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 さて、これをご覧ください。そこに愛宕丸という名前がありますが、いったい何かというと渡し舟です。こちら側が東浦賀、こちら側が西浦賀で、現在、住友の造船所はもう操業しておりませんが、西浦賀と東浦賀というのは湾の中で結構グルッと離れています。これは渡し舟の上から撮ったものですが、こういう感じで愛宕丸という渡し舟があるということです。浦賀に行きましたら、この東浦賀と西浦賀を結んでいる愛宕丸にぜひお乗りいただくと大変便利で、わずか3分でつないでおります。この愛宕丸が東浦賀に着いたすぐのところに、先ほどの吉田松陰、佐久間象山が会する場所があります。愛宕丸は船着場のボタンを押すと、どちらかからきてくれまして、150円だったと思います。船の科学館なので渡し船の紹介もいたしました。
 さて、もう一度吉田松陰の書簡に戻りますと、先ほどのこの場所で議論紛々だということでしたが、どんな議論がなされていたのかというと、「此度の事中々容易に相済申間敷、孰れ交兵に可及か。併船も砲も不敵、勝算甚少く候。御奉行其外下曾根氏なども夷人の手に首を渡し候よりは切腹可仕とて、頻に寺の掃除被申付候」。このたびのことは、なかなか容易には落着しない、いずれ戦争になるかもしれないという予想をしています。しかし戦争になっても日本には対抗できる船も砲もない、勝算ははなはだ少ない。
 そんな状況からか、浦賀奉行の戸田氏栄、それからたまたま浦賀に来て鉄砲を教えていた下曾根金三郎という幕府鉄砲方、たまたま来ていたと申し上げましたが、阿部正弘は情報を得ていますから、何か不測のことがあっては困る、練習させておこうということで、浦賀付近の砲台の撃ち方等の練習をさせるために派遣していたわけですが、この下曾根氏なども、外国人の手にかかって首を取られるよりは切腹したほうがましだなどと言って、寺の掃除をさせているというわけです。
 これは勇ましいのか勇ましくないのか、判断に非常に困る事例だと思いますが、好意的に解釈しますと、ペリーの艦隊に乗った与力等が、艦隊の大砲の質問をしています。これはペキサンス砲か、そうだ、ということです。ペキサンス砲というところまで知っていたのですが、要するにそれは炸裂弾です。砲丸投げのような弾が飛んでいくだけではなく、その弾が爆発するわけです。まだライフルマークが切っていない大砲ですから、滑空砲といって命中率はそれほどよくありませんが、何しろ弾そのものが爆発しますので、殺傷能力が非常に高いということは、浦賀奉行の与力等、また下曾根金三郎は鉄砲方ですから当然知っていました。ですから、とても日本の大砲では無理だ、自分たちの責務を果たすことはとても難しいということを認識していたのではないか。だからこそ責任を取るために寺の掃除を申しつけていたのではないかということです。
 せっかく浦賀に行きましたので、この寺はいったいどこだろうかと思いましてうろつき回りましたら、常福寺というお寺です。浦賀の歴史散歩みたいになってしまいましたが、14で見ると、これは落としておりませんが、東浦賀に愛宕山公園というものがありますが、このすぐ脇に210号という道路が走っておりまして、この210号の印のすぐ右ぐらいのところに常福寺という寺があります。残念ながら撮っていなくて画像をお見せできませんでした。なぜここかというと、この常福寺というのは奉行の交替式が行われる寺だそうです。なおかつ浦賀奉行所の与力、同心のお墓がとてもたくさんあるものですから、地元の方もここだろうとおっしゃっておりました。
 さて先ほどの徳田屋で、「佐久間は慷慨し、事斯に及ぶは知れたこと故、先年より船と砲との事やかましく申したるに不聞、今は陸戦にて手詰の勝負外手段無之との事なり」。佐久間象山は非常に憤慨して、ことがここに及ぶのはわかっていたことではないか。先年より軍船をつくれ、あるいは大砲を鋳造しろ、砲台をつくれとやかましく言っていた。確かに象山は、天保期、弘化期と2度にわたって上書を出していますが、2度目は握り潰されています。幕府は自分の言うことを聞いてくれない。いまとなっては陸戦で、背水の陣の勝負以外は手段がないと言っています。
 佐久間象山の悲憤慷慨がわかるような書きぶりだろうと思います。私は長野県人ですが、長野県人は「さくまぞうざん」と読まなければいけないらしいのですが、近くに象山という山がそばにあるので、それで取ったのだといいます。しかし「しょうざん」と言わないと、違うのではないかと最近いわれていますので、「しょうざん」と読んでおきます。
 「何分太平を頼み余り腹つヾみをうちをると、事こヽに至り、大狼狽の体可憐、々々」。これは「鼓腹撃壌」という『十八史略』の話が下敷きになっていると思いますが、腹鼓を打って、世の中のことをあまり考えていないと、こういうことになる。そして大慌てになるということは、まことに哀れむべきことであるというわけです。
 「且外夷へ対し矢面目の事不過之」。こういう状態で外国勢力、特にアメリカに対して面目を失っていることは、これに過ぎないではないか。「併し此にて日本武士へこしめる機会来り申候」。吉田松陰は、しかしここで日本の武士がへこを締める、つまりふんどしを締めるいい機会ではないかと言っております。災い転じて福となすではありませんが、このように吉田松陰はとらえています。したがいまして、「可賀亦大矣」、これはむしろ喜ぶべきことではないかと言っているわけです。
 さて、これらの内容を、どのように、だれに伝達しようとしたのかということですが、「佐久間より江戸へ飛脚を立候故、此一書相認め申候」。佐久間象山が江戸に飛脚を立てるというので、私もこの一書をしたためたというわけです。どうも象山の手紙に便乗したのではないでしょうか。吉田松陰は当時、長州藩の士籍を削られて浪人中の身であまりお金がなさそうですから、便乗して江戸に送るわけです。
