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1987/05/11 読売新聞朝刊
[社説]平沢の獄死は何を残したか
 
 昭和二十三年一月、東京・豊島区の帝国銀行椎名町支店で銀行員ら十二人が毒殺された「帝銀事件」の死刑囚・平沢貞通が、十日朝、収容されていた八王子医療刑務所で肺炎のため死亡した。
 九十五歳を過ぎて重体に陥り、なおも生き抜いた。驚くべき生命力である。警視庁に逮捕されてから三十八年八か月、最高裁で死刑が確定してからもすでに三十二年が経過している。このような長期にわたる死刑囚の拘禁生活は、世界の犯罪史にも類例がない。
 平沢の死は、刑事司法を考える上で、さまざまな宿題を残した。死刑制度の存廃、刑罰を執行する行刑のあり方、再審制度の再検討、恩赦問題など。どれをとってみても、問題の意味は重い。
 とりわけ深く考えなければならないのは、一人の人間を死刑執行という恐怖の極限に置き続けたことである。九十五歳になるまで老人を拘禁する必要があったかどうかである。人道的見地に立ってみると、疑問に思わざるをえない。
 死刑を執行できなかった背景には、いくつかの事情がある。法務省側は、再審請求や恩赦出願の繰り返しによって執行の機会を失った、という。確かに十八次にわたる再審請求、五回の恩赦出願が執行にブレーキをかけていた。だがそれだけの理由だろうか。
 いまとなっては平沢が無実かどうかを検証するのは難しくなったが、事件にナゾが多いのも事実である。自白偏重の色濃い時代の捜査でもあり、裁判では平沢と犯行を直接結びつける証拠が乏しかった。犯行に使った青酸化合物の入手経路が不明なのも、その一つだ。後になって翻した捜査段階の自白が、有罪の大きな決め手となっている。
 再審請求はいずれも退けられているが、これまでのえん罪事件の構造と似ていることは、気がかりなことである。
 さらに執行を免れた理由として、文化人から政治家まで幅広い市民の救援活動があったことも忘れてはならない。特に「救う会」の活動は、市民レベルの運動として高く評価できる。また超党派による国会議員連盟の動きも効果的だったようだ。
 このような事情があったにもかかわらず、平沢は二度と自由の世界に戻ることはできなかった。
 平沢周辺が最後に望みをつないだのは、恩赦による身柄の釈放だった。しかし恩赦を担当している中央更生保護審査会は、「犯情、犯行後の行状、被害者感情、社会全体の感情を総合的に判断すると、恩赦にすべきではない」と退けた。
 さらに刑の時効を理由とする人身保護も請求した。しかし裁判所は「拘置中の死刑囚に時効はない」と訴えを棄却した。が、逃亡者に時効があって、拘束された者に時効がないのは不公平――という素朴な疑問もある。
 あれから四十年近い歳月が流れて、事件と平沢の関係をどうみるか、また人それぞれの刑罰観などによって、いろいろな意見がありうるだろう。社会全体の感情を的確につかむことは容易ではない。
 だが、平沢を獄死させてよかったのか、という“しこり”はいつまでも残る。
 
 
 
 
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