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2004年7月号 文藝春秋
異例の皇太子発言 私はこう考える
昭和天皇の先例
原 武史(はら たけし)(明治学院大学教授)
 
 一九二一(大正十)年九月、ヨーロッパから帰国したばかりの裕仁皇太子(後の昭和天皇)は、日比谷公園で開かれた「東京市奉祝会」で、約三万四千人の市民を前に、初めて肉声を発した。祝賀に感謝し、東京市の発展を希望する皇太子の言葉は、当時の人々に衝撃をもって受け止められた。同年十一月、皇太子は病気の大正天皇に代わり、事実上の天皇である摂政となる。
 今回の皇太子の発言は、内容こそ全く異なるものであれ、衝撃の大きさという点で、それに匹敵する。明治、昭和と「強い天皇」が一代おきに現れる、その兆候といえるかもしれない。
 だが、両者の間には重大な違いがある。今回、皇太子にとって大正天皇に相当するのは、現天皇ではなく、皇太子妃である。大正天皇が、皇太子時代には比較的自由に地方を旅行できたのに、天皇になるやそれができなくなったように、皇太子妃もまた、外交官時代は外国に自由に出掛けていたのに、結婚後はそれができなくなった。そして両者ともに、不自由な東京での生活を無理に続けるうちに体調が悪化し、御用邸や別荘に移っても健康が回復しなかった。
 大正天皇の場合は、回復の見込みが立たないことが判明した時点で、皇室典範と摂政令に基づき、皇太子を摂政にした。二一年九月の「奉祝会」は、それに先立ち、皇太子を事実上の天皇として人々に注目させることで、大正天皇の存在を忘却させる政治的意図があった。ところが皇太子妃の場合は、そうした規定がないから、病気になったからといって、別の人物を立てるわけにはいかない。ただひたすら、一日も早い体調の回復を祈るばかりである。
 しかし、ここで気になるのは、「雅子のキャリアや人格を否定する動きがあった」という皇太子の言葉である。背景には、いまだ消えぬ「万世一系」イデオロギーの存在が考えられる。皇太子妃に男子が産まれなければ、神武以来の男系の皇統が保たれなくなることへの危惧である。それはおそらく、大正天皇が受けたよりも、はるかに強い精神的重圧を伴うものだろう。それが宮中で、何らかの具体的な動きにつながったように思われる。
 皇太子の念頭には、御用邸を転々としても、体調が回復しなかった大正天皇の悲劇がなかっただろうか。その「前例」を打ち消すかのように、皇太子は強い意思をもって、皇室が危機に陥っていることを表明した。
 かつて、裕仁皇太子は肉声を発することで、一度危機に陥った天皇制をより強固なものにしたが、それは同時に大正天皇の引退を伴っていた。今回、皇太子は皇太子妃が同行できなかったのを「後ろ髪を引かれる思い」とし、帰国後も「いつの日か、二人で訪れることができれば幸いです」と感想を漏らしている。そこには、皇太子妃の体調回復を第一に考え、あくまで行動をともにしようとする覚悟のようなものが現れている。天皇制という制度よりは、むしろ「個人」を尊重しようとする皇太子の発言は、皇室のあり方そのものを大きく変える第一歩になるかもしれない。
(五月二十五日擱筆)
◇原武史(はら たけし)
1962年生まれ。
早稲田大学政治経済学部卒業。
山梨学院大学法学部助教授、明治学院大学国際学部助教授を経て、現在、明治学院大学教授。
 
 
 
 
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