1989/01/08 読売新聞朝刊
[社説]激動の「昭和」を終えて
昭和天皇は七日、八十七歳の生涯を閉じられた。皇室ご一家のお悲しみもさることながら、国民一人一人にとっても悲しいできごとであり、ここに、謹んで崩御をいたみ、ごめい福をお祈りしたい。
二十世紀が明けた一九〇一年(明治三十四年)生まれの陛下は、病弱であられた大正天皇の摂政宮として、早くから公務につかれ、長い激動の昭和史を生きられた。それは、大日本帝国ただ一人の統治権者としての前半生と、太平洋戦争の敗戦を境に再生した日本国の、象徴としての後半生という、波乱多いご生涯でもあった。
世界を襲った大恐慌とともに幕をあけた昭和史は、続く軍国主義の台頭、極端な国家主義を背景とした太平洋戦争への突入、そして敗戦という国家の存立さえ危うくする危機的な状況へと進んだ。戦後の飢餓と窮乏、復興と独立、そしてその後の急速な経済成長と、その結果がもたらす新たな国際関係−−。
今、新天皇のご即位で元号も「平成」と改まり、昭和史は静かに幕を閉じた。
◆悲惨な戦禍の記憶、二分された昭和史◆
すでに、太平洋戦争を全く知らない人々が社会の中核となる時代である。戦後世代にとって昭和天皇は、国家と国民統合の象徴であると同時に、生物学者として身近であり、浩宮さまたちのおじいさま、といった家族の象徴としても親しまれてきた。
しかし、明治の終わりから大正、昭和初期に生まれた人々にとっては、白馬にまたがった大元帥陛下の軍装が思い起こされるだろう。天皇の軍隊に兵として参戦し、地獄から生還した人たち、家を焼かれ、肉親を失った人々にとっては、戦禍の苦しい記憶から逃れることもまた、できないにちがいない。
国民が陛下の崩御をいたむ時、同時に去来するのは、自らの昭和史であり、祖父母、父母たちのけなげな人生ではないだろうか。
「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」。対米戦争準備に入る国策遂行要領を審議した昭和十六年九月六日の御前会議で、陛下が明治天皇のこのお歌を二度、読み上げられたことは、よく知られている。
明治憲法下、天皇の統治権の行使には国務大臣の輔弼(ほひつ)を必要とするなど、立憲君主としての一定の制約があった。それを十分にわきまえておられた陛下は、しかし、強引かつ露骨に戦争へ突き進もうとする軍部に時にいらだち、時には軍人を大声で叱責(しっせき)された。そうしたこともまた、重い歴史的事実として確認しておきたい。
天皇、皇后両陛下が終戦前後に、疎開中の皇太子殿下にあてた手紙四通の内容が明らかになったのは、六十一年四月だった。文面は、当時十一歳だったわが子を気遣う父母としての愛情にあふれているが、その中で、陛下は、敗戦の原因について「我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れた」と記されている。
真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争は、やがて破局の道をたどる。戦争終結の最終決断は、立憲君主の枠を超えて陛下自らが下された。無条件降伏を迫るポツダム宣言を前に、鈴木貫太郎首相が“聖断”を求めたからである。
それは、陛下にとって、その生涯もっとも苦しいご決定であったに違いない。八月十五日、敗戦を国民に告げる「玉音放送」で国民は初めて陛下のお声を聞いた。
◆統治者から象徴へ、神格性を自ら否定◆
太平洋戦争の敗北は、昭和史を二つに分けた。皇国史観の中で、現人神(あらひとがみ)として位置し続けた陛下は、二十一年元日の詔書で、いわゆる“人間宣言”をされた。天皇の神格性を否定することは、当時のGHQ(連合国軍総司令部)の民主化政策の柱ではあったが、生物学研究で知られるように科学的、合理的考えを重んじられる陛下には、むしろ当然のことだったろう。
日本側とGHQとの複雑な交渉を経て、新憲法が公布され、「日本国民の総意に基づく」象徴天皇の地位が確立するのである。
戦後の陛下のご日常は、戦争の惨禍を深く心にとめられた慎み深いものであったように思われる。
八月十五日には、部屋にこもって戦没者のめい福を祈ってこられた。“お慎みの日”と侍従たちが呼ぶその日、戦禍に倒れた三百十万人の人々に、陛下が何を語りかけられたのか知るよしもないが、おそらく一人“喪”に服しておられたのではなかったか。
