇統は絶えてしまうかもしれない、自分という存在が二千年来の皇統存続のためにお役に立つのであれば、個人としてやりたいことなどそれに比べれば小さなことである、自分はこのように思うようになった――このようなお話であった。じつに崇高なお気持ちであり、ご覚悟ではないかと思う。
これまで私の述べた皇位継承についての考えは、いずれも皇位継承の歴史を踏まえたものである。なにも特殊な発想ではない。皇位継承の歴史を踏まえればごく当たり前の発想である。このごく当たり前にすぎない発想が特殊と考えられてきたのは、それが実現可能性がないと思われてきたからである。しかし、以上のように今後、当事者となられるかもしれない方々が名乗りを上げられ、わずかながら人的条件も整いつつある。
また真偽のほどはわからないが、天皇・皇后両陛下も女性天皇をお望みではないという報道も一部にはある(「新聞が伝えない『雅子妃殿下騒動』の深層 天皇・皇后は『女帝』を望まれていない」『THEMIS』七月号)。
しかし、それは理由あってのことだと思う。天皇陛下にしてみれば、ご自身に至るまで百二十五代にわたって一貫して男系継承であったものが、ご自分の御代における皇室典範「改正」によって、その一貫した原理が変更されるのは皇祖皇宗に申し訳が立たないということになると思われるからである。
陛下はできるならば、皇太子殿下か秋篠宮殿下の下に男のお子様がお生まれになり、その方が皇位を継承なさることを望んでおられるだろう。それがかなわない場合は別の措置が考えられるが、この点についての陛下のご意向は不明である。ただ少なくとも現時点においては、女性天皇容認には慎重であることだけは確かなようにお見受けする。
「光格天皇」が示唆なさること
論者のなかには、いまのように皇太子殿下の次の世代の皇位継承者が明らかではない状態では、将来、天皇になられる方の帝王学が心配だ、一刻も早く皇室典範を改正して愛子様が皇位に就けるようにしたうえで帝王学を授ける必要があると主張する人もいる。善意に発する意見であると思うが、このような意見も皇位継承の歴史を知らないものといわざるをえない。
先にも述べたが、傍系から皇位を継承された方に第百十九代・光格天皇がいらっしゃる。この天皇は傍系の宮家(閑院宮家)の、しかも第六皇子のご出身であったが、傍系のご出身であることを強く意識して逆に天皇らしく振る舞われた。このことは東京大学教授の藤田覚氏の『幕末の天皇』(講談社メチエ選書、一九九四年)に詳しいが、そこには「光格天皇は、どこか理念的な天皇像を追い求めるところのある人だった。九歳という幼少で、しかも閑院宮家という傍系から、文字どおりはからずも天皇位についたがゆえのなせる業でもあろうか、君主としての天皇像を強烈に意識し、それにふさわしい権威と威厳の回復に、執念とも思える渾身の力をふり絞った七十年の生涯であった」と書かれている。
光格天皇は傍系出身ということもあって、周囲から軽く扱われた。そこで前の前の天皇(女性)で、そのときは上皇であった後桜町院が学問に熱心に励むよう勧められた。天皇もその教えに導かれて学問に励まれ、好学の天皇として世に知られた。藤田氏は「天皇の血筋が薄く、周囲から軽く見られることに対して、朝廷内での自己の権威の確立と強化のためという理由のほかに、傍流であるゆえになおさらというべきか、理念的な天皇像を追い、それを現実に演じようとしたのではなかったか」(同書)と述べている。
光格天皇は「日本国の君主としての天皇、という意識を強烈にもっていた方であった」(同書)。君主は「仁」を第一にしなければならず、一身をかえりみることなく、天下万民に「仁」を施さなければならない、そうすれば神のご加護により、天下泰平を維持することができる。光格天皇はこのような君主としての職分を強く意識されていた。
これは幼い年齢からの帝王学によって身に付けたものではなく、逆に途中から皇位に就かれたゆえに自覚的にもたれた意識であった。このことは天明の飢饉の際に、幕府に米を供出するよう迫ったことに表れている。これが人々の「尊皇心」を喚起し、幕末の尊皇攘夷につながっていった。
また光格天皇は「強い皇統意識の持ち主でもあった」(同書)。初代・神武天皇から連綿と続く皇統の第百二十代(当時の数え方)天皇という意識を強くもっておられた。ここから光格天皇は、廃絶していたものを再興し、当時行なわれていても略式であったものを、なるべく古い形式に復古するなど、朝廷のさまざまな神事・朝儀の再興と復古に熱心に取り組まれた。
具体的には新嘗祭、大嘗祭を古来の形式で復活させ、焼失した御所を復古的に復元させたほか、中絶していた石清水八幡宮と賀茂神社の臨時祭を三百八十年ぶりに復活させた。崩御後は五十七代・八百七十五年間の長きにわたって中絶していた「天皇」号が復活され、第五十八代・光孝天皇以降中絶していた諡号(しごう)(生前の功績を讃えて贈る美称)も復活されて「光格天皇」と称された。光格天皇の君主意識・皇統意識はその後の仁孝天皇、そして何より孝明天皇に強烈に引き継がれて、その行動・ご発言に大きな影響を与えることになる(詳細は藤田前掲書を参照のこと)。
このようにいわば近代の天皇制度の基礎を築かれたといっていい光格天皇が傍系のご出身で、途中から図らずも皇位を継承されたという事実は、皇統とは何か、そして今日の皇統断絶の危機をどのようにして乗り越えるかについて考える際に大きな示唆を与えてくれる。
繰り返すが、皇統とは神武天皇以来、一貫して男系で継承されてきた血筋のことであり、直系に該当者がいらっしゃらない場合は傍系から得てきた。今日、この傍系に当たるのは戦後まもなく皇籍を離脱された旧十一宮家であり、そこには男子がかなりの人数いらっしゃる。その方々のなかから何人かが皇籍に復帰できる方法を考え、男系の宮家の数を増やす。この宮家に現在の内親王殿下や女王殿下が妃殿下として嫁がれるのが望ましいが、いずれにしてもこの宮家にお生まれになったお子様が皇太子殿下の次の世代の皇位継承資格者となる。
このような方法が最も皇位継承の歴史にかなったものであり、わずかながら人的条件も整いつつある。要は、皇位継承の歴史を踏まえた皇統断絶危機回避の方法を考えるべきではないかということである。
◇八木秀次(やぎ ひでつぐ)
1962年生まれ。 早稲田大学法学部卒業。同大学院政治学研究科博士課程中退。 現在、高崎経済大学地域政策学部助教授、慶応義塾大学総合政策学部非常勤講師、フジテレビ番組審議委員。「新しい歴史教科書をつくる会」会長。
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