日本財団 図書館


 羊の前に台みたいなのがついていますが、これはアンカーチェーンを巻き上げるためのキャプスタンです。上から見ると丸くなっています。絵には描いていませんが、棒のようなものを何本か差し込んで、ここに水兵がまとわりついて、これでダーッと押してやる。当時はまだモーターなどなく、全部人力です。マストの前に、水兵が二人向かい合っていますが、そこが操舵輪です。
 ご覧になってわかるように、当時の船は上甲板には構造物はいっさいなく、のっぺらぼうといったスタイルです。居住区は上甲板より下にありました。前から順番にいくと、白い天井からぶら下がっているのがハンモックで、日本語では吊り床と称するものです。水兵の前を横切って紐みたいなものが見えますが、これがアンカーチェーンで部屋の中を走っています。これをキャプスタンで巻き上げて、下の鎖のチェーンロッカーというところに格納します。
 水兵の部屋の左側は黒く塗りつぶしてありますが、実はこの部分の図面がないのです。何か想定して書こうかと思ったのですが、それはまずいということで、わからないから黒くしておきました。大きな煙突のすぐ右横に何やら小さいものがついていますが、これは炊事用のかまどです。外輪の一部を切ったのが見えます。それから後ろの前半分が下士官の部屋です。後半分がオフィサーで一番後ろが艦長と提督の部屋です。
 帆船時代の部屋の配置はだいたいこういう考え方で、それとまったく同じです。一番偉い人が一番後ろにいるということです。絵ではわかりませんが、機関長などはオフィサーではないのですが、これがおもしろいところです。蒸気機関は帆の補助装置という考えで、機関長などは下士官の区画に入っています。
 それから部屋の下は倉庫区画です。わかりにくいですが、いろいろな種類の倉庫がずっと後ろまで並んでいます。その下の一番のボトムは倉庫です。前半分がいろいろな倉庫で、その下に四角く見えるところがありますが、これは弾薬庫です。弾薬庫の下に黒い粒々が見えますが、これは火薬庫にある弾丸で、火薬は前のほうにある四角い箱に入っています。
 次に水色の四角いのが水タンクで、その後ろは石炭庫です。石炭庫はここだけではなく、ボイラーやエンジンの外板に沿った区画が石炭庫です。この絵に出ている部分と、絵に出ていない側面が石炭庫だとご理解いただければありがたいと思います。後ろは同じように水色の部分が水タンク、その下に樽が積んであるのが見えますが、これが酒樽で酒がいっぱい積んであります。次が同じように弾薬庫と弾丸です。それから一番後ろが主として食料を積んでいる倉庫です。上甲板からすぐ下の部分が居住区で、その下の部分が倉庫であるとご理解いただければいいのではないかと思います。
 時間になりましたが、ごく簡単に小冊子のご説明をします。説明といっても、中の文章ではなく絵の説明です。せっかくお持ちの方が多いようですから、絵だけ簡単に5分ぐらいでお話ししようと思います。
 9ページぐらいまでは黒船の錦絵のような絵がいろいろ出ていますが、ここで注目していただきたいのは8ページです。8ページの船に“ミシシッピ”の図と書いてあります。これはご覧になってわかるように普通の錦絵とちょっと違い、非常に精密に書かれた当時としては珍しい絵だと思います。当時でもこういった精密画を描く人がいたのだということで非常におもしろいと思います。
 10ページ以降の絵は、その後ろにも出ているのですが、主としてペリーの遠征記に出ているものです。お帰りになるときに実物を覧になっていただきたいのですが、遠征記には絵がたくさん入っています。その絵から取った絵が多いのですが、10ページはペリー艦隊4隻が那覇港で停泊している絵です。11ページの絵は遠征記の絵とはちょっと違い、イラストレイテッド・ロンドンニュースから取った“ミシシッピ”の絵です。原画は非常に精密な絵で、よく描けているので載せました。
 右はおそらく本邦初公開ではないかと思うのですが、“サスケハナ”の銅版画で、非常によく描けている絵です。13ページにはセントヘレナ島に到着した“ミシシッピ”の絵が描いてあります。14ページはケープタウンの“ミシシッピ”です。左手前ではなく右の船です。その隣がマラッカ海峡を通る“ミシシッピ”の絵です。15ページの左下は江戸湾を進行中の絵なのですが15ページの右上が7月14日に久里浜に上陸するときの絵です。左上に蒸気船がチラッと見えますが、蒸気船が2隻です。このときに一緒にペリーの護衛にあたったのは蒸気船だけで、帆船は護衛にあたっていないということで“サスケハナ”と“ミシシッピ”の絵が描いてあります。その下は測量中のボートです。ペリーが来たときは江戸湾の海図などもちろんないですから、頻繁に測量をしているわけです。その測量の絵です。
 最後の16ページは左上は2度目に来航した3月8日の絵です。右は日付が入っていませんが、3月27日です。和親条約の調印が3月31日なので、その前にやった祝宴ということになります。ペリーの日記を見ると、このころになると日本側もだいぶアメリカ側と親しくなり、大変な賑わいだったと書いてあります。そして日本人というのは不思議なものを持っているということで、テーブルの上に山のように並んだご馳走が、帰ったら全部なくなってしまった。どうしたのかと思ったら、皆、風呂敷に入れて懐に入れて持って帰ったという話です。それが日記に長々と書いてあります。いまはそういうことをする人はいませんが、当時はそういうことは当たり前だったのかもしれません。以上で絵の説明を終わります。
