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会員の手記
献体の登録を終へて
獨協医科大学白菊会 青木 登
 
 献体の登録終へて壬生の春(平成6年3月31日)、早いもので獨協医科大学に献体登録をさせて戴いてもう10年近くになります。この足掛け10年間毎年、解剖慰霊祭及び文部科学大臣感謝状伝達式、ご遺骨返還式に出席させて戴きました。
 人からよく質問されることですが、献体を思いついたその動機と申しましょうか、その決意に至る過程をのべさせていただきます。現在は死語となりましたが、「虎は死して皮残す、人は死して名を残す」という諺がありました。私は別に後世に名を残すほどの大業ではありませんが、せめて没後も何か社会に貢献する事は無いものかと思考熟慮の結果、献体に至った訳で、近くの獨協医科大学に直接出願、家族の快諾のうえ献体登録致しました。身体消滅・遺体や遺骨に魂が残っている訳でもなく、只の物体に過ぎません。故人の霊は浄土に往生致します。我が家では代々、親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗の門徒です。私は生まれ育った時代の流れに従い、旧日本海軍、戦後は米海軍、そして商船乗組員と長い海上生活でつい信仰は遠ざかり信心疎遠となっていましたので、定年退職を機会に帰依すべく京都の西本願寺にお参りして帰敬式を受け、第24代門主様より直接法名を戴いて、お釈迦様の弟子の一員に加えさせて戴きました。仏門に帰依して京の秋の暮れ(平成5年10月2日)以後所属するお寺の年中行事は無論毎朝の朝勤行は欠っしません。私の出身は瀬戸内海の島ですが、縁あって海の無い北関東の奥地宇都宮に移住、骨を埋めさせて戴くことになったのも浄土真宗発祥の地、関東と因縁浅かざるものがあったのでしょう。
 真宗門徒であれば、誰方もご存知の石山合戦について裏話を少々。今から434年の昔、元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)の足かけ11年間に亘り、織田信長の大軍と戦った石山本願寺は現在の大阪城に在りまして、城内公園に「南無阿弥陀仏」の六字名号碑と「石山本願寺跡」という石碑があります。難攻不落、要塞堅固の石山本願寺も兵糧攻めには1年も堪えられません。戦国時代の用語で「干し殺し」と言います。紀州門徒や雑賀門徒の応援をはじめ備後、安芸、周防、長門を領有する西国大名の毛利輝元が配下の村上水軍を用い、武器弾薬、兵糧等、兵站物資を急援、それに呼応して安芸門徒の流れを汲む私の遠い先祖である、忽那水軍も補給作戦に参加しました。近代戦用語で言えば、ロヂスチックオペレーションです。忽那水軍とは、伊予国松山沖に点在する忽那七島という島山興部の水軍で現在中島町といい、瀬戸内海国立公園の一部を成しております。元冦の昔、伊予の領主河野通有が来島水軍と忽那水軍を率いて博多へ元軍を迎え討ったという歴史も残されています。補給開始暫くは伊勢の九鬼水軍を主力とする織田軍に水際作戦で引けをとらなかったが、次第に強化された織田軍勢に打撃を受ける様になりました。島のお寺の住職は村民と共に一致協力して船で兵糧米を送り続けて応援してきたので、石山本願寺の代11代顕如上人はその功に報い「帰命尽十方無碑光如来」の十字名号を下付され「教了」という法名を賜りました。この十字名号は現在もお寺で宝物として伝えられて居ります。