◆鎮魂と悔恨の巡礼 負荷の重きに耐え◆
そして終戦の翌年から二十九年八月まで延べ百六十五日に及ぶ「地方巡幸」も、死者と一千万被災者への、鎮魂と悔恨の旅といえるものであった。
都市から農村へ、戦災孤児の施設や病院、学校、摂氏四十二度の採炭現場や水害地の水の中にもはいられた。列車の中で一夜を明かされたこともあった。この旅で陛下は、戦争の悲惨を心に刻み込まれたのであろう。
戦争についての陛下の悔恨をわれわれが感じ取るのは、マッカーサー元帥との会見で
「わたくしは日本の戦争遂行にともなういかなることも、またすべての軍事指揮官、軍人、政治家の行為にも全責任を負います」といわれた時に始まるだろう。それは戦後の天皇観を国民が作る上で、大きな意味のあるできごとだったといえる。
連合国の中には、天皇を戦犯として調べるべきだという国もあった。また、マ元帥は反対だったが、陛下ご自身が、戦後、退位を考えられていたとする証言も多い。
しかし、陛下は、サンフランシスコ講和条約が発効した昭和二十七年、憲法施行五周年の記念式典の席上、「あえて自ら負荷の重きに耐えることを期し」と述べられ、退位論に終止符を打った。
その後も、陛下の「戦争責任」を問う声が一部に残り、ご闘病中にもその議論が再燃した。しかし、それは歴史的に見ても、陛下という一人の人間にだけ帰せられる問題ではなく、戦前の天皇制を含む国家体制全体の問題としてとらえるべきだと考える。
昭和四十六年のヨーロッパ、五十年のアメリカご訪問は、ともに皇后陛下とおそろいで、各国の人々に平和・日本を印象付けたが、国によっては激しい反対運動にも出あった。歴史のきびしい断面をご覧になった陛下は、皇室が国際親善に積極的な役割を果たすべきだというお気持ちを強められたようである。
アメリカでのフォード大統領との晩さん会で、太平洋戦争について「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」と述べられた陛下は、その後、五十三年に中国のトウ小平副首相(当時)を迎え、「長い歴史の中の不幸なできごと」と過去の両国の関係に触れられた。
さらに、五十九年には来日した韓国の全斗煥(チョン・ドゥホァン)大統領に「両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾」と述べ、こうしたお言葉に「戦後」に区切りをつけたいとする、象徴天皇として最大限の思いをこめられた。
◆象徴性、国民に定着 繁栄と平和の世に◆
その戦後も、幾多の歳月を経た。わが国がなお克服すべき課題は少なくないが、少なくとも、かつてない繁栄と平和の世に、陛下が永い眠りに就かれたことは、われわれ国民のせめてもの救いであろう。
陛下は、ご長寿においても在位期間においても歴代天皇の記録を書き換えられた。ご在位六十年記念式典が行われた六十一年に、読売新聞社は全国世論調査で皇室観の動向を探っている。それによると、天皇制について、七二%の人たちが、「いまの象徴天皇のままでよい」と答え、廃止論や、逆に天皇の地位、権限を強化する考えはごく少数に過ぎなかった。このことは、象徴天皇制が、ごく自然に国民の間に根付いていることを示している、と言えよう。
太平洋戦争という惨禍を償うことは不可能にせよ、その敗戦によって得た象徴天皇制を、平和と協調の貴重なあかしとして後世に引き継いでいきたい。
陛下は、戦後の地方巡幸で取り残された沖縄ご訪問を長年の念願とされていた。六十二年秋の沖縄国体開会式ご出席という機会を目前に病に倒れられたことは、さぞお心残りだったことだろう。しかし、ご名代として訪れた皇太子殿下が、沖縄の苦難に「深い悲しみと痛みを覚えます」との真情あふれる陛下のお言葉を伝達され、それが沖縄の戦後に大きな節目を刻んだのである。
陛下はかつて、「一般人になって好きなことをしたいと思われたことは?」という外人記者の質問にこう答えられた。
「心の奥底ではいつもそう願ってきた。マーク・トウェーンの“王子と乞食”のようにね」
そのお言葉は重く長いご生涯のうちでは果たされることのない夢でもあった。いまは安らかな眠りの中で、その夢を果たされるようお祈りするばかりである。
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