2003/09/10 毎日新聞夕刊
皇位継承の歴史を問う−−『女帝誕生』の笠原英彦さんに聞く
◇現状踏まえ広範な議論を
女性天皇をめぐる論点を皇室の長い歴史を踏まえて考察した『女帝誕生』(新潮社)が出版された。過去8人の女帝の位置づけや皇位継承権が現在の形に決まるまでの経緯などを紹介し、広範な議論の必要性を訴えている。著者の慶応大教授、笠原英彦さんに聞いた。
【岸俊光】
女性天皇の論議は、皇太子ご夫妻に長女、敬宮愛子(としのみやあいこ)さまが誕生したことで再燃した。皇位継承は憲法と皇室典範の規定で男系男子の皇族に限られ、継承順位は6位まで決まっている。今なぜ女帝を論じる必要があるのだろうか。
「皇位継承予定者の中では秋篠宮さまが最も若く、他の方は年配者。現皇室典範を前提にすると、継承資格者がいなくなる可能性があります」
笠原さんは、いわゆる帝王教育の開始時期の問題も指摘している。象徴天皇制のもとでの公私の別や公式の行事への臨み方、日常的な健康管理まで、一般とは違う生活態度が求められる。「女帝を認める場合も、教育はしつけを含めて幼児期に始めなければならない」と笠原さんは言う。
本書では、歴史をさかのぼり、8人10代の日本の女帝の実態に迫っている。男系男子に皇位継承が限られたのは明治20年代以降で、皇室の歴史では近年のことにすぎない。それを踏まえ、女帝を先例と見るべきか、例外にすぎないのかを明らかにした。
例えば推古天皇は、譲位の慣行がなく長命だったこともあって、在位36年に及んだ。一般の理解とは異なり、女帝の半数は幼子を皇位継承予定者に想定して成長を待つ“中継ぎ”とは呼べないという。
一方で注目すべきなのは、8人がみな寡婦か独身で結婚をしなかったことだ。これは皇統が一貫して男系であり、女系が存在しなかったことを意味する。日本では、中国のような易姓革命はなかった。
こうした慣行が初めて成文法化されたのは1889(明治22)年のことだった。当初、女帝を認めない意見は少数派だったという。後桜町(ごさくらまち)天皇(在位1762〜70年)や明正(めいしょう)天皇(同1629〜43年)など比較的近い時代に女帝が在位していた影響もあるようだ。
それが一転して女帝を否定し、庶子継承を認めた議論の中心に柳原前光(やなぎわらさきみつ)がいた。明治天皇の側室愛子(なるこ)の兄で駐露公使などを務めたこの人物に、笠原さんは焦点を当てている。愛子は後の大正天皇となる嘉仁親王を生んだ。柳原の念頭に、二人の行く末があったはずだと考えたからだ。
「主導権を握っていたのは伊藤博文ですが、柳原に皇室典範の草案を作らせて加筆・修正を繰り返した。その過程で、柳原は妹の子供に皇位継承権が生まれることに積極的だったろうし、女帝否認論も歓迎したと思います」
皇統が続いてきた理由は、側室制度と庶子継承だったと笠原さんは指摘する。しかし大正期になると側室廃止論が唱えられ、昭和天皇は人倫にもとると明言した。そして戦後の皇室典範で、庶子継承は否定されたのである。
「皇統が存続の危機に陥る可能性は、実はこの時に生まれていました。美智子さまに二人の親王が生まれたので危機は表面化しなかったが、秋篠宮さまから男子皇族は38年間も生まれていないのです」
女性天皇論は、男女平等だけでなく家族のあり方にもかかわるという。皇室は直系継承の家族というイメージが強く、その国民感情に合うように女帝を考えなければならない。また、憲法が定める世襲の意味をきちんと解釈し、配偶者や女系天皇まで視野に入れることも必要だ。
女帝論議は私たちに天皇制の再考を迫るものでもある。
◇笠原英彦(かさはら ひでひこ)
1956年生まれ。 慶応義塾大学法学部政治学科卒業。同大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。 スタンフォード大学(米国)訪問研究員を経て、現在、慶応義塾大学法学部教授。
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