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 このように情報は、松陰をはじめ彼につながる多くの関心を持つ人々によって収集され、分析され、活用されていく。しかも北アメリカ国の渡来情報は、前の年から知っていたということになるわけです。それではどういうルートから知っていたのか。これは片桐先生の講義でお話しされていますが、この件については私も少しお話ししておきたいと思いますので、見ていきたいと思います。
 13ページに長崎の地図がありますので、見ていただきたいと思います。長崎にやって来るのが例のオランダ商館長ですが、だいたい1年交替で長崎に勤務していました。毎年1回程度やってくるオランダ船に新しい商館長が乗っていて、それまで勤務していた商館長と交替します。このとき、図ではいまちょうどオランダ船が入ってきていますが、オランダ船は長崎奉行に対して船員名簿と積荷目録と風説書、書翰類を提出する義務がありました。
 船員名簿はキリスト教徒が乗り込んでいないかどうかを点検するためです。それから積荷目録は御禁制品を持ってきていないかどうかを調べるためです。さらに風説書というのは、いわゆる鎖国を維持するためにキリスト教国が日本に接近してこないかどうかという情勢判断をするために必要だったというわけです。この風説書の中にペリー来航予告情報が含まれていた。
 それではなぜそのペリー来航予告情報が日本にもちらされることになったのかというと、すでに1849年ごろからアメリカ合衆国政府内部、特に国務省では日本を開国させようという政治的動きがありました。さらに51年には長崎にアメリカ軍艦がやってきます。これはグリン大佐という人が率いてやってくるのですが、彼がアメリカに帰ってから、日本開国を大統領に進言しておりました。これらの動きをオランダは当然警戒しています。
 さらにオランダにおける最高の日本通がフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトですが、このままでは彼が愛するお滝さんのいる日本が列国に蹂躙されてしまうということで、何とかオランダが先鞭をつけて日本を開国させたほうがいいのではないかと考えまして、オランダ主導による日本開国計画を立案して政府に建白していました。そういう状況の中で、オランダ政府もオランダの国益を守るためには、シーボルトの計画に従って、アメリカが日本と条約を締結する以前に、シーボルトが起草した日蘭条約草案を日本と結ぶのがいいだろうということになりました。もちろん親切心もありますが、一番大事なことはオランダの国益を守ることです。これまでの日蘭貿易の利益を失わないためには、まずアメリカと日本が条約を結ぶ前に、日蘭通商条約を結んでしまえという話になるわけです。
 それで誰が来るかというと、このヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチウスという人がオランダ商館長として、1852年、つまりペリー来航の1年前に長崎に赴任することになります。この人は東インド最高軍法会議裁判官という役職です。明らかにオランダ商館長になるような人物ではありません。格的にも東インド最高軍法会議裁判官のほうが上ですが、なぜそうなったのか。それは今回のオランダ商館長は、オランダという国家の意思を体して行動することが義務づけられている、条約を結ぼうということが裏にあるわけですから単なる商館長ではなく外交官で、それも特命全権大使的な役割を持たされて赴任してきたというわけです。
 このドンケル・クルチウスは法律家の家の出です。お父さんは牧師さんだったらしいのですが、おじいさんはオランダの最高裁判所の所長を務めています。それから二人のおじさんは、弁護士から国会議員で、さらに国務大臣も務めたということで、法律一家です。そういう人物で39歳の脂の乗りきった、働き盛りの時期にやってきました。東インド総督はドンケル・クルチウスに託して長崎奉行に手紙を送りますが、そこにはこのクルチウスのことを、「オランダ東インド高等法院判事の重任を務めてきた信望の高い、有能な政治家だ」というようなことをいっています。
 その彼の文書が『幕末出島未公開文書』として公開されていますので、これなどをご参考いただけるといいわけですが、結局このドンケル・クルチウスが通常の業務の中で風説書を提出するとき、ペリー来航予告情報のところに鉛筆で丸く印をつけたのです。さらにそこに自分たちは重要なところに丸をつけておいたと口頭で言いまして、私たちは長崎奉行に対して一層重要な情報を提供したいと思っているので、それをぜひ奉行に伝えてほしいというふうに、日本人のオランダ通詞に話しているわけです。だから今回の情報提供の仕方はちょっと違うということになりまして、長崎奉行所側は風説書を翻訳する場所を、従来まではそれほど厳しくありませんでしたが、長崎部行所の一角を仕切って、そこで反故紙も持ち出さないようにさせたと言われています。