 天正7年(1579年)12月25日、時の正親町天皇の勅使が下り、講和という形で決着に顕如上人も同意、翌年石山本願寺を明け渡しましたが、実質的には降伏でした。毛利輝元は織田信長に抵抗する不利を覚り、途中で補給作戦を打ち切りましたが、最後まで続けた忽那水軍は潰滅状態となって戦国の彼方に没し、400年の伝統も終焉致しました。歴史上に記録を残さず郷土史「天領故郷の旗風」に僅かに記されて居ります。その後、忽那七島は天領即ち徳川幕府の直轄領となり、伊予大州藩の預かりのまま明治維新を迎えました。その間、海運業と蜜柑栽培で栄え、現在では愛媛の伊予蜜柑の名は全国に知られています。海運業では内地航路や近海航路の7割までが愛媛の海運業者が占めております。私も忽那水軍末孫の一員として海辺に生まれ、海辺に育ち、海の学校に学び、そして時局柄海の戦争に参加し(大平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争)その後も海の上を職業とする商船乗組員で世界の海に航跡を残してきました。
 戦火の明け暮の中、一度ならず危険に遭遇の度、思い浮かぶ良寛さんの言葉、「病む時は病むが良し 死ぬ時は死ぬるが良し 散る桜 残る桜も散る桜 人は皆早かれ遅かれ命尽きる日が訪れて来る それは前世の因縁によるもので自分の自由にならない」というのが心に沁みております。顧みれば私の半生は、微力乍らも職務を通して国家社会に貢献、大平洋戦争従軍と戦後の復員輸送、掃海作業に従事の労苦が報われ、内閣総理大臣より感謝状と銀盃・懐中時計(22金製)を授与され、又、米海軍退職時海軍作戦部長(海軍大将)より、ベトナム戦争従軍11年間の功労により感謝状を授与されました。そして、近い将来献体成願後に授与される文部科学大臣の感謝状は見ることは出来ません。
 波瀾万丈の人生も終焉に近づきつつあり、後は心静かに献体成願を待つばかりといえども、生きていれば何かと雑事に追われ多忙の日々です。
 懸念するところは、各種の事情により献体不成立になるケースです。五体満足を保つ様、留意して成願を願うばかりです。では、仏恩報謝の念仏を申させて戴く身を感謝し乍ら、出来れば来年もまた慰霊祭のご縁を結ばせて戴く事を念じつつ終わらせて戴きます。有難うございました。
 仏心とは大慈悲是なり、念仏者は無碑の一道なり 合掌 釈広済
 
札幌医科大学白菊会 浅黄谷登志
 
 献体登録をして20数年が過ぎましたが、解剖実習と私の間には大変な距離があり、私が実習を見学することになるとは、夢にも思ったことはありませんでした。
 たまたま村上先生(札幌医大医学部第2解剖・教授)とのご縁で白菊会の幹事を引き受け、その後は会長を仰せつかりました。その間5年余、村上先生は私を観察なさっていたのでしょう、浅黄谷には実習を見学させても大丈夫とお考えになったようです。今年度3回にわたり、それぞれ異なる企画の実習の見学を勧めて下さいました。私自身初めてのことですし、自分の気持ちを保つ上で自信があるわけではありませんでしたが、いつか自分が解剖されるであろう現場を見ておきたいという気持ちもありました。
 最初は、医学部学生の実習現場でした。札幌医大医学部では、2学年の4月から7月の間に32回の実習が行われ、解剖体は4人に1体で、同時に2か所、場合によっては3か所の解剖が同時に進行するそうです。実習期間中に口頭試問が2回あり、5名の教員が出題分野を分担して、それぞれ一〇〇名の学生に数題ずつ試問するそうです。
 解剖されるご遺体に対面することなど考えたことも無かったので、かなり緊張しながら実習室に入れさせていただきました。学生のみなさんが一瞬、入口の私の方を見つめましたが、すぐに視線は自分たちの解剖にもどりました。そこは日常感じたことのない緊張感に満ちた場所でした。学生の真摯な態度に私は心から尊敬の念を抱きました。ほんの少しでしたが、解剖されていく未知の世界を垣間見ることができ、大きな感動を覚えました。特に感じたことは、巷間で喧伝されている解剖実習に関わる噂が種々ありますが、そのようなことはすべて否定できると確信した一時でした。