 一応25分になりましたので、私の話は一通り終わりにします。質問があればお受けします。
司会 それでは元綱先生に何かご質問がある方がいらっしゃいましたら、お手を挙げてください。
質問 貴重なお話をありがとうございました。質問ですが、先ほどの操舵する場所はめくらになっているところでしょうか、それともデッキなどがあるような感じですが、それについて、艦長あるいは指揮者と操舵する場所、操舵員に対する連絡方法、そして操舵室はどこにあって、方法はどうだったのか。もう一点は大砲を撃つ場合、指揮官はどのような方法で大砲に伝えていたのかをお願いします。
元綱 帆船をご存じの方ならおわかりだと思うのですが、当時の帆船は、いまのように真ん中の高いところから操舵をやるということはなく、デッキの上に直接ありました。艦長の指示はマスターあたりがデッキにいてやる。“ポーハタン”などは外車の上に板を渡して、その上からいろいろな指揮をするということがあったのですが“サスケハナ”や“ミシシッピ”の場合はそれがないわけです。ですからデッキの上に指揮する人がいて、直接いろいろな指示をしたと考えられます。よろしいでしょうか。要するに操舵室というのはないのです。雨が降ったら合羽を着ながらやります。
司会 もうお一方、お願いします。
質問 耳が悪いので、ご説明を聞き逃したのかもしれませんが、二つ質問があります。黒船と申しますと、船体が全部、鉄でできているイメージするのですが、そういう船だったのでしょうか、それとも鉄骨木皮の船だったのでしょうか。それが一つです。もう一つ、ほかの船の名前は納得がいくのですが、“サスケハナ”というのは連想がつかないのですが、インディアン・ネームか何かの地名ですか。
元綱 もう一回繰り返しますが、黒船というのは黒いから鉄だと考えるかもしれませんが、鉄ではなく木の上をタール系の塗装で塗って黒く見えるから黒船と称したので、全部、木です。鉄を張ったというものではなく木です。
質問 明治になってからも、いくつかそういう船があったような気がしますが。
元綱 当時の軍艦はほとんど木造船なのです。薩英戦争のときのイギリスの軍艦7隻、その後下関に17隻か18隻の英仏の連合艦隊が来ますが、全部木です。鉄船が日本に来たのは、実は1隻ありまして、それも鉄ではなく、木造の上に鉄の装甲を張った船が1868年、神戸の沖に十何隻の連合艦隊が停泊しているのですが、その中の1隻が木造装甲艦で、私の調べた範囲では鉄を使った船はそれだけです。あとは全部木造船です。
 “サスケハナ”名前はいろいろ説があるのですが、川の名前ではないかというのも一つあります。たぶんその類だと思います。
司会 前の方からお願いします。
質問 いまの“サスケハナ”のイラスト図を見ますと、艦長室というのがないのですが、当時のアメリカ海軍は司令官が“サスケハナ”の艦を直率するのかどうか。それから各艦には艦長室が船尾のほうにあるわけなのでしょうか。
元綱 もちろん艦長というのは別にいます。これはちょっと絵が片舷しか描いていないから判然としないのですが、左側の左舷側に艦長室があって、右が司令官室です。もし小冊子をお持ちなら見ていただきたいのですが、小冊子の30ページに平面図が描いてあります。27ページには左舷側に艦長の部屋があるのが見えます。司令官のほかに各艦の艦長がいました。
司会 もうお一方、お願いします。
質問 図面で先ほどご説明いただきましたキャプスタンの位置がかなり後ろです。あまり前だと錨が早く落ち過ぎるとか、いろいろ理由があると思うのですが、キャプスタンに行くまでに途中支柱を通っていて支柱にどのように巻きつけてあるのか。構造上のことですが、もしわかればお願いします。
元綱 実は絵が小さいので、あまりはっきりしないのですが、後のほうの質問ですが、柱ではなく、これはビットです。側面を描くとこんなかっこうをしていて、デッキがこのへんで、このへんに巻きつけています。
質問 巻き上げるときにかなり巻きにくくなると思うのですが。
元綱 これは回らないです。固定です。帆船の絵などを見ると、これに器用に巻きつけている絵がありますが、だいたいそういうかっこうでやっています。
質問 するとアンカーの位置からチェーンロッカーの位置まではこれぐらいあったほうがいいということですか。
元綱 前のほうが狭くて、たぶんチェーンロッカーできなかったと思うのです。後ろのほうはチェーンだけでなく、いろいろ雑用に使ったと思います。重いものを持ち上げたりしますから、そのときに何も巻き上げる動力がなければどうしようもないので、そのためにかなり後ろのほうにも、たぶんついていたと考えます。
司会 よろしいでしょうか。それでは元綱先生、ありがとうございました。本日の“サスケハナ”についての講演はこれで終了いたします。本日はどうもありがとうございました。
 