 しかしこのように緘口令を敷いたのですが、情報というものはどこからか漏れるものです。15のペリー来航予告情報の伝達経路の略図を見ていただけるとありがたいのですが、長崎奉行、牧志摩守から点線が出ていまして、長崎在勤の薩摩藩聞役、大迫源七という人がいます。ここの地図にありますが、長崎には久留米とか薩摩とか、九州諸藩の蔵屋敷があります。九州諸藩の米は長崎に集まってここで取引されますので、米を保管しておくところがこの蔵屋敷です。ほかにもこの海岸べりには、たとえば肥前佐嘉とか柳川、筑前とかの蔵屋敷がありました。
 この蔵屋敷に常駐しているのが聞役と呼ばれるものです。これが長崎奉行所に常に出入りしたり、あるいはいろいろな人を茶屋に接待したりして情報を取っているわけです。薩摩藩の大迫源七という人は非常に有能だったらしく、ドンケル・クルチウスがもたらしたペリー来航予告情報の一部を入手しています。それも7月の段階ですから非常に早いです。薩摩藩が非常におもしろいのは、これは島津斉彬ですが、彼にダイレクトに情報が入っているということです。これは江戸の芝、三田、高輪あたり、絵図とありますが、これが薩摩藩の屋敷です。ちょうど品川のあたりです。それからこれも薩摩藩の屋敷で田町のあたりです。それからこれも薩摩藩の屋敷です。品川や田町の海岸べりにあります。島津斉彬がまず考えたことは、情報としてはアメリカ船が通商要求のために長崎ではなく江戸湾にやってくるということがわかっていましたので、もしそうなった場合に幕府の人質として江戸屋敷に住まわされている妻子の逃げ場所に困ることになります。そこで極秘裡に江戸の家老に、屋敷を山手あたりに入手するようにと指令をしています。
 そして実際どこが入手できたかというと、これはちょうどいまの渋谷、宮益坂と書いてありますが、この稲葉長門守の敷地で国連大学とかこどもの城があるところです。松平左京大夫のところが青山学院の敷地です。その脇、ここに松平薩摩守とありますが、これが島津さんです。当時、公式に幕府から松平の称号をもらっておりましたので、松平薩摩守といえば島津さんです。
 これは嘉永6年1月から、もうここで造成工事をしておりますので、嘉永6年1月以前に入手できたということです。嘉永5年7月に情報を得てから、家臣たちは屋敷を入手しろと言われて、一生懸命探してこの屋敷を入手して、もう翌年1月から造成に入っている。現在はどこかというと、ここです。いまわれわれには入れません。常陸宮邸です。
 この屋敷が、実は薩摩藩が長崎でペリー来航予告情報を入手して、それによって対応策を立てた屋敷であるということです。実は日本広しといえども、このペリー来航を見越して対策を立てたのは薩摩藩だけでした。ほかは一切こういう動きはありません。薩摩藩というのはなかなか情報に長けていると思います。
 その屋敷造成にかかわった人物までわかりました。それがこの人物です。レジュメには名前が書いてありませんが、平野弥十郎という人です。それで『平野弥十郎幕末・維新日記』というものが北海道大学の図書刊行会から出されたことにより、これを見て、あっと思いました。この人物が薩摩藩の渋谷下屋敷を造成したのだということで、なるほどと思ったわけです。
 この人物もペリー来航がもたらしたものという意味で、おもしろいと思うので紹介しておきたいと思います。いまは雪駄ばきの人はお断りしますなど書いてあるところがありますが、この人は江戸の飯田さんという雪駄仲買商人の家に生まれたそうです。商人の子どもは他人の家の飯を食ってこい、そうすることで成長できるということでした。いまは自分の息子をすぐに自分の会社に入れて甘やかしていますが、江戸時代は他人の家に奉公に出された。ところが優秀だったので、奉公に入った先の平野屋さんに望まれて、平野屋の二代目として養子になりました。この平野屋さんも、雪駄、下駄商売、小売りをしていたようですが、営業不振で店じまいとなってしまいまして、土木請負商人に転身します。
 現在は土木方面はちょっと難しいと思いますが、なぜそちらに転向したのかよくわかりません。平野屋というのはもともと薩摩藩のお出入り商人だったようです。それで先代の奥さん、つまり平野弥十郎にとっては養母ですが、この人は薩摩藩の武士たちの間では「江戸の母」のような存在で、この平野屋には薩摩藩士たちの出入りがあったようです。そんな関係で建設業界に転身した弥十郎が、折からの薩摩藩の渋谷下屋敷の土木工事を請け負ったということになります。







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