 「御国へ別に手紙不差出候間」、この「御国」というのは相手である道家竜助の御国ですが、道家竜助は長州藩主ですから長州ということになるわけです。長州へ別に手紙を出さないので、「玉木文之進迄此手紙直様御送可被下候」。長州へは自分では別に手紙を出さないので、玉木文之進までこの手紙をすぐさま送ってくれということです。これもまた便乗です。長州の江戸藩邸と国元とは、どのくらいのものかはわかりませんが、定期便がありますので、それに乗せて頼むということです。
 この玉木文之進とはだれかというと、松陰の父親である杉百合之助の一番下の弟で、叔父さんに当たります。実は吉田松陰は、この玉木文之進から後に松下村塾を任されるのです。松下村塾は玉木文之進がもともと主宰していました。玉木文之進は明治になるまでは藩の仕事をしていて忙しかったのですが、明治になって暇になり、また松下村塾を始めるのですが、その塾生たちが明治9年に前原一誠の乱、萩の乱ともいいますが、これにかかわってしまったものですから、申し訳ないことをしたという自責の念にかられて自害しております。松陰の学問にもかなり影響を与えた人のようですが、玉木文之進にもこの手紙を送ってくれというふうに頼んでいるわけです。
 「六月六日 吉田虎次郎矩方」と書いてありまして、「私事も今少し当地に相止り、事の様子落着見届帰る積なり」と書いてあります。追って書きがこの間に入っているわけですが、「道家竜助様 人々御中」、道家竜助さんと、それにつながる人に出しているということになります。松陰は当地に留まってことの様子、落着を見届けるというのですが、たしかにこの翌日には、千代ケ崎の台場を見ているようです。千代ケ崎の台場というのは、先ほどの燈明台のさらに久里浜寄りのところです。そこから黒船を見たり、またその翌日には久里浜も見ています。それからさらに三崎のほうまで見分していきます。
 9日には久里浜にペリーが上陸して浦賀奉行に国書を渡しますが、この様子も松陰は実は見ています。どこから見たかはわかりませんが、くやしく思って見ています。そしてその日、ペリーの久里浜上陸の当日の夜、浦賀を出発しまして、6月10日の昼ごろ江戸に帰ってきます。江戸の長州藩邸、現在、日比谷公園になっていまして、あそこが上屋敷ですが、そこに行きまして、そこを拠点に佐久間象山の塾等に通いまして、オランダ語を勉強しようという話になります。
 しかし、しばらくやって、こんな悠長なことをやっていたらその間に外国に攻められてしまうといった気持ちになり、オランダ語の勉強は放棄して、もっと実践的な勉強をするような方向にいったようです。なおかつ、それをしているうちに、こんな机の上の勉強はだめだ、もう実際に行かなければしょうがないという話で、プチャーチンが長崎に来たことに触発されて長崎に行きます。それからそれに乗り遅れたので、ペリーがまた来るという話ですから、下田に行って、下田でペリー艦隊に乗り込もうとするという流れになっていくわけです。
 書簡に戻りますと、「御やしき内瀬野吉次郎・工藤半右衛門へ此事一寸御聞せ可被下候」とあります。要するに、この吉田松陰の書簡の意義ですが、この書簡からはペリー来航という未曾有の事件に関して、吉田松陰の思想的な立場と、それから彼を取り巻く情報環境といったものの実態を余すことなく読み取ることができると思います。すなわち本書簡は松陰が江戸の長州藩邸と、それを経由して国元に発信した開国直前における政治情報そのものであり、来航した北アメリカ船の実態と、その来航の目的、それに対する幕府の対応のまずさ、またそれに関する象山あるいは松陰のコメント、それから今後の武士階級の心構えなども満載した、まさに重大なニューズレターだろうと思います。
 このニューズレターが長州藩邸内で、道家あるいは瀬野、あるいは工藤らによって書き取られる。瀬野や工藤はちょっとお聞かせとありますが、これはどんどん書き取っていくわけです。さらに彼らにつながるさまざまな関係者にそれがもたらされ、語られたり、書き取られたりしていきまして、このニューズレターの情報がどんどん、平面的に水平に情報ネットワークの上で流れていくわけです。また、国元に送ってくれといわれていますから、国元でも玉木文之進やそれにつながる人物らによって書き取られ、伝達され、語られ、また書き取った人々につながる人たちがつくっている情報ネットワークを通じて語られ、書き取られる。そう考えていくと、実に多くの人たちが松陰の発した北アメリカ国の船の情報と、松陰および佐久間象山のコメントを共有していくという状況にあったと思います。
 わかりやすく言うと、たとえば10チャンネルで「ニュースステーション」という番組がありますが、このニュースの内容と久米宏のコメントを見聞きして、次の日会社でそれが話題になったりしますが、多くの人たちが久米のコメントを共有していくという状況です。これは瞬時にされていますが、江戸の情報では手紙という媒介を使い、徐々に浸透していくという状況だったのではないでしょうか。
 結局これらの情報は、それまでも同じようにいろいろな情報が流れていたわけですが、それまで蓄積していた情報、あるいは知識によってもう一度分析されていきます。今回こういうことがきた、それではわれわれはどうしたらいいのか。松陰はへこを締めるいい機会だと言っている、まさにそうだ、何か藩当局に働きかけなければいけないというようなことになっていくわけです。







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