平成15年9月14日(日) 於:フローティングパビリオン“羊蹄丸”
 
講師プロフィール
元綱数道(もとつな かずみち)
昭和7年(1932)3月6日生
昭和29年(1954)3月 東京大学船舶工学科卒業
昭和29年(1954)4月 石川島重工業(株)(現石川島播磨重工業(株))入社
昭和49年(1974)12月 船舶事業本部第1基本設計部長
昭和54年(1979)10月 船舶事業本部基本設計室長
昭和62年(1987)7月 理事船舶事業本部副本部長
昭和63年(1988)7月 理事技術本部副本部長
平成3年(1991)6月 取締役技術本部副本部長
平成4年(1992)6月 取締役技術本部長
平成5年(1993)6月 常務取締役技術本部長
平成8年(1996)6月 専務取締役
平成9年(1997)6月 常任顧問
平成12年(2000)6月 非常勤顧問
平成14年(2002)6月 退職
 
(その他船舶関係略歴)
昭和57年(1982)10月―62年(1987)3月 東京大学船舶工学科非常勤講師
平成9年(1997)5月―11年(1999)4月 日本造船学会副会長
平成11年(1999)5月―15年(2003)4月 日本造船学会顧問
現在日本造船学会、日本海事史学会 会員
 
著書
『商船設計の概要』(共著)
『商船設計の基礎知識』(共著)
『海洋工学の基礎知識』(共著)







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