 二度目の見学は、夏期解剖セミナーと呼ばれるコ・メディカルの人達の解剖実習でした。ここでコ・メディカルの解剖教育について少し説明します。札幌医大には保健医療学部があり、そのOT科とPT科の学生さん計40名は、2学年の5月から7月に毎週1回、計15回余の実習を行うそうです。解剖体は医学部と共通ですが医学部とは別の曜日に、右側の上肢と下肢を解剖するそうです。私が見学した夏期解剖セミナーは、こうした解剖の教育を修了した学生さんも来られますが、主な対象は北海道内の病院で現役で働くOT(作業療法士)・PT(理学療法士)のみなさんとのことです。今年は7月19日から5日間行われました。グループを作って解剖体を取り巻いて見学しているのが学生さんで、1人1人分れて解剖しているのが現役のみなさんだと教えられました。今年は現役のセラピスト(療法士)さんが222名、学生さんは民間の多くの学校から来られるので527名にも達したそうです。こうした多くの学生さんの相手は、医学部の学生さんがアルバイトでしているそうです。膨大な参加者を受入れながら、秩序正しく実習を指導される先生方のご苦労を考えますと、畏敬の念を抱かざるを得ません。
 三度目の見学は、ベテランの脳神経外科の先生たちが行う特殊な実習とのことでした。事実、解剖実習室には天井まで達するような巨大な手術顕微鏡が10台以上並び、先生たちはみな上から下まで青い手術衣を身につけてお顔が見えません。消毒液の臭いがたちこめています。ちょうど手術演習の最中で、特大のスクリーンに場所は分かりませんが頭の内部が赤々と写されており、とても驚きましたし感動しました。腕を組んで見学する先生たちもおられました。国内から100名余、韓国から16名の医師が来られていたそうです。指導はその道で有名なアメリカ人2名と日本人1名がしておられ、国内最初の凍結新鮮頭部を用いた手術演習とのことでした。この手術演習をすることで、今までその先生が行うと死亡率50%だったむずかしい手術が、20%くらいまで下げられる、そんな練習効果があるそうです。20体の頭部が使われたとのことで、それがみな白菊会の方々のものであると思うと、医学に大いに貢献していることをこの目で確かめることができました。
 3回の見学を通じて、札幌医大でこんなにいろいろな解剖ができるのは、一重に村上先生のおかげだと思いました。おかげさまで3回の見学をさせていただき、医学というものが形のあるものとして実感できました。ありがとうございました。
 村上先生によりますと、白菊会の人で実習を見学したのは私がおそらく第一号とのことです。改めて感謝申し上げますとともに、どうしたらお役に立てるのか考えています。会員の皆さんから希望があれば実習を見学できるというやり方は無理でしょう。亡き夫、亡き妻に会いたいと言われて実習室の外で拝まれる人は少なくないとのことです。その人達が解剖を見られたら、それはあまりに残酷でしょう。全身の皮膚は剥がされていますし、お顔の形もありません。その会員さんが客観的に距離をおいて実習を見学できるかどうか、長いつきあいがないと分かりません。自分が言うのもおかしいのですが、人を選んで見学させるという村上先生の姿勢は、結局それしか方法がないだろうと思います。ですから、医療関係者以外には基本的には見せないと言うしかないのでしょう。しかし、それでも何か機会を作っていただき、実習がどのようなものか知ることは大切だと思います。私たちが解剖実習のことを直に見て知っていなければ、世間の悪い中傷や誤解に対して自信をもってどう答えていいか分からないからです。この文章を村上先生にお見せした時に伺った話ですが、医学部の学生さんの実習中に7−8回行われる看護学校などの見学では、医学部の学生さんが談笑しながら解剖していることに批判的な感想文が毎年送られてくるそうです。ここにも、頭の中だけの医学と実際の姿の隔たりがあります。私1人の力は微々たるものですが、少しでも医学と篤志献体運動のためにお役に立てばいいがと考えています。
 最後になりますが、私が解剖実習見学の中で見せていただいたご遺体ご本人、そしてその遺族のみなさまに心から感謝申し上げますとともに、私などの見学にはご不満であろうとは思いますが、私の勝手をどうかご容赦いただきたく存じます